2026年8月22日土曜日

稲荷山古墳の鉄剣


写真の鉄剣を目の当たりにして、感動すると同時に猛省しました。

奥様の実家がある場所から、10数キロしか離れていないにも関わらず、やって来たのはつい最近です。

歴史好きとして、教科書級の「さきたま古墳群(行田市)」に出向いてなかったことに、一緒に連れてきた子供たちの背中を眺めながら恥じ入ってしまいました。

この子らが行きたいと言い出さなかったら、おそらく行ってません。

最近、古代史に特に興味が出てきて、様々な場所をウロウロしているにも関わらずです。

冒頭の鉄剣は、「稲荷山古墳の鉄剣」と呼ばれ、5世紀後半(推定)の古墳時代に作られ、国宝に指定されています。

刀身に、115文字の金象嵌銘文が刻まれており、ワカタケル大王(雄略天皇)に仕えた「ヲワケ」という人物の功績や系譜が記されているという、古代史上屈指の宝物であり資料なのです。

模造品ですが、眩いばかりのショーケースに入れられ、神々しいオーラを発しています。

ルーブル美術館で観た「ハンムラビ法典」に匹敵する気がしました。

馬や武具に関連する埴輪等も充実していて、また来たい衝動にかられています。

下の写真は、鉄剣が見つかった「稲荷山古墳」です。

散策コースとして登頂することも可能で、最も高い後円部には、どのような状態で鉄剣や埋蔵物が発見されたかの丁寧な解説があり、とても勉強になりました。

他にも、日本最大の円墳「丸墓山古墳」を始め、大小様々な古墳が集中していて、無料開放されていたのには感激です。

散歩だけでなく、トレーニングに走っている方もいて、アップ(古墳登頂部)とダウン(堀跡)のある素晴らしいコースです。

また、あらためて思い知ったのは、坂東平野における馬の重要性です。

平地で戦うため、騎馬の重要性が、他の地域よりも際立っているように思えました。

観光地が何もないと言われる埼玉県ですが、大宮市にある「鉄道博物館」の次くらいに取り上げたいと、謹んで喧伝いたします。

2026年8月15日土曜日

回天(平生基地)


山口県東南部の平生町にある「阿多田交流館」です。

企業訪問に向かう道中、カーブ越しに写真の〝回天〟が突然現れてビックリしました。

回天とは、太平洋戦争末期に開発された有人魚雷で、海で特攻するための兵器です。

以前にも、同県周南市沖合の大津島にある「回天訓練基地跡」を取り上げましたが、そのとき基地跡はしっかり見学したものの、回天記念館は閉まっていたため、実物や模型を拝見してませんでした。

