2026年7月4日土曜日

近つ飛鳥博物館


今、自身の趣味として、古代史への関心が高いです。

最近読んだ雑誌に、この建物が掲載されていて、是非行ってみたくなり、当館を訪れてました。

大阪府南部の奈良県境に近い「河南町」にあり、結構不便な場所でした。

車でないと厳しいかと。

予想通り、設計者は安藤忠雄でした。

自分の感覚としては、あの方の作品に関して、周囲とのバランス上、首をかしげてしまうことがあるのですが、ここについては、当館のコンセプトとうまく融合していると思いました。

写真は、入り口に向かう通路から撮影しましたが、構造物全体の正面になるようです。

聳え立つのは「黄泉(よみ)の塔」と呼ばれるシンボルタワーです。

その手前から続いている石段は、上まで通じており古墳を連想させるイメージをうまく演出していました。

中に入ると、巨大な空間が展開されています。

国宝や重要文化財といった目玉になる展示物はありませんが、古代の中心を構成する地域だったであろう、この界隈の遺跡にて出土した品々が、丁寧に説明されていました。

運搬具や石棺等が、原寸大で復元された模型も充実して、体験型の勉強が出来ます。

とりわけ興味を引いたのは、下の写真にある古墳の復元ミニチュア模型です。

その地域の有力者が亡くなって、古墳内部へ埋葬されるまで、何段階かのプロセスをミニチュアで再現していました。

このシーンは、いよいよ古墳の玄室に埋葬すべく、遺体を厳かに運んでいるのですが、リアルに再現されています。

鉄道ジオラマを作成する立場としては、古代史からの視点だけでなく、モデラ―としても興味深く拝察させて頂きました。

大阪には長く住めそうなので、他の博物館にも足繫く通いたいと考えています。


 

2026年6月27日土曜日

山の上ホテル


「お茶の水」にある「山の上ホテル」が閉館したとの報を聞き、東京を訪問したときにわざわざ行きました。

多くの文豪と呼ばれる方々がここに宿泊して執筆活動をしていた有名なホテルです。

写真のように外観はそのままですが、バリケードで周囲が囲まれていて敷地内に立ち入ることは出来ません。

ただ、竣工から86年が経過し、老朽化による対策を検討するため長期休業するとのことで、完全に幕を閉じたようではないようです。

今更ながら一度泊まっておけば良かったと後悔してますが、1階のバーと半地下の喫茶室はよく利用しました。

特にバー「ノンノン」は、この辺りで飲める時間があれば最優先で向かいました。

雑誌でも取り上げられた有名店ですが、たった8席しかないため、入店出来ないこともしばしばでした。

その場合、注文してホテルのラウンジで飲んでも構わないのですが、ここのカウンターに座ることが目的なので、あきらめて引き上げました。

何を飲むかよりも、カウンターの雰囲気が最高なのです。

英国風とは言っても決して華美ではなく、テーブルも一枚板ではありません。

古さゆえに、綻びもかなり目立つ空間だったのですが、川端康成・三島由紀夫・池波正太郎のような文豪が培ってきたのか、特殊なオーラが醸造され、そこに漂っていた気がします。

この訪問後、朗報がありました。

隣りの明治大学がここの敷地を購入し、現在の外観を維持したまま改修工事を実施し、ホテルとして再開する方針を示してくれたのです。

いつかになりますが、再びあのカウンターで一杯やりたいものです。








 

2026年6月20日土曜日

立山ロープウェー


黒部ルートの中間地帯である「黒部平~大観峰」を結ぶ「立山ロープウェー」の景観です。

写真の山頂に、白い点のような構造物がわかるでしょうか?

