2026年2月21日土曜日

遠野城(鍋倉城)

岩手県の遠野市に宿泊して、早朝に城山散策をしました。

戦国時代から江戸時代にかけて、主に「遠野南部氏」の居城として、中世山城の構造を残したまま、近世城郭として活用されたという、変わった経歴を持つ城です。

曲輪の遺構が必見らしいのですが、雪が積もってこんもりとしてしまい、全くわからない状態でした。

石垣がある城郭なら、凍てついた石垣を楽しむことも出来るのですが、それもありません。

今は国史跡に指定され、天守閣風の展望台もあるそうですが、当時は何もなく雪山を一人で登っていきました。

人が見たら、死地に向かっているのではないかと誤解されそうです。

写真は、山頂の本丸で撮影した一枚ですが、針金のような枝を扇のように拡げた、一本の大木が出迎えてくれました。

朝焼けと木の陰影が素晴らしく、思わず見惚れてしまいます。

何も期待していなかったので、早起きは三文の徳だと、素直に実感が湧きました。

そのまま雪の中をズブズブと進んで、街並みが見える場所まで移動しました。

早めに脱出し、足元の雪を払わないとびしょ濡れになってしまうので、まごまご出来ません。

下の写真がそうなのですが、遠野の市街地が童話のような風景に見え、そのとき「雪中の狩人」という絵画が浮かびました。

狩人が犬を連れて、丘から街中を眺めている構図で、その狩人になったような錯覚が起こったのです。

作者は、ルネサンス後期の「ピーテル・ブリューゲル」という画家で、「バベルの塔」の作品で有名な方です。

示唆に富んだ題材が多く、寓話を散りばめるように、妖怪とかいっぱい描いています。

後で見比べると、先ほどの針金のような木までが描かれていて、イメージ以上に酷似していたことに驚きました。

ここから駅まで急がないと、予定の便に間に合わなくなるのですぐに失礼しましたが、城山に上って、童話の世界に入り込んだような感覚になったのは、初めての体験でした。

〝妖怪の里〟とも称される、遠野ならではの出来事だったのかもしれません。

2026年2月14日土曜日

雪のドライブ

 


島根県の松江市に住んでいたとき、ラッキーにもガレージを安い値段で借りることが出来ました。

オープンカーは、幌が特に傷みやすいので、本当に大助かりです。

また個室になるため、諸々の付属品を、車の邪魔にならないスペースに置くことが出来ました。

さすがに、島根は日本海側であるため、結構な雪が降ります。

そういうときに、タイヤにつける「チェーン」を、片付けずに置いておけるので、とても重宝しました。

この車の駆動方式は、後輪駆動であるため、雪が特に天敵となります。

どの車も、雪には十分気をつけないといけませんが、程度の問題として、駆動方式が前輪駆動の場合、雪で後輪が多少ブレても、駆動する前輪がグリップして何とか走行出来ます。

