2026年9月12日土曜日

黒部ケーブルカー


このケーブルカーは、富山側の「美女平」から「富山電鉄富山駅」を結ぶ「立山ケーブルカー」です。

今回、長野県側から立山アルペンルートを横断しました。

実際に移動して、これだけ多くの乗り物を活用しているのかと、ビックリしました。

長野県の内陸部と日本海を結ぶ「JR大糸線」の「信濃大町駅」からスタートしますが、

①一般のバス⇒②登山用バス⇒③電気バス⇒徒歩(黒部ダム)⇒④ケーブルカー⇒⑤ロープウェイ⇒⑥トロリーバス⇒⑦登山用バス⇒⑧ケーブルカー⇒⑨電車

と、9つの交通機関を経て、富山県側の「JR富山駅」に辿り着きます。

乗り通しても、割引とかの適用はなく、それぞれ別料金のようなので、結構なお値段になってビックリでした。

このケーブルカーは、⑧になるわけですが、その形状に衝撃を受けました。

写真の通り、運転席と乗客部分が前後に分かれて二つありますが、間の黒い部分は運搬スペースになっており、伐採した木材を乗せたり出来るように長く設計されていたのです。

乗り場に到着し、後方の乗客部分に、普通のケーブルカーと疑うことなく乗り込みました。

出発時、前方部分はトンネル内に隠れていたため、この長さに全く気づかず、動き出してトンネルの進行方向を眺めていても、暗いため黒い部分は全く見えません。

そうすると、人の入った箱が遠くに浮かんで見えるという、幽霊に遭遇したような前方車窓になりました。

何故、あそこに人が座っているんだろう。

ちょっとイリュージョンを感じてしまう不思議な空間です。

到着する前に明るくなり、全体像がわかると思わず吹き出してしまいました。

しかし、400mの高低差を1,300mのほぼ直線ルートで上り下りする手段は、物資輸送として、とても効率的に思えました。

ここで初めて見たのですが、他でも活用されているのでしょうか。

そもそもケーブルカーの車種を考えたことがないのですが、自身が降りてきた見上げるような斜度を眺めて、ケーブルカーの力強さに感動してしまいました。

乗り鉄として、今のところケーブルカーは範疇に入っていませんが、JR・私鉄・路面電車・モノレールを制覇している状況なので、これから挑む世界になるかもしれません。

いい加減にしないと、と思うのですが・・・。

下の写真は、最後の乗り物になる富山電鉄の電車です。

これから富山の魚を食べに向かいましたが、その前に寄り道して食べた焼きそばは失敗でした。


2026年9月5日土曜日

積翠園(しゃくすいえん)


古本屋で買った、日本庭園を紹介した本を参考にして、京都市内を散策することがあります。

このときは、京都郊外まで車でやって来て、そこから折りたたみ自転車を活用して、七条通をひたすら東進しました。

この庭園は、通りが終わる突き当りにあり、京都国立博物館のある隣の区画になります。

到着したのですが、入口が見当たりません。

昭和に出版された本のため、現状が変わっていることは重々承知していますが、示されていた入り口は、高級老人ホームのエントランスの勝手口となっていて施錠されていました。


仕方ないので、そのエントランスで警備している方にお伺いすると、ホテルの庭になっているが、フロントで見学の趣旨を伝えたら、そのまま入れるとの説明でした。

そのホテルは、外資系の有名なホテルです。

もともと病院が管理している庭だったらしいので、その病院が売却されてホテルに建て替わったのだと思いました。

まさしくその通りだったのですが、9月初旬の暑い中、自転車に乗った汗まみれの状態で、ホテルに行くのは、私でも抵抗がありました。

こんな小汚い姿で大丈夫かと心配になりましたが、引き返すのも癪なので、勇気を出して向かいました。

道路の入り際から竹林になっていて、石畳の歩道を自転車を手押しで進みます。

もう外界との空気が変わってきました。

しばらく行くと、下の写真の通り、背の高い木組みの屋根の下に高級外車が並んでいます。


案の定の展開です。

そして、入口に数人のフロントマンが待機していて、近づく私を訝しい目で見ています。

意外だったのは、全員が東南アジア系の方々でした。

しかし、動きは洗練されていて、要件を伝えると笑顔で案内してくれました。

自転車の置き場所を伺うと、戻ってくるまで、そのまま預かるとのこと。

おそらくそんな空間ないのでしょう。

エントランスに入ると、全く日本語が聞こえません。

東南アジアで選抜された(と思われる)ホテルマンが、外国のお金持ち(そうに見える人々)を接客してました。

庭へ案内されながら、周囲を見回しましたが、日本人は一人もいないようです。

このとき、上海の租界が頭に浮かびました。

京都に、日本とここまで隔絶された空間があるのかと驚きです。

しかし、庭のエリアに入ると、森に入ったかのような空気に変わりました。

最初の写真に写っている鷺が、静かに通路で迎えてくれます。

そのまま散策を始めると、ホテルが壁のようにそそり立っていますが、意外に違和感がありませんでした。


その足元に、池泉式庭園が忘れられたように残されていて、丁寧に手入れされた自然が保たれています。

自分の呼吸の音が聞こえても、申し訳ないような静寂を極めた空間です。

夜は照明で奢られて、各部屋から庭園が堪能出来るに違いありませんが、これだけの素晴らしい庭が、外国の方々の貸切状態になっていて、日本人に忘れ去られようとしているのが残念でなりませんでした。