この建物が「黒部平駅」になり、自分が撮影している場所が「大観峰駅」になります。

写真に写りませんが、この間はロープウェーを通すワイヤーで結ばれており、かろうじて見える向こう側(黒部平)から渡ってきました。

ここに来るまでに通って来た「黒部ダム」は別の機会に取り上げようと思いますが、困難を極めたダム建築よりも、山と山をワイヤーでつなぐほうが難しいのではないかと思ったくらいです。

次の写真は、「大観峰」の展望台になります。

標高は2316mで、西日本最高峰「石鎚山」よりも、更に約350mの高さがあります。

人の立ち位置で推察して欲しいのですが、覗き込む角度が尋常ではなく、山の斜面として過去最大の急勾配を体感出来ました。

伺ったのは、夏休みが終わった9月上旬の平日で、人が少ない時期らしいのですが、それでも人が押し寄せていると感じます。

また、乗り鉄として嬉しくなったのは、中継地点に駅名がついていることです。

やって来た「黒部平」はケーブルカーとロープウェーの乗換え地点になるため「黒部平駅」、ここ「大観峰」は、ロープウェーとトロリーバスとの接続により「大観峰駅」と呼ばれます。

黒部ルートの区間は鉄道ではありませんが、大阪からここに向かう前後は「青春18切符」の新ルール(3日間連続使用)をうまく活用しました。

全体的には、うまく鉄道旅行の枠に収まった印象です。

使用条件が厳しくなって利用者が減った「青春18切符」は、まだまだ工夫次第で何とかなるかもしれません。





 

