2026年10月31日土曜日

聖ソフィア大聖堂

 

哈爾濱(パルピン)を代表する欧風建築物「聖ソフィア大聖堂」です。

緑色のネギ型のドーム屋根が、強いアクセントになり、「ロシア正教」の教会であることを強く誇示しています。

地上から上を見上げるようにして見学しましたが、吹雪いて霞んでいました。

写真のこげ茶色の壁にチラチラ見える白いモノは雪です。

時期は10月中旬ですが、やって来たこの日に本格的な雪が降り始めたそうです。

中国について3日目なのですが、初日の関西国際空港から大連へ向かうときは、まだ蒸し暑くてTシャツ1枚で動いてました。

大連から、ロシア国境に向けて北上していったのですが、現地の高速鉄道を使用し、「大連北駅」から「哈爾濱南駅」までは、所要時間5時間ほどで向かうことが出来ます。

所要時間の短さに驚きました。

平原を突き抜ける直線コースなので、おそろしく利便性が向上しているのです。

高速鉄道が存在してなかった学生時代に、もし一般車両で向かったなら何日かかるのでしょうか。

途中、長春で下車し一泊しているので、実際にかかった時間は違いますが、その5時間で残暑の季節から真冬に突入することになりました。

防寒準備は入念にしていたのですが、明らかに体がついてきません。

使い捨てカイロをいきなり3つ使用し、この周辺を散策しました。

この建物は、歴史建造物として十分な貫録を備えていますが、建てられたのは1907年であり、日露戦争終結後のことで、かなり新しいことに驚きました。

帝政ロシア兵士に対する従軍用協会として創建されたらしく、地域に根を張っていく宗教活動の土台はなかったようです。

日本が1931年の満州事変にて、東北地方を席巻し、満州帝国を建国するまで、この地域はロシアの積極的な植民地経営の舞台であったことがよくわかります。

それでも、戦後に社会主義となり、文化大革命を経てきた中国の経緯を踏まえると、無事に残されているのは奇跡だと、ガイドの方から伺いました。

当時の共産主義の観点からすれば、「ロシア正教」も含めた宗教は、不要で邪魔な代物です。

実際、この都市にあった多くの教会は、それらの勢力に壊されて消滅してしまっています。

ここも廃墟に近い状態になったらしいですが、何とか箱ものとして命脈を保ち、今は観光スポットになっているのです。

下の写真に映っているように、正面玄関のところで女性がポーズをとっていました。

ロシア独特の帽子を被っていますが、白雪姫のような恰好をしていて、ハトのオブジェを両手に添え、カメラマンの前で微笑んでいます。

綺麗な方で、とても服装の雰囲気に似合っていました。

周囲にスタッフらしき方々もいたので、ガイドの方に何かのロケかと伺うと、ただのコスプレとのこと。

若い娘さん達が、この教会を背景に、御姫様ファッションで撮影をするのが流行っているそうです。

確かにスタッフらしい集団をよく見ると、同じようなお姫様ファッションの女性が、カメラマンとペアになって、順番待ちをしているのでした。

みなさん、個々に専属カメラマンを雇い、有名な撮影スポットを周遊するそうです。


しかし、ルッキズムで申し訳ないのですが、今の方がピカ一に見えます。

この瞬間を一緒に撮影させてもらい、貴重な機会が得られたと嬉しくなりました。


最期の写真を見ると、降り始めた雪が素晴らしい演出効果を生んでいたと実感します。

2026年10月24日土曜日

中国の東北料理

 