しかし後輪駆動は、後輪がブレると、駆動力のない前輪が踏ん張れずに一緒にブレてしまうため、カーブだとすぐに横を向いてしまいます。

真っすぐ走ることが、他の駆動方式に比べて、より困難になるのです。

その反動なのか、調子こいていました。

大雪でない日なら、雪景色を堪能すべく、チェーンを車に履かせて、近場をドライブして楽しんだのです。

「松江城」周辺は、特に坂道が少ないため、よく目指しました。

下の写真は、お城の脇にある県立図書館にて、撮影した一枚です。

黒い天守閣は森に隠れてしまい、拝めないのは少し残念ですが、走ってきた雪の轍が何とも溜まりません。

なんて事はないのですが、子供が雪だるまを作るに近い感覚なのか、まさしく童心100%の心境でした。


久しぶりにやってみたい気持ちになりましたが、今の車でやったら、ホイールスピンして、大変なことになるだろうなあ。

ここは大人でいこうと決意した次第です。

2026年2月7日土曜日

羽越本線


新潟県「新津駅」から秋田県「秋田駅」を結ぶ「羽越本線」。

東北地方の日本海側を縦断する大好きな路線です。

この写真は20年以上前の写真ですが、当時は東京から「ムーンライトえちご」を活用して「新潟駅」まで向かい、そこから北上していました。

東北地方の西側は、この路線を軸に各路線を毎シーズン横断して、全線制覇を進めていったのを思い出します。

少し前のブログで、「北陸本線」が「えちごトキめき鉄道」へと、名称が変更になっている話題を出しましたが、もう少し細かい話をすると、「北陸新幹線」が開通したことで、福井県「敦賀駅」から新潟県「直江津駅」のいわゆる一般路線の区間が、JRではなくなったのです。

つまり第三セクター化して、上記の鉄道を含む、複数の鉄道会社の運営に切り替わり、正確には違うのかもしれませんが、事実上「北陸本線」は消滅してしまいました。

そのため現時点で、自分が住む大坂から東方面の日本海側を「青春18切符」だけで走ろうと思えば、東京まで行き「高崎線・上越線」に乗り換えて、新潟方面からしか乗るしかないのです。

今は夜行のムーンライト系もないので、途中で1泊しないと辿り着けません。

また、別の機会に触れますが、昨年度に「青春18切符」の活用ルールが大きく変更されて、機動性が著しく低下してしまいました。

ざっくり言うと、連日乗り続けるしかその有効性を発揮できなくなったのです。

下の写真のように、荒れる東北地方の日本海を久しぶりに拝みたくなりました。 

新ルールでひたすら乗ってみようかと計画しています。

しかし懸念すべきことは他にもあります。

以前の「青春18切符」をフル活用しての旅では、雪が吹雪く冬に行動していても、当時は不思議なほど遅延がありませんでした。

最近は遅延の話題がやたらに目立ちます。

万が一遠方に行って帰れず、やむなく新幹線と飛行機で帰宅する事態は本末転倒であり、大した目的がないだけに絶対に避けたいところです。

実際に行動に移すか悩ましいところですが、待ち時間の停車駅で食していたカップうどんの「どん兵衛」を思い出します。

地域限定版に「芋煮味」があり、寒い中ですすりたい誘惑に駆られています。

ただし予定がうまくいかなければ、その一杯が数万円のコストに大化けするかもしれませんので、本当に痺れます。

2026年1月31日土曜日

北里駅跡


今回取り上げる「北里駅跡」は、廃線跡の関連史跡でも稀有な存在です。

駅のフォーム単独でメインなのです。

写真の通り、天に向かって両端が反った形の屋根や、短いですが堅牢な石造りのフォームは、ここに駅があったことを誇らしげに伝える素晴らしいモニュメントになっていました。

この雄々しいというか、むしろ猛々しいくらいのオーラを感じて、感動のあまりしばらく立ち尽くしてしまいました。

廃線跡巡りの深みにますますハマってしまいそうです。

大分県と熊本県に跨る「宮原線(みやのはるせん)」の熊本県側にあり、既に路線は1984年の国鉄時代に廃線となってしまいましたが、「久大線」の「恵良駅」から分岐して「肥後小国駅」までを結ぶ盲腸線でした。

ここに来る前に終点だった「肥後小国駅跡」にも立ち寄りましたが、おそらく線路であったであろう道路の脇に、駅名標と分岐箇所の線路が残されており、趣のある風情を醸し出していました。