2026年6月13日土曜日

田中一村


奄美大島に住んだ画家「田中一村」終焉の家です。

奄美大島の海岸線を背景に、南洋植物を大きく描いた独特の日本画で有名な方ですが、後世になってようやく評価を得ました。

体調を崩していた一村が療養のためこの一軒家に移り住んだのですが、10日後に亡くなってしまい、このような名称になったそうです。

69歳でした。

大事に保存されているようですが、南国特有の湿気がまとわりついており、かなり苔むしています。

もともとの生まれは栃木県栃木市で、東京育ち、若くして南画(水墨画)に才能を発揮して、東京芸術学校に入学してます。

今の東京芸術大学で、東山魁夷は同期です。

ここまではエリート街道ですが、学校の指導方針への不満や、父の病気などが原因で中退し、南画を描いて生計を立てる道を選んだようです。

これ以降は、様々な職業、住み家を転々としていきます。

奄美大島への単身移住は50歳のときでした。

50代の自分としては他人事とは思えず、この年齢での決断には忸怩たるものを感じます。

いっとき千葉にも戻りましたが、基本的には大島で活動しました。

その千葉では、お見合い話もあったようですが、進展なく独身のままです。

染色工とか農業の仕事をこなしつつ、画業に励みましたが、最後まで画壇に認められることはありませんでした。

病気もつきまとい、腰痛や眩暈による昏倒、加えて脳卒中も発症、そして最後の死因は心不全です。

最期の写真は、奄美空港近くにある「田中一村記念美術館」になります。

後世の評価の高まりが、この記念館を作る流れになりました。

この地域の伝統建築をモチーフにしたデザインで、一村の作品が数多く展示されています。

ゆっくり鑑賞させて頂きましたが、彼の画風と、建物の重厚すぎる空間が、どうも噛み合っていないような気がしてしまいました。

もしですが、終焉の家の通気をしっかりして住める環境に戻し、そこに飾って眺めたらどんな趣だろうと、つい想像してしまいます。

亡くなってからの評価というのは、悔しいです。
 

2026年6月6日土曜日

皇居外苑


用事があって東京から大阪へ戻るとき、深夜バスを選択しました。

東京駅の真ん前にあるバスターミナルから出発するのですが、かなり割高に感じる値段設定になっています。

東京ディズニーリゾートで、閉園まで遊んでも間に合う23時の出発からかもしれませんが、あと数千円出せば新幹線に乗れる水準です。

まだ夕刻なのに、予定もなく、珍しく時間が余っています。

日頃の行動からすると、あり得ない展開なので、何となく落ち着きません。

思いついたのは、神保町の古書街を散策することで、早速行ってみると、閉店時間の早さにビックリしました。

17時に閉まる店舗が結構あって、散策を始めた直後から、ガラガラとシャッターが下りていくのです。

18時は標準、遅い店でも19時には閉めてしまうようで、仕事帰りにウロウロするような行動習慣は、昔のことのようです。

居心地の悪いまま、古書店巡りを切り上げ、同じ界隈にある喫茶店「ミロンガ」に入りました。

ここは遅くまでやっていて、店内を覆うレンガ造りの壁は、いつ見ても素敵です。

コーヒーをゆっくり楽しんでも、時間の余裕があるため、追加でビールまで頼んでしまいました。

ほろ酔い気分で店を出ましたが、それでも20時前、ずいぶんと時間が残っています。

それで仕方なく、皇居外周を歩いて「東京駅」に向かうことにしました。

その道中、面白そうな店があれば夕食に入るつもりです。

「神保町駅」のある交差点から、南下開始。

「竹橋駅」に到着すると、ここから皇居外周の堀端が始まり、時計回りで動きます。

驚いたのは、ランニングしている方の多いことです。

チーム単位での走行も多く、人の流れはずっと途切れることはありませんでした。

当初の予定では「二重橋駅」を左折し、「東京駅」に向かうつもりでしたが、もう少し先まで歩くことにしました。

例年なら蒸し暑い6月なのに、涼しい風が吹いていて、快適だったからです。

東京にしては奇跡的な現象で、汗をかかずにすみました。

そして「桜田門駅」の手前まで行き、折り返して「日比谷濠」の城外側から、石垣を眺めつつ「東京駅」に到着しました。

写真は、石垣の背景に聳え立つビル街を撮影したモノですが、濠による合わせ鏡の景観が綺麗でした。

しかし、22時近くなっても窓の明かりは煌々と点いていて、残業している方の多い実態も垣間見えます。

結局、夕食にはいい縁が得られず、コンビニでサンドイッチを買ってバスに乗りました。

2026年5月30日土曜日

PLの塔


以前から大阪南部「富田林」の当たりに向かうと、よくこの塔が視界に入ってきました。

自転車でこの辺りを散策する際に、ここにも立ち寄ろうと向かいました。

この界隈は「PL教団」の本拠地で、その敷地内に聳え立つ塔です。

180mもあるらしく、目立つのは当然だと思いました。