今回の旅行ではガイドを、長春と哈爾濱(ハルピン)で依頼しました。

長春は午後のみでしたが、希望した場所を車で巡回しているときに、料理の話となり、今回の旅行でどうしても食べたいものが一つあったので、それを質問しました。

「こうりゃんを使った料理を食べたいのですが。」

意外な答えが返ってきました。

「こうりゃんは美味しくないので、今の中国人は食べません。米かトウモロコシが主食です。」

昔、中学の地理で、中国東北地方の主食は〝こうりゃん〟と習った記憶があります。

満州帝国時代に作成された切手にも、日本側を代表して稲穂、中国側を代表してこうりゃんが、縁取りとして描かれていました。

わかっていませんが、イネ科の一年草で、世界五大穀物の1つである〝ソルガム〟の中国名だそうです。

ガイドの方が、若い運転手にも聞きます。

「お前、こうりゃん食べたことあるか。」

「一度もない。」

あっけなくあきらめることになりました。

また、上記の写真は、この後向かった哈爾濱にて、ガイドと運転手の方と食した伝統的な東北地方の鍋料理です。

鍋がテーブルと一体化しています。

鍋をどうやって洗うのか不思議です。

具は個別に注文しますが、今回は鶏を主体とした構成にしました。

更に牛や豚を混ぜて入れてもいいそうで、何でもありのようです。

ガイドの方から、四川料理と比較した説明がありました。

「四川地方は、湿気が高いため、汗をかいて体温を下げる必要があり、辛い料理が多くなりますが、東北地方は乾燥して寒いため、反対に体に熱を貯める必要があり、脂っこい料理が中心になります。」

なるほどと思いながら食しますが、すき焼きを更に煮詰めたような感じで、確かに脂っこいです。

日本のサッパリした鍋とは随分異なりました。

しかも、下の写真にあるように、鶏肉と言っても足先ばかりで、まあまあグロテスクです。

足の鱗のようなところが、コラーゲンたっぷりで美味しいと勧めしてくれましたが、身が少なくてかじりにくいうえに、指の関節が触感に入ってくるため、どうも食欲が湧きません。

最も美味しかったのは、トウモロコシでした。

「日本のトウモロコシは、シャキシャキして甘いので、こちらではスイートコーンと呼ばれます。ここのトウモロコシは、モチモチしています。」

と解説があり、鍋の中で輪切りになっている一つを口に運びます。

脂っこい鍋のエキスが、一緒に入れているトウモロコシにしみ込んで、ジューシーな味わいになっており、確かにモッチリしています。

まるでかみ切りやすいモチのようでした。


結局、かなりの量を残しましたが、余らすのが中国流です。

最期の写真にある、中華まんの生地だけを棒状に練ったものも美味しかったのですが、結構な量だったので、一本しか食べませんでした。

予備食として、折に入れて持って帰りたかったですが、ここの流儀に従いあきらめました。

でも、これ全部残すのは、流石にもったいないです。

2026年10月17日土曜日

長春散策(関東軍②)


最初の写真は、長春にある「旧関東軍司令部」です。

日本で1930年代に流行した、和洋折衷の建築様式である「帝冠様式」が、現在も威厳を放っています。

以前に取り上げた、大連にある「関東軍司令部」は廃墟になっていましたが、この建物は現役バリバリで、今も「中国共産党吉林省委員会」が使用しています。

満州帝国の権力を誇示するランドマークでしたが、帝国が消滅した後を、権威主義国家の中枢を担う機関が引き継いだことで、過去からの異様な威厳をそのまま現代に保持しています。

ここだけは、門前で立ち止まったり、その前で写真を撮ることを禁止されていました。

反対側の通りを歩きながら、おそるおそる撮影した次第です。

当時もこんな雰囲気だったろうと、素直に感じますし、違和感がないとおかしいはずの日本城郭風の建物が、とても馴染んでいるのが不思議でした。

周囲の環境も影響しているからでしょう。

長春は、満州帝国の都として「新京」と改称され、革新的な都市計画に基づき建設された都市でした。

他の中国東北地方の都市には、日本的な雰囲気を感じる建物が残っていますが、日本人が建設していても、その様式は様々です。

しかし、ここは経緯からして別格の存在となっており、当時の国策を担う主要な施設が「帝冠様式」で統一感を持って建設されているため、日本の帝国主義を強く意識させる空間として残っています。

それらが、同じように主要な施設として継続活用されているのです。

それらの建物は、現在使用されている建物名称と別に、史跡としての名称が刻印されていますが、その冒頭には〝偽満州〟という言葉が、必ず追記されていました。

満州帝国は認めない、偽りの存在という意味でしょう。

下の写真は、「偽満州交通部旧史址」です。

必ずと言ってよいほど、玄関先に掲げられいる赤い旗を見ていると、国旗が変わった以外は、都市全体がタイムカプセルに入っているような気がしてきます。

かなり不気味に感じながら、散策しました。

2026年10月10日土曜日

新京ヤマトホテル


前回の本屋さんで取り上げた長春の宿泊先が、写真の「春誼賓館(しゅんぎひんかん)」で、昔は「新京ヤマトホテル」と呼ばれていました。

戦前戦中の「満州鉄道」が運営していたヤマトホテルの第一号であり、その場にふさわしく「長春駅」の目の前に鎮座しています。

ただ残念なことに、早い時期に改修が進められたため、原型を残す部分が少なくなっていると、旅行本には書かれていました。

それでもクラシックな趣はしっかり残っており、それなりの雰囲気を感じることが出来ます。

玄関を入ると、エントランス正面に、下の写真にある中央階段が出迎えてくれました。

真新しく塗り直されていますが、高い天井に伸びている幅広の階段は、おそらく昔の規模のままであり、この地域に進出してきた日本の威厳を示すためであろうと、推察されます。