それ以外にも、回天に関わる史跡は3つあったらしく、ここはその一つ「回天平生基地跡」になるそうです。

現在は資料館になっていて、その駐車場に鎮座してました。

訪問の帰りに、次の予定まで余裕があったので、写真を撮ろうと駐車場に入りました。

実寸大の模型のようですが、その長さに驚きです。

カメラの枠に中々入り切らず苦労しましたが、何とか前・横・後と、しっかり納めることが出来ました。


特に真横は、駐車場から出て、車道側から柵にへばりついて撮影。

かなり怪しい人です。

後ろから見ると、ただの棒状ではなく、抑揚ある流線形であったことを発見し、思わず感動してしまいました。


実は、海辺の鉄道ジオラマを作成中で、係留された潜水艦を組み入れたのですが、その潜水艦が回天を、親亀子亀のように搭載していたのです。

1/700の縮尺だったので、回天は爪楊枝くらいのサイズにしかなりませんが、これを観察したことで、作りこみのイメージが全く違ってきました。

やはり神こそ細部に宿ります。

最期の写真は内部構造の説明版ですが、丁度コクピットのある当たりに設置されてました。

本当に、一人の成年男子が乗り込み、敵艦への体当たりを目指した歴史を考えると、二度と製造してはならない兵器です。

鎮魂の意味も込めて、ジオラマを丁寧に仕上げたいと、オタクなりに気が引き締まりました。

ただ、何よりも大事なのは次のアポです。

うっかり忘れるところでした。


2026年8月8日土曜日

長崎平和公園


長崎市にある「長崎平和公園」を漸く訪れました。

近くに何度か来ていたのですが、その脇を車や路面電車で通り過ぎるのみで、気になりつつも行けてませんでした。

このときの旅は、ここを主要目的にしていたので、写真にある「平和祈念像」が見つめる南側の正面口から、ずっと歩いてきて背後の北限まで、じっくりと散策しました。

意外に感じたのは、この公園の形が思った以上に、細長かったことです。

このことは、原爆投下の解説版を見て納得しました。

目的地より、風の影響で北に流されて、縦長の形をした丘が爆心地になったからでした。

本来の予定地は、中華街のある市街地であり、あの未曽有の大被害でも、効果が半減していたことに大きな衝撃を受けました。

計画通りに落ちていたら、更に被害が拡大したことになります。

また、歩きながら思い起こしていたのは、ここに投下された原子爆弾のニックネームです。

ファットマン。

太った男という意味で、広島でその実寸大の模型を見たかと思いますが、本当に丸々と太った球形に近い代物でした。

風の抵抗は、かなり受けそうです。

しかしネーミングセンスは、アメリカン・ブラックジョークの極致ですし、細長い公園が蹂躙されたような不愉快な気分になってしまいました。

加えて、下の写真です。

途中、公園内に半地下みたいな踊り場があり、そこのガラス越しに原爆投下時の地層が見えるようになっていました。

瓦とかガラス瓶が、高熱で溶けて、一塊になっているのです。

そして、その印象を残したまま「平和祈念像」を見ると、人がモチーフになっていますが、変な位置に造形された関節がやたらと気になりました。

アートなのでしょうが、全体のフォルムとしても、奇妙な塊感が生まれており、グロテスクな心象を抱いてしまいました。

この暗黒面に落ちたような気持ちは、別の機会に再訪して、リセットしたいと考えています。
 

2026年8月1日土曜日

神武東征


空も海も真夏仕様で、海の猛々しさに目を見張りました。

写真に見える通り、波はかなりの高さで岸に迫っている様子で、海岸に近づくのが躊躇されます。

数日前の台風の影響が残っているようです。

車が近くにあると錯覚してしまいますが、実は高台に止めていて段差になっています。

加えて大きな砂浜により、海辺までの距離を保っています。

鹿児島県東串良町にある、肝属川の河口付近になりますが、下の写真の「神武天皇ご出航碑」が建立された神社が、すぐ近くにあります。

いわゆる「神武東征」がスタートした候補地の一つであり、初代天皇とされる神武天皇が、ここから兵を船に乗せて出征し、大和を攻略したという神話です。

実在が疑わしい天皇ですが、史跡をウロウロしている自分としては、比定すべき人物はいたような気がしてなりません。

ここは、鹿児島県でも西寄りの辺鄙な場所で、陸路で進むなら、かなり閉ざされた地域となります。

しかし、驚くほどに大規模な古墳群や史跡が、豊富に残っている地域であり、黒潮をうまく利用した交易の形跡が多分に感じられます。

ここを訪れたおかげで、古代史における前提として、海路で通じた人々の交流を、体感的に考えることが出来るようになった次第です。

自分の新しい趣味の扉が、大きく開きつつあるのを感じる瞬間でした。

外海の荒れた海原は、そんな妄想にふさわしい光景でした。


 

2026年7月25日土曜日

聖徳廟


ここの所在地は、「大阪府南河内郡太子町大字太子」で「叡福寺境内」の北側になります。

「太子」という表記で、勝手に「聖徳太子」と思っていたら、やはりその通りでした。

あくまで推定されている話になりますが、この周辺には叔母にあたる「推古天皇」始め、父親の「用明天皇」や、他の6世紀後半から7世紀前半の天皇と皇族が、集中的に埋葬されている地域で、エジプトなら「王家の谷」のような位置づけになるのではないでしょうか?