正式名称は「超宗派万国戦争犠牲者慰霊 大平和祈念塔」であり、必殺技がいくつも組み合わさったような物凄い名称が冠されています。

教団の教えに「人生は芸術である」とあるらしく、二代目教祖がこの塔をデザインし、それを原型に建立したそうです。

世間的には、不気味とか、怖いとか、意味不明な様相に対する後ろ向きな評価が多いようですが、個人的には「教祖様なかなかやるなあ。」と、前向きに感心しています。

そんなことで、塔の真下まで行こうと近寄ったのですが、広大な敷地の通路はことごとく閉ざされていて近づけません。

普通に出入りできる公園の中に立っていると、安易に考えていました。

敷地の正門から入れば、1階までは見学出来ると、後で知りましたが、そこまでの気づきに至らず、一番近そうな柵の外側で撮ったのが、最初の写真です。

少し逆光気味だったので、建物の陰影が浮き上がり、かなり立体的な造形だと知ることが出来ました。

しかも、雲の形がとても良い日で、宮崎アニメのワンシーンのように感じました。

2枚目の写真は、帰りの駅に向かう途中、歩道橋から振り返って撮影しました。

周囲とは、あまりにも不釣り合いな形と高さで、怪獣が歩いているようです。

確かに、自分が住む近くにこの塔はいらないかなと、あっさり思い直してしまいました。
 

2026年5月23日土曜日

安倍晴明ゆかりの地


岡山県西部の内陸部を走る「井原鉄道」沿いをドライブして「平櫛田中美術館」に向かっていたときでした。

その美術館も素晴らしかったので、別の機会に取り上げればと思いますが、その道中に「安倍晴明ゆかりの地」と記された看板を発見しました。

その名前は「陰陽師」として、様々な題材に出てきますが、よくよく考えるとアニメのキャラクターと同じような認識でした。

お公家さんなので京都にずっといたと思っていただけに、どのようなゆかりがあるのか俄然興味が沸いてきて、予定を変えて向かうことにしました。

脇道に入り、北側の山奥へかなり進み、やっと次の写真の看板を見つけました。


説明文を読むと、この近辺にある「阿部山」で、晴明が天文観測のため居を構えたと伝えられており、そこが阿部神社(通称:晴明神社)になっているそうです。

ここまで来た以上、当然そこも目指しました。

しかし、山に向かうかと思ったら下っていき、窪地のような場所に到着。

最期の写真が、そこにあった神社の本殿です。

参拝した直後に、人の気配が及ばない閉ざされた空間に入り込んでいると感じました。

手前の荒れたように見える場所は、祈祷でもしたのか燃やしたような跡です。

でも、ここや本殿に磁場のようなものは感じません。

幸いなことに、悪い印象はしなかったので、そう感じる何かを捜しました。

そうしたら、最初の写真にある小さな石でした。

場所は窪地の入り口付近です。

おそらく、晴明はここに来ていないでしょうが、この石は何かの役割を与えられてここに
置かれたような気がします。

実在の人物としては、大河ドラマ「光る君へ」に出てくる通り、「花山天皇・一条天皇・藤原道長」に関わっていたようです。

その功績もあってか、下級貴族でありながら「従四位下」を与えられており、陰陽師としての一族の立場を確立しました。

日本史における呪術の影響について、おぼろげながら考えてしまう不思議な体験でした。


 

2026年5月16日土曜日

窯元訪問


今の仕事になって、器の仕入れのため窯元さんを訪れる機会があるですが、その庭先の何気ない風景に感動する機会が多いです。

自分は「デルタカフェ」において、日々の運営には全く参画してませんが、店の空間づくりにおいて、気を使うことではないかと意識しています。

上の写真は、丹波「立杭焼」の窯元さんが営む工房にある、建物脇の小さな池です。

土台の柱の間から雑草が伸びてきて、自然に池の周囲を囲っています。

そこで、その陰を日除けにしながら2匹の鯉が優雅に泳いでいるのです。

ここに体現されている「無作為の美」は何なんだろうと、感じ入ってしまいました。

写真ではわかりにくいですが、猫と烏除けのためにピアノ線が何本が張られていますが、これすら嫌味がありません。

また、作業の道具置き場を拝見させてもらったのが、下の写真です。

無造作にも見えますが、置かれている配置に必然性を感じます。

機能性・効率性を追求したことにより、生れ出た美の整いがあります。

そして、日常の生活で培われた精神が、そのまま器の造形に反映しているように、素人の自分にさえ伝わってくるのです。

ここで気づいたのは、自分は池を作ってみたいという潜在意識でした。

デルタカフェの庭に続いて、実家の庭もいじってみましたが、池には手が出せていません。

イメージが全く固まっていないので、現時点では作りようもありませんが、いつか挑戦したいものです。

今の仕事を続けていければ、いつかたどり着けるような期待を持って、ゆるく精進していきたいと思います。
 

2026年5月9日土曜日

バラ園(万博公園)