開業は明治43年(1910年)であり、日露戦争に勝利した日本が、中国東北部(満州)に地盤を築こうとした時期に当たります。

日本は、この長春から南に続く鉄道の権益を手に入れ、「南満州鉄道」がその経営を担いました。

満州の南部になるため、そのときは会社名に〝南〟がつきます。

まだ長春から北は、ロシアが敷設した「東清鉄道」の管轄下にあり、お互いの鉄道の接続点となるため、日露戦争によりロシアが後退したとはいえ、日ロの面子がぶつかり合う地域となっていたのです。

双方の鉄道の線路幅(軌間)が違うため、この駅で乗客は必ず乗り換えることになります。

そのため、宿泊する機会が多く、ホテルは日本を宣伝するアイコンとしての意味合いがあったでしょう。

そのためか、当時の世界で最先端のアールヌーボー様式が採用され、見事な装飾が奢られました。

しかし、その後に「満州事変」が勃発し、満州全域が日本の勢力下なったことから、1935年に、「東清鉄道」は満州国に売却されます。

その後の展開は、次回に述べていきますが、このホテルの存在は、国策そのものと言っても過言ではありません。

そう考えると、単なるノスタルジー的な満足ではなく、往時のままの雰囲気を純粋に味わいたい欲が出てきました。


最期の写真は、部屋の前にある廊下ですが、とても落ち着いた空間で、癒された一泊となりました。


 

2026年10月3日土曜日

長春の本屋さん


中国の街並みを歩いていると、町の本屋を全く見かけません。

いつもないかな、と無意識に探している自分に気がつくことがあります。

でも、やっと見つけました。

写真の建物が、長春で宿泊したホテルの近くにあったのです。

背の高い窓からの照明が洗練されていて、落ち着いた雰囲気が漂っています。

中国特有の雑多な気配が、ここまで捨像されているのに、かなり驚きました。

下の写真の通り、入口脇にプレートが貼られていて、外観からしても何かの史跡です。

満州鉄道が設立した図書館跡で、それが本屋に改装されていました。

何となく想像した通りです。


中国語の地図が欲しかったので、迷うことなく入館しました。

閉店間際だったらしく、私と入れ替わるように最後の客が出て行きます。

片づけも始めているタイミングだったらしく、上品そうな女性定員さんが少し困ったような表情をされたのですが、日本人で地図が欲しいと伝えると、笑顔でその場所に案内してくれました。

ほぼ目的に近いものを、すぐに見つけることが出来たので、すぐに購入すべくカウンターに向かいました。

しかし、重ねて申し訳なかったのは、既にお金を金庫に閉まっていたようで、もう一度開けて会計させる羽目に。

お手間をかけたお詫びをすると、にこやかに微笑んで返してくれました。

こういう建物にお勤めなだけに、和風テイストにされているのかもしれませんが、自己主張のはっきりした女性が多い国柄で、このリアクションはとても珍しく、嬉しく感じました。