最後の写真に映っている鯉を見て「塔の中のラプンチェル」を思い出しました。




2026年8月29日土曜日

保渡田古墳群の埴輪


群馬県高崎市にある「保渡田古墳群」にある八幡塚古墳の後円部からの景観です。

この古墳と二子山古墳の2基が復元されており、多種の埴輪が数多く陳列されています。

古墳自体の長さは100m超の長さですが、写真に見える小さな円墳が4基も脇を固め、更に2重の堀が囲むという、広大な敷地を有しています。

古墳の大きさを決める順番は、前方後円部本体のみの長さを基準にしてますが、堀も含めた長さと面積や、盛り上げた土の体積も考慮すると、順位がかなり変わってきます。

実際に作った方々は何を基準にして、規模を競っていたのか、はっきりしません。

5世紀頃の古墳時代に、正確な数値を測定していたとも思えず、見た目の印象がかなり重要視されたのではないでしょうか。

この古墳の主は、堀の中に小さな円墳を配置するなど、個性で勝負するつもりで築いたのではないかと、勝手に想像してしまいました。

下の写真は、外側の堀から撮影しましたが、人の背丈の高さからだと、堀がとても目立ちますし、墳丘は長さよりも、山のように高さを重視したほうが見栄えが良いと確信しました。


最近ドローンを活用した風景撮影が重宝されていて、立体的な楽しい視点ですが、昔の方々にはあり得ないことです。

AIも加わって、様々な視点や切り口が増えていくと思いますが、本来はどうだったのか、そもそもの原点を忘れない着眼点は、今まで以上に重要だと、自分に言い聞かせています。

訪問が夕方になってしまったため、隣接していた資料館は閉まっていたのですが、その周囲に盾を構えた埴輪が複数置かれていました。

顔の模様も入れ墨だと思われますが、戦闘集団の佇まいを感じますし、西日本との明らかな違いが伺えます。

従属的に思えない関東圏の古代世界について、より興味を持って調べていきたいと思います。

2026年8月22日土曜日

稲荷山古墳の鉄剣


写真の鉄剣を目の当たりにして、感動すると同時に猛省しました。

奥様の実家がある場所から、10数キロしか離れていないにも関わらず、やって来たのはつい最近です。

歴史好きとして、教科書級の「さきたま古墳群(行田市)」に出向いてなかったことに、一緒に連れてきた子供たちの背中を眺めながら恥じ入ってしまいました。

この子らが行きたいと言い出さなかったら、おそらく行ってません。

最近、古代史に特に興味が出てきて、様々な場所をウロウロしているにも関わらずです。

冒頭の鉄剣は、「稲荷山古墳の鉄剣」と呼ばれ、5世紀後半(推定)の古墳時代に作られ、国宝に指定されています。

刀身に、115文字の金象嵌銘文が刻まれており、ワカタケル大王(雄略天皇)に仕えた「ヲワケ」という人物の功績や系譜が記されているという、古代史上屈指の宝物であり資料なのです。

模造品ですが、眩いばかりのショーケースに入れられ、神々しいオーラを発しています。

ルーブル美術館で観た「ハンムラビ法典」に匹敵する気がしました。

馬や武具に関連する埴輪等も充実していて、また来たい衝動にかられています。

下の写真は、鉄剣が見つかった「稲荷山古墳」です。

散策コースとして登頂することも可能で、最も高い後円部には、どのような状態で鉄剣や埋蔵物が発見されたかの丁寧な解説があり、とても勉強になりました。

他にも、日本最大の円墳「丸墓山古墳」を始め、大小様々な古墳が集中していて、無料開放されていたのには感激です。

散歩だけでなく、トレーニングに走っている方もいて、アップ(古墳登頂部)とダウン(堀跡)のある素晴らしいコースです。

また、あらためて思い知ったのは、坂東平野における馬の重要性です。

平地で戦うため、騎馬の重要性が、他の地域よりも際立っているように思えました。

観光地が何もないと言われる埼玉県ですが、大宮市にある「鉄道博物館」の次くらいに取り上げたいと、謹んで喧伝いたします。

2026年8月15日土曜日

回天(平生基地)


山口県東南部の平生町にある「阿多田交流館」です。

企業訪問に向かう道中、カーブ越しに写真の〝回天〟が突然現れてビックリしました。

回天とは、太平洋戦争末期に開発された有人魚雷で、海で特攻するための兵器です。

以前にも、同県周南市沖合の大津島にある「回天訓練基地跡」を取り上げましたが、そのとき基地跡はしっかり見学したものの、回天記念館は閉まっていたため、実物や模型を拝見してませんでした。