しかし、この界隈は山越えに近い駅だったせいか、周辺がかなり新たに造成されています。

下の写真にある駅名標も、もともと別の位置にあったのが、移設されてフォームに鎮座している様子です。


どの辺に駅舎があって、線路がどのように走っていたのか、識別するのが非常に困難なロケーションでしたが、フォームの先に地下に続く階段を発見。

明かりもなく不気味でしたが、立入禁止ではないので降りてみました。

地下鉄の階段くらいの段数はあり、車を止めた道路沿いの反対側に続くようです。

その階段を降り横に続くトンネルを抜け出て、振り向いた景観が最後の写真で、線路を支えていた石垣の土台がしっかり残っていました。


やって来た車道に対して、平行に少し弧を描くように築かれており、この前後に繋がっている線路のイメージが何となく浮かびます。

それは、正しいかどうかも曖昧な空想の産物ですが、ここにやって来たことを心に刻む大切な要素であり、それをしっかりと行うことが出来ました。

新たな旅情を体験し、大満足でここを立ち去りました。

2026年1月24日土曜日

二尊院


山口県の「長門湯本温泉」に、世界三大美女で有名な「楊貴妃」をモチーフにした温泉宿があります。

宮廷風の浴室内に、立ったまま入浴する「楊貴妃風呂」がありました。

お取引先でもあり、社長にそのことを伺うと、この地域にはもともと「楊貴妃伝説」があり、お墓まであると熱っぽく語ってくれました。

こういう話は大好物です。

中国は唐の時代になりますが、「安禄山の乱」が起きたときに、「玄宗皇帝」の妃である彼女は殺されたことになっています。

しかし、犠牲になったのは身代わりで、本人は中国本土を逃れて、長門市の海岸線に逃れたという話なのです。

確かに、中国本土や朝鮮半島から、対馬海流に乗って対馬や壱岐島を通り抜ければ、山口県北東部に当たる長門市の海岸へ辿り着きそうです。

実際に、北九州のみならず、この界隈は大陸との交易ルートになっていたと思われるのです。

彼女のお墓は「二尊院」にあるとのことで、翌週末に向かいました。

地理的には、車の走行撮影で有名な「角島大橋」がかかる「角島」と、連続する赤い鳥居がインスタ映えすると有名になった「元乃隅神社」の中間に位置します。

そこは長門市街から、大きく突き出た半島になっていて、その入り江に面した高台にありました。

いかにも漂流してきた船が、落ち着きそうな場所です。

写真の通り、楊貴妃の大きな像があり、二枚目の写真にある通り、建物は唐風に仕上げられていました。

歩く場所も大陸風で、ほとんど石畳になっています。


最期の写真は彼女の墓です。

単独ではなく、逃れてきたであろう一団がまとまって葬られているのが印象的でした。

伝説はともかく、中国本土から脱出した一団が、流れ着く事象はそれなりにあったのかと思われます。

この時期、某新聞紙に「阿倍仲麻呂」が連載されていて、「楊貴妃」も登場してました。

私がここを訪問した数日後に、その小説のフィナーレがあったのですが、何と作者がここを訪問して締めくくっていました。

不思議な共感を感じた次第です。


2026年1月17日土曜日

廃仏毀釈(徳重神社)


鹿児島県日置市伊集院町にある「徳重神社」です。

鹿児島市から車で30分ほど、西北の方向に位置します。

写真の「手水舎(てみずや)」にも、島津家の家紋が大きく刻まれており、島津家とのゆかりが深いことは一目瞭然です。

しかし創祀されたのは、明治4年です。

何故こんなに新しいのか。

島津家は鎌倉御家人から続いているに。

以前のブログでも話題に出しました「廃物希釈」でお寺が消滅し、神社に変わったからです。

ここはもともと「妙円寺」で、今でも「妙円寺詣り」が運営されています。

大河ドラマ「西郷どん」の第一話に出てきた行事で、「関ヶ原の戦い」にて敵中突破をして生還した「島津義弘」の苦難をしのび、鹿児島城下からここまで詣でる行事です。

お寺のご本尊は「島津義弘公」の木像でしたが、今は神社のご神体となって祀られています。

鹿児島に着任するまでは、「廃物希釈」を当時の庶民による暴挙のように考えていましたが、薩摩藩の全体運動としての徹底ぶりに驚きました。

鹿児島市内の話になりますが、島津家の菩提寺だった「福昌寺」の跡地は、「玉龍高校」という進学校になっています。

ヤンキー漫画に出てきそうな校名だなと、失礼にも思ってしまったのですが、お寺の山号が「玉龍山」だったため、この名称になっているようです。

あらためて不届きな錯覚をしてしまい申し訳ありません。

現在でも山際の奥まった領域は歴代藩主の墓地であり、「島津斉彬公」も「島津久光公」もここに埋葬されています。

その菩提寺を、島津家自らが明治2年に廃寺にしているのです。

「斉彬公」も「久光公」も、国学・蘭学に傾倒していたため仏教嫌いだったという話もありますが、この流れが藩内に徹底されて1000以上あったお寺がひとつ残らず廃寺、伽藍・仏像が徹底的に破壊されました。

