最近は伺えていないのですが、いつも毎日拝める「伊予松山城」を除いて、きっちり四季の景色を満喫しているのがこの「会津若松城」です。
紅葉した木の隙間にちらっと天守閣が見えるのがわかるでしょうか。
明治維新の「会津戦争」が、この城での籠城戦を軸として展開されたので、周辺を何度も散策しました。
その中で「会津若松駅」の隣「七日町駅」の前に、当時唯一の遺構で小天守にあたる「御三階(内部は四階建)」を移築した「阿弥陀寺」があります。
この戦の死者をまとめて埋葬したそうですが、官軍が翌年まで遺体の埋葬を認めませんでした。
ひどい話で野犬に食べられてもそのまま放置させたそうです。
諸国列強の脅威に対抗すべく「日本」という国体が強く認識されている時代にしては、時代錯誤な感覚が否めません。
むしろ「弔う。」ことに関して比較的寛容な日本においては珍しく、当時の現地司令官の感性はひどかったのだと痛感します。
おかげで「会津」と「長州」は未だに和解出来ておらず、「萩市」からの友好都市としての持ちかけを「会津若松市」は断ったままのはずです。
「恨みを残す。」ことの空しさの教訓となります。
ただし、外国の歴史と比べると、こういった「屍に鞭打つ」ような事例は日本において極端に少ないといつも思います。
「和する。」ことを大事にするからこそ、危機管理能力がないと言われても、危機後の復活が早いことに、日本の強みを感じます。
0 件のコメント:
コメントを投稿