今の勤め先にバラ園があるのですが、圧巻の一言です。

故郷の新居浜市にもバラ園の名所がありますが、正直なところ比較になりません。

写真の通り、様々なバラが咲き誇っていて、こんなに多くの種類と、そのそれぞれに特徴的な名前がつけられていることに、ただただ驚くばかりです。

更に年間を通じて眺めていると、驚くことが多々ありました。

造園の専門家がやって来て、いつも手入れをしているのですが、花がついてない枝はバッサリと根本近くまで短く切られます。

植え替えるための伐採かと見てたら、その状態から見事な大輪のバラが咲くのです。

また、それぞれが個性のある香りを発しているのですが、全体の調和は乱れずにまとまり、かなりの広範囲をその香りで包みます。

勤め先から外に出ると、素敵な香りが漂ってきて、芳香剤によくある香りの強さに関してだけは、誇張されてないと実感しました。

次に、種類によっては、冬も咲いているということです。

年末でも、咲いている種類がかなり残っていて、周囲は枯れた様相なのに、その空間だけ艶やかな色彩が保たれています。

「ベルサイユのばら」の主人公であるオスカルやマリー・アントワネットのように、孤高の美しさを誇示していると、日々眺めていて感心しました。

花言葉も調べると、「愛・美・情熱」になります。

まさしく感情表現として、ど真ん中の豪球です。

ただし色によって、別の意味が加わり、赤は「愛情」、ピンクは「感謝」、白は「純潔」、黄は「友情(嫉妬)」など、贈る相手によって選ぶことが重要らしいです。

そんな繊細なこと、考えたこともありませんでした。

ひょっとすると、女性の方々は当たり前にご存じで、自分みたいなオタクだけが知らないことなのかもしれませんが、今頃になって大人の階段を登っているような気がしました。

最期に、花の色素の濃さです。

下の写真の通り、夕暮れ時に周りが陰っても、完全に暗くなるまで色彩が残ります。

ここは、イタリア車の塗装に同じ趣があるせいか、妙な納得感がありました。
 

2026年5月2日土曜日

マングローブの森


奄美大島での仕事が週末だったおかげで、自費となりますが土日をここで過ごしました。

松山で仕事をしていたとき、会社の同僚からマングローブの森をカヌーで散策した体験を聞いていたので、気になってその体験ツアーに参加した次第です。

実際に来てみると、ここはとても大きな島であることに驚きました。

先ず、空港から中心市街(名瀬)まで1時間を要します。

その界隈での仕事だったので、ここで一泊して翌日向かいました。

そこからこの森まで反対方向に小1時間かかるので、帰りの飛行機を考えるとあんまりのんびりとはしていられません。

季節は6月だったこともあり梅雨の天候でしたが、ガイドさん曰く暑すぎなくて良いとのことでした。

ここの海はサンゴ礁もあって素晴らしい透明度ですが、この森は海につながっていても湖沼に近い地形にあるため、雨の影響も加わって水面は写真にある通り濁っていました。

下の写真にあるように、7~8人のグループでガイドさんに着いていきます。

私は最後尾でちんたら漕いで進みました。


最初は川に近いようなところを進んでいきますが、周囲はジャングルにしか見えず、そこに向かっていく高揚感は、まさしく冒険そのものです。

そして、木々の隙間のような水面に近づいてくると、一番水際の小高い茂みがマングローブであることがわかってきました。

その範囲での行動になるので、隊列を組むようなこともなく、周囲に散らばるように自由にカヌーを漕ぐことが出来ました。

潮の満ち引きの影響を受けるため、満潮のときの木々の濡れている場所がわかり、少し木くずが溜まっています。

今は干潮と満潮の間の時間帯らしく、木々と水面に囲まれた空間は、うまく漕ぎやすい環境になっていると説明がありました。

それでも最後の写真にあるように、結構な圧迫感があります。

波の影響はほとんどないので、木々の際まで寄っていくと小さなカニ達が枝の縄張り争いをしているのを発見。

水中よりも木の上にいることが多いように見えます。

夏休みに昆虫採集をしていた頃を思い出しつつ、しばし童心に帰る貴重な体験でした。

しかし、私が1年で大阪に転勤してしまったことで、ここへの訪問を楽しみにしていた家族の希望は叶いませんでした。

我が家で「奄美大島」は禁句になっています。
 

2026年4月25日土曜日

夢洲駅(万博開幕直前)


盛況に終わった「大阪万博2025」。

大阪に住んでいながら、混むところが苦手な私は結局行きませんでした。

しかし、乗り鉄として新区間「コスモスクエア駅~夢洲駅」は外せません。

悠長に構えていたのですが、万博開幕前に行っておかないと混んでしまうことに気がつき、慌てて始まる3日前に向かった次第です。

その日はマスコミにお披露される日と重なってしまい、大阪の中心部分を南北に結ぶ「御堂筋線」から乗り換える「本町駅」で、IDカードをぶら下げたスーツ姿の方々と乗り合わせる羽目になりました。

意外な人流にビックリです。

特に「本町駅」での乗り換えについては、狭い構内なのでどのように混雑するのかと思いましたが、万博会場行きを示す緑色の導線が通路に引かれており、周囲を見回さなくでも足元の確認だけで進むことが出来ました。

文字が読めない外国人でも感覚的に人の流れに乗っていけそうです。

誘導役のスタッフも、いたるところで入念に予行演習を行っていました。

ラッシュ時ほどではないにせよ、車内は隙間なく押し込められた状態で向かいます。

幸い乗り換えはなく、同じ集団の塊のまま、写真の夢洲駅の地上に出ました。

その先にはマスコミ用のIDゲートがあり、私以外はそのままゲートを通過していくため、一人取り残されることになりました。

それでも乗り鉄としての目的は完遂し、路線全線制覇の状態にカムバックです。

人々が進んでいる方向には、遠目に突貫工事で完成した「大屋根リング」を拝むことが出来ました。

思った以上に巨大な構造物でビックリです。

何か月か前に、たまたまゼネコンの方と話す機会があり、完成の見通しが危惧されていることを伺うと、「ゼネコン各社は持ち分を割り当てられており、お互いがプライドをかけて取り組んでいます。どこも死んでもやり遂げると思いますよ。」との回答。

心配で聞いたつもりが、どこかに冷やかしがあったなと、自身に恥じ入りました。

結果的には大フィーバーで幕を閉じることが出来たのは素晴らしいことです。

しかし、開幕直前まであったマスコミのネガティブキャンペーンは何だったんでしょうか?

東京オリンピックのときも同様に感じましたが、世界規模の運営を、少なくとも自国で開催する以上、盛り上げる努力をすることに最低限の責務はあるのではないかと。

世界から選ばれている状況なのですから。

行ってない自分が物申す資格があるとは思いませんが、少なくとも批判する気持ちはありません。

それにも関わらず、自虐モードを展開する姿勢を見て、何を目指しているのか理解できませんでした。

それでも人気上昇の趨勢が明確になってくると手のひら返しです。

そういった軸がブレブレの報道に対して、世の中から冷ややかに見られていることに、そろそろ気がつかないと、オワコンになってしまう局面だと思います。

デジタル音痴の私にとっては、なんだかんだ言ってもSNSの情報より、オールドメディアの情報は頼りです。

その内容の是々非々を、今まで以上に気にしながら物事を判断していくのは、ある意味悲しい社会現象になってきたと感じます。

自身で、わざわざオールドをつけての呼称も気になります。

メディアのままでいいのではないかと。

時代遅れのニュアンスが含まれているのになあ。
 

2026年4月18日土曜日

青春18切符のルール変更


「青春18切符」が大幅にルール改正されてから、一番最初に使用した旅でした。

従来は5日間を期間内であれば、1枚の切符をバラバラの日でも、複数の人数でも、使用することが出来ました。

しかし新しいルールは、5日と3日の選択が出来ますが、連続する日で一人の人間しか使用出来なくなったのです。

一人旅で遠方に行くなら、「4泊5日」もしくは「2泊3日」の電車旅の設定に固定されてしまいました。

つまり、社会人としてニーズの高い、週末を活用した「1泊2日」旅行にはジャストフィットしなくなったのです。

当然、いろんなところで〝改悪〟との声が溢れていましたが、自分にとってはプラスになるかもと思考を切り替えました。

この切符をずっと愛用してきた者からすると、アングラであるべき存在が、市民権を得過ぎたような気がしています。

今回は、前回取り上げたグランピングとセットで、無理やり「2泊3日」を組み立てました。

以下すべて各駅停車です。

大阪「新大阪駅」から使用開始、山陽本線を進んで「岡山駅」で乗り換え、瀬戸大橋線・予讃線を通って「高松駅」に到着しました。

ここで、グランピングで楽しめそうな食品を少し買い込み、更に高徳線に乗って「引田駅」で家族と合流します。

その晩はグランピングで家族団らんし、2日目は車で「坂出駅」に向かい、昼過ぎに家族と別れ、再び瀬戸大橋線・山陽線を往復して「大阪駅」に戻りました。

そこから環状線を経由して、南の和歌山に向かう阪和線に乗り、「和歌山駅」で一泊です。

そして3日目、紀勢線で紀伊半島をぐるりと回り、三重県に入って「多気駅」で参宮線に乗り換え、「亀山駅」から関西本線で、再び大阪に帰ってくるというルートでした。

乗っている間、車窓をときどき眺めながら本を読んでいるだけなのですが、このくだらない行動が大好きでどうしようもありません。

少し変態入ってこその醍醐味かと。

写真は、紀伊半島の先端近い「新宮駅」の線路風景ですが、春先とはいえ強い日差しでした。

あまり人気のない感じも、自分にはしっくりきます。

駅前の寿司屋で売っていた「サンマ寿司」と缶ビールを購入し、列車が動き出してから食べ始めました。

しょぼい感じも楽しいです。

実は、旅の目的は「徐福伝説」でしたが、改正の話で足りてしまいました。

また別の機会に取り上げます。

2026年4月11日土曜日

グランピング


このブログを書いている時期、毎日のように熊被害の報道が流れていました。

「オーナーの旅日記」で取り上げた場所の多くが、その該当地域と重なっていることに大きな衝撃を受けています。

世界一とも言われる「安全な日本」は、海外を旅して強く実感することですが、まさかこのような事態になるとは想像もしていませんでした。

たまに家族で野外キャンプ場に行ったりしますが、そこが危険な場所になっていくかもしれません。

しかし、今回取り上げるグランピングなら、絶対安全との保障があるわけではありませんが、かなり危険度を下げることが出来るような気がしました。

ここは、春先に訪れた香川県西部の海辺に近いグランピング専用のキャンプ場で、前面は湖に面しており、山間部から離れています。

家族と一緒で、着替え以外は手ぶらでした。

いつもの通常キャンプの場合、1台の中型のSUVに全員が乗って、キャンプ道具を積み込むとなるとパンパンの状態になります。

後部座席の子供たちは、体育座りに近い状態で、身をかがめるようにしてキャンプ場まで我慢してもらうことになるのです。

今回は荷物が少ないため、そのような事態にならず、県外でも、悠々と向かうことが出来ました。

写真は、焚火したときの一枚です。

大きな焚火台が、宿泊場所の近くに専用で設置されており、燃やす木も用意されていました。

自前で持参すると、かなりかさばります。

木はいい塩梅で乾いていて、綺麗な火柱が上がり、キャンプファイヤーをしているようでした。

他にも、個人向けのテントサウナやバーベキューがあり、使用する道具の規格に合わせて全ての木材・食材が準備されていました。

キャンプにおいて、煩わしさがないというのは、本来の目的に矛盾するようにも思いますが、この楽さが楽しいと思える体験でした。

しかも、寝所となっている三角テントの前はビニールハウスになっていてエアコンまで完備されており、適度な温度に調整して眠ります。

夜はかなり冷えたので、大助かりでした。

下の写真が、その外観です。

この至れり尽くせり感、家族にも好評で、他の場所にも行ってみたいと思います。

夜間の気温をあまり気にしなくてもいいので、クリスマスの時期に、パーティを主体にすると、もっと楽しめるかもしれません。
 

2026年4月4日土曜日

国道439号線(通称:与作)


今回の旅は、変わった趣向で行動しました。

大阪から松山に戻る道中を大幅に寄り道し、「国道439号線」を最初から最後までひたすら走ったのです。

目当てのドライブコースを目的として、旅を組み立てたことはありますが、国道の完走を目論んだのは初めてのことでした。

通称「与作(439)」と呼ばれる通り、ひたすら四国山脈に沿った山岳コースです。

春先で少し肌寒かったのですが、夜明け前から徳島市街を通り抜け、山間部に入りました。

しかし驚いたことに、標識には「438号」と「439号」が併記されています。

まあ「439号」とは書かれてますので、とりあえず「剣山」を目指しました。

どんどん標高が上がっていき、ガードレールの向こう側に見える山々が、どんどん眼下になっていきます。

このときの愛車は、「アルファロメオ:916スパイダー」で、以前の「アルファロメオ:115(ヴェローチェ)スパイダー」の後継機種となり、久しぶりのオープンカーでした。

こいつを選んだのは、アルファロメオが独自設計した最後のエンジン、名機と呼ばれる「ブッソV6」を搭載しており、その乗り味をどうしても堪能したかったからです。

難関であった「剣山」界隈の話は、別の機会に取り上げたいと思いますが、その険しい山道もパワーのあるエンジンのおかげでグイグイと上ってくれます。

天気は曇りで、小雨がたまに降りましたが、幌はずっと開けたままにしてました。

乾いた低音のエンジン音がずっと響いている中、崖から転がっていた石で下をこすることが多く、その音にビビります。

とは言え、至福の音響空間でした。

そして「剣山」近辺で、「439号」と「438号」は分岐しました。

「438号」は、ここから北に下っていき、吉野川に向かうようです。

「439号」はそのまま西に下りながらも、次の難関「京柱峠」に続いていきます。

写真は、その峠界隈の風景です。

山桜がとても綺麗に咲き誇っていて、ちょくちょく車を停めて見惚れていました。

ソメイヨシノと比較すると、花は小ぶりで密集していません。

まばらに咲いているのですが、全く盛っていない感じが、清楚さを際立たせていて、より美しく感じました。

エンジンを切ると、鳥の鳴き声と共に、雨上がりの草花の匂いがずっと漂ってきます。

お腹も空いてきたのですが、お店