とても清々しい心地で、ここを後にしたのですが、驚く光景が待っていました。


この図書館から、すぐの角を曲がると、白菜の大軍が待ち構えていたのです。

よく冷えて柔らかくなるのかもしれませんが、ここもビル街の瀟洒な通りです。

この無神経な感じ、やっぱり中国に来ていると、我に返った次第です。

しかし、このオフィス街に、どんな職業の方が並べたんだろう。

2026年9月26日土曜日

731部隊


高市政権が誕生した頃の、2025年10月に中国を旅してきました。

帰って来た直後に、台湾有事に関する発言で、日中関係が悪化し始めたので、すごいタイミングの訪中だったと思います。

ただ、日本のマスコミが伝えている内容と、実際に旅した印象は、ずいぶんと違っているので、その辺りを比較しつつ取り上げたいと思います。

旅立つ前も、「反日テーマの映画が、中国内で立て続けに上映されていて、反日感情が高まっている。」と、ネガティブな報道が結構流されていました。

このときは、日本側だけが騒いでいたようで、中国側から目立つ動きはなかったと思います。

写真は、まさしく反日映画「731」のポスターの一枚です。

太平洋戦争中に、細菌兵器の開発のため人体実験を行った「石井731部隊」を題材にしており、現地の映画館で観てきました。

極寒の中、何故か花魁道中が出てきたりと、かなり現実感に乏しい作品でしたが、残虐な日本人はしっかり登場していました。

その陰惨な現場は、中国東北部の哈爾濱(ハルピン)郊外に、今も残されています。

日本の終戦をテーマにした番組とかで、よく取り上げられる場所ですが、いつも禍々しい雰囲気で映し出されています。

しかし、行ってみると、印象が随分と違いました。

「侵華日軍第七三一部隊遺址」という物々しい名称で、大きな博物館も併設されていますが、観光施設としての雰囲気が強いのです。

その博物館は、約一時間待ちの大行列で、10月なのに雪が降っている中を、ガイドの人と一緒に並びました。

日本は、まだ蒸し暑い感じが残っていただけに、体がついてけません。

待っている間、ガイドの方と日本語で話すしかないので、ここで喋って大丈夫なのかと、おそるおそる聞いてみましたが、全く心配しなくていい、との回答。

実際、日本語で喋っても、周囲も雑談で盛り上がっていて、日本人とか関係ないようです。

それなりに緊張していたので、拍子抜けしました。

ただ、博物館の大きなロビーには、ここの映画が上映中ということもあって、何種類ものポスターがこれでもかと掲示されていました。

博物館内は、お約束の蝋人形を展示しており、ショッキングなシーンが表現されていました。

私はその前で、日本語での説明を聞いているのですが、皆さん気にならないようです。

この辺のギャップには、あとあと気がつくことが多々ありました。

ここは愛国教育のために、日本人が中国人にどんなにひどいことをしたか忘れないための、〝国恥施設〟になります。

下の写真は、発掘された建物跡ですが、大屋根に覆われて、徹底して保存されていました。

人の感情とは別に、国としては「遠い過去には絶対しない。」という強固な意思を感じます。


最期の写真は、ここのアイコンである「ボイラー棟の残骸」です。

補強された裏側から撮影したもので、張りぼて状態に驚きました。

残念だったのは、表側に回ろうとしたとき、携帯の充電が20%は残っていたのに、突然切れてしまい、正面からの記念撮影が出来なくなったことです。

氷点下近いため、充電が不十分だと切れてしまうと、ガイドさんから先に言って欲しかった説明がありました。

凹んで表に回ると、小学生の低学年くらいの集団が記念写真を、微笑ましく撮っています。

どうも遠足のようです。

おそらく愛国教育による「憎むべき日本人像」があまりにもおぞまし過ぎるのでしょう。

実際に目の前にいる日本人とのギャップが大き過ぎて、同じ存在である実感を、みなさん抱いていないように感じてしまいました。

2026年9月19日土曜日

犬山城


夕焼けの「犬山城」です。

今回は仕事で、この界隈に一泊することになり、夕刻に到着しました。

最古の現存天守で、国宝に指定されており、城好きなら知らない人はいないでしょう。

この地域に向かうときには、この城が拝める木曽川の橋を、少々遠回りしてでも通りました。

毎度のことですが、木曽川の南岸に佇む景観がたまりません。

この川を、ヨーロッパを貫く大河である「ライン川」に例える形容がありますが、この古城の存在感が、ライン川沿いの「古城街道」を彷彿させるからだと思います。

卒業旅行でドイツに行ったことがあるのですが、近い風情を醸し出していました。

いつも車で通り過ぎることがほとんどなので、今日は宿泊先から徒歩で、周辺を散策してみます。

この川に掛かる「犬山橋」から眺めたときの一枚なのですが、川から風がそよいできてました。

蒸し暑くなってきた初夏だったので、とても気持ちよく感じた記憶が残っています。

宿泊先に食事はないので、城下町に向かいました。

下の写真は、橋から歩いてメイン通りにやってきたときの一枚です。

既に、お土産を売るお店は閉店していましたが、その背後にある天守閣の頂が映えています。

このあと、居酒屋でやった一杯は、お城を満喫した余韻をつまみに、とても旨かったです。