ただし太子の本拠地は、奈良県にある「法隆寺」界隈であったとすると、ここは二上山を越えた大阪府になるため、政治の中心地からかなり離されている気がします。

今回は自転車でウロウロしていたのですが、何か政変があったのではと、つい邪推してしまうのです。

ここには「太子信仰」なるものがあり、断片的に伺うだけでも神秘的な話が多いと感じます。

太子は27歳のとき、ここを埋葬地として指定しました。

神馬「甲斐の黒駒」に乗って天上を駆けて富士山頂に行ったとき、そこから見渡した下界の西方が輝いていたので、そこに向かうと素晴らしい霊地であると悟り決めたそうです。

写真は、「太子廟」の正門ですが、この奥に太子とお母さん、1日前に亡くなった奥さんが、一緒に葬られている横穴式石室があります。

3人の合葬墓は「三骨一廟」と呼ばれ、下の写真は石棺の配置を説明しているものです。

立ち入ることは出来ませんが、この周囲を「結界石」なるものが囲っていて、「空海」が一晩で築き上げたとの伝説も残っています。

とは言え、実際に築かれたのは鎌倉時代らしく、時代が嚙み合っていません。

例えが何かにつけて大仰なのです。

怖さを感じることがありませんでしたが、ありとあらゆる伝説を呼び込むような磁場が働いているような気がします。

また来ようと思いますが、そのときには何が渦巻いているのか、とても気になってしまいます。
 

2026年7月18日土曜日

パリ―食堂


埼玉県秩父市にある「パリ―食堂」です。

雑誌で見つけてからずっと気になっていたのですが、やっと訪問出来ました。

対峙した時のインパクトは十分です。

西洋風を意識した建物のど真ん中に、金色の文字で「パリ―」と表記。

カタカナ縦書きという、自分が習字するなら最も苦手な書き方です。

よく見ると本当に手書きしたかのように、「パ」の大きさに対して「リ」が小さめで、しかもやや左寄りになっています。

そして最期の「ー」は最も太く力強いという、習字の先生から朱書きされそうなアンバランスさです。

それが硬質で灰色の構造物に、何とも言えない愛嬌を生み出しています。

車を一時的に駐車して覗いてみましたが、残念ながら時間が早いため、開店してませんでした。

ただ仕込み中のいい匂いが漂ってきます。

次回、一番人気のオムライスを食することを決意しつつ、建物をとりあえず拝めたことに満足して引き下がった次第です。

創業は昭和初期らしく、100年以上続く食堂です。

国の登録文化財にも選ばれていて、入口の脇に表示の刻印版が誇らしげにありました。

漸く10年を経過し、次世代にバトンタッチした「デルタカフェ」ですが、その10倍の時間を有していると思うと、どのような歴史が刻まれてきたのか想像も出来ません。

今はおじいさんと若いお孫さんで切り盛りしているそうですが、老朽化が著しいため、建物の保存維持費用をクラウドファンディングで募っており、誇らしい先達として、営業を続けて頂きたいものです。

何故「パリ―」という名称なのかも謎のままで、再訪時食事を注文した時に伺う楽しみに残しておきます。

ここまで乗って来た愛車「マセラティ・クアトロポルテ」とも、一緒に写真を撮らせてもらいました。

この車、以前のブログで取り上げましたが、納車後1か月で希少な部品が破損してしまい、そのまま4年近く入院していたのです。

やっと復活しました。

恐るべしイタ車(痛車)の洗礼を与えてくれた存在ですが、この食堂にあやかり長く乗れますようにと、思わず祈ってしまいました。







 

2026年7月11日土曜日

唐船峡そうめん流し


鹿児島県で勤務し始めて、お客様と話をするときに「唐船峡(とうせんきょう)のそうめん食べた。」と、よく聞かれました。

最初は何のことかわからず、場所を調べてみると以前取り上げた池田湖の近くにあります。

詳しくは、鹿児島県薩摩半島の先端部に位置する指宿市の西部、池田湖の南西部に位置する峡谷が「唐船峡」と呼ばれ、その峡谷でそうめん流しをやっているのです。

正直なところ、そうめんをわざわざ屋外で食べなくてもいいかなと思う人間だったのですが、「行ってません。」と、営業上いつまでも答えるわけにもいきません。

指宿での案件が夕刻終ったとき、行ってみようと急に思い立ちました。

到着時間を確認すると、閉店1時間前には着けます。

平日であれば空いているはずで、家族連れが基本単位と思われるそうめん流しを、お一人様で食べても、おそらく恥ずかしさが半減するはずです。

ここがチャンスと向かいました。

まっ平な道を車で走って中国風の門がある駐車場に到着し、その門をくぐると、その先は峡谷になっており、ずっと下っていきました。

山あり谷ありではなく、平地からいきなり谷なのです。

突然の急勾配はシラス台地の特徴かなと思いつつ、川が流れている底地まで降りていくと、2軒のお店がくっつくように営業してました。

1つは市営で、もう1つは民間の経営です。

市営の方が料金設定が少し安く、民間は若干ですが高級志向のように見えました。

市営がなじめそうだったので、こちらに入店。

入ると写真の光景が待ち構えていて、やはり空いています。

皆さん家族連れです。

好きな色に座っていいと言われたので、黄色のテーブルを選び、一通りの品が入ったセットを注文しました。

流しそうめんの形式としては、円卓中央にある水流テーブルに自分でそうめんを入れて食するパターンです。

峡谷だけに、凄い長さの流しレールがあるだろうと、勝手にイメージしてしまっていたので、少し残念な気持ちになりました。

昔、丹原町にあった「りんりんパーク」と同じ形式です。

昭和を感じるプラスチック感までどこか似ています。

ここの名水を使った水流らしいのですが、「りんりんパーク」だって「うちぬき」の名水だと思うと、峡谷にいて何故この形式なのか、更に違和感が募りました。

ここは、そうめんに加えて「アユの塩焼き」が基本セットのようで、それにおにぎりが付いてきます。

そうめんは極めて普通でしたが、つゆにつけてすすった後、塩味のアユとおにぎりをほうばるのはシンプルにいい塩梅でした。

伺うと、ここには年間20万人が訪問するらしく、県民比率だと6~7人に1人は必ず訪れる計算になります。

薩摩半島に絞ればグッと比率が上がるので、夏の風物詩として、毎回聞かれるのも納得出来ました。

今度は民間経営の店にも行こうと思っていたのですが、残念ながらその機会はありませんでした。

1年間の生活では鹿児島は広すぎます。