実際、県内をウロウロしていて、首がある石像を見たことがありません。

端数まで記されている数字に徹底ぶりが出ていて怖いですが、2946人いた僧侶は、全員が僧籍をはく奪されて、俗人に戻りました。

そのため、檀家制度に基づいた過去帳(戸籍の役割があった)も、寺院と共に消滅したため、鹿児島県人は江戸時代以前のルーツを調べることが出来ないそうです。

過去の歴史を無かったことにする施策が目立つ共産主義の国々でも、ここまで徹底された事例を聞いたことがないです。

中国の「文化大革命」と比較すると、それをほぼ無血に近い状況でやっている「徹底力」は何なのでしょうか。

上の権力層から下の庶民まで連動しているのは奇跡に近い現象です。

とは言え、下の写真のように今の神社はどこにいってものどかでした。

ドライブで車を脇に止めて拝礼しつつ、まったりさせてもらいました。

幕末の明治維新をけん引した「薩摩藩」の、この不思議な底力については継続的に調べてみたいです。


 

2026年1月10日土曜日

鹿島線

 


新年にふさわしい朝日でした。

元旦ではありませんが、冬季の「青春18切符」を活用して、千葉県と茨城県の県境を流れる「利根川」を跨ぐ、「利根川橋梁」を渡ったときに拝んだ朝日です。

このときは、「鹿島線」を完乗するため、「香取駅」から「十二橋駅」を渡りました。

厳密には、この橋梁を渡って、更にその先にある「霞ヶ浦」から流れ出ている支流の「常陸利根川」を越えて、「潮来(いたこ)駅」まで行かないと、茨城県に入れません。

更に川下で合流し「利根川」になるのです。

ただ、全国第2位の長さを誇る「利根川」河口域の独特の風情は、ここが象徴的に体現していると思います。

朝日の手前に見える橋梁は高速道路で、この橋梁とほぼ並行して走っており、自分を鏡合わせに眺めているような錯覚が起こります。

下の写真は、「鹿島線」を折り返して戻るときに、同じ橋梁から対岸に向けて撮影したものですが、この見通しの良い天候でも、はっきり対岸を撮影することは出来ませんでした。

日本の地理上で、天候が良くて対岸がはっきり見えないというのは、過去の経験上あり得ないスケールの大きさです。

この河口の広大さを強く実感した一枚となりました。


鉄道写真として、河口風景で印象的だったのは、福井県と京都府にある「若狭湾」を結ぶ「北近畿タンゴ鉄道」です。

そこの由良川を渡る「由良川橋梁」は、高さがないので水面スレスレを走っているなスリルを感じます。

ここも長い橋梁ですが、それでも対岸は普通に見えていました。

一番長い川は新潟県の「信濃川」ですが、そもそも河口近くに鉄路がないので、ここには比較対象が存在しません。

現時点では、自分にとっての河口写真ベストワンは「利根川」になります。

このときは、終点の「鹿島サッカースタジアム駅」に着いて、下車することもなくそのまま戻ってきてしまいました。

ここから先の「鹿島臨海鉄道」は既に完乗しています。

しかし、よくよく考えれば、「鹿島神宮」にも「香取神宮」にも行ってませんでした。

今、神社に大変興味を持っていて、いろいろ調べているのですが、明治以前から「神宮」の名称で呼ばれているのは、「伊勢神宮」を筆頭に、この2社を合わせて3社のみなのです。

何故、このときに参拝しておかなかったのだろうと、悔いを残しています。

近いうちに行きたいと思いますが、かなり遠いため、いつのことになるやらと不安が募りました。