それ以外にも、回天に関わる史跡は3つあったらしく、ここはその一つ「回天平生基地跡」になるそうです。

現在は資料館になっていて、その駐車場に鎮座してました。

訪問の帰りに、次の予定まで余裕があったので、写真を撮ろうと駐車場に入りました。

実寸大の模型のようですが、その長さに驚きです。

カメラの枠に中々入り切らず苦労しましたが、何とか前・横・後と、しっかり納めることが出来ました。


特に真横は、駐車場から出て、車道側から柵にへばりついて撮影。

かなり怪しい人です。

後ろから見ると、ただの棒状ではなく、抑揚ある流線形であったことを発見し、思わず感動してしまいました。


実は、海辺の鉄道ジオラマを作成中で、係留された潜水艦を組み入れたのですが、その潜水艦が回天を、親亀子亀のように搭載していたのです。

1/700の縮尺だったので、回天は爪楊枝くらいのサイズにしかなりませんが、これを観察したことで、作りこみのイメージが全く違ってきました。

やはり神こそ細部に宿ります。

最期の写真は内部構造の説明版ですが、丁度コクピットのある当たりに設置されてました。

本当に、一人の成年男子が乗り込み、敵艦への体当たりを目指した歴史を考えると、二度と製造してはならない兵器です。

鎮魂の意味も込めて、ジオラマを丁寧に仕上げたいと、オタクなりに気が引き締まりました。

ただ、何よりも大事なのは次のアポです。

うっかり忘れるところでした。


2026年8月8日土曜日

長崎平和公園


長崎市にある「長崎平和公園」を漸く訪れました。

近くに何度か来ていたのですが、その脇を車や路面電車で通り過ぎるのみで、気になりつつも行けてませんでした。

このときの旅は、ここを主要目的にしていたので、写真にある「平和祈念像」が見つめる南側の正面口から、ずっと歩いてきて背後の北限まで、じっくりと散策しました。

意外に感じたのは、この公園の形が思った以上に、細長かったことです。

このことは、原爆投下の解説版を見て納得しました。

目的地より、風の影響で北に流されて、縦長の形をした丘が爆心地になったからでした。

本来の予定地は、中華街のある市街地であり、あの未曽有の大被害でも、効果が半減していたことに大きな衝撃を受けました。

計画通りに落ちていたら、更に被害が拡大したことになります。

また、歩きながら思い起こしていたのは、ここに投下された原子爆弾のニックネームです。

ファットマン。

太った男という意味で、広島でその実寸大の模型を見たかと思いますが、本当に丸々と太った球形に近い代物でした。

風の抵抗は、かなり受けそうです。

しかしネーミングセンスは、アメリカン・ブラックジョークの極致ですし、細長い公園が蹂躙されたような不愉快な気分になってしまいました。

加えて、下の写真です。

途中、公園内に半地下みたいな踊り場があり、そこのガラス越しに原爆投下時の地層が見えるようになっていました。

瓦とかガラス瓶が、高熱で溶けて、一塊になっているのです。

そして、その印象を残したまま「平和祈念像」を見ると、人がモチーフになっていますが、変な位置に造形された関節がやたらと気になりました。

アートなのでしょうが、全体のフォルムとしても、奇妙な塊感が生まれており、グロテスクな心象を抱いてしまいました。

この暗黒面に落ちたような気持ちは、別の機会に再訪して、リセットしたいと考えています。
 

2026年8月1日土曜日

神武東征


空も海も真夏仕様で、海の猛々しさに目を見張りました。

写真に見える通り、波はかなりの高さで岸に迫っている様子で、海岸に近づくのが躊躇されます。

数日前の台風の影響が残っているようです。

車が近くにあると錯覚してしまいますが、実は高台に止めていて段差になっています。

加えて大きな砂浜により、海辺までの距離を保っています。

鹿児島県東串良町にある、肝属川の河口付近になりますが、下の写真の「神武天皇ご出航碑」が建立された神社が、すぐ近くにあります。

いわゆる「神武東征」がスタートした候補地の一つであり、初代天皇とされる神武天皇が、ここから兵を船に乗せて出征し、大和を攻略したという神話です。

実在が疑わしい天皇ですが、史跡をウロウロしている自分としては、比定すべき人物はいたような気がしてなりません。

ここは、鹿児島県でも西寄りの辺鄙な場所で、陸路で進むなら、かなり閉ざされた地域となります。

しかし、驚くほどに大規模な古墳群や史跡が、豊富に残っている地域であり、黒潮をうまく利用した交易の形跡が多分に感じられます。

ここを訪れたおかげで、古代史における前提として、海路で通じた人々の交流を、体感的に考えることが出来るようになった次第です。

自分の新しい趣味の扉が、大きく開きつつあるのを感じる瞬間でした。

外海の荒れた海原は、そんな妄想にふさわしい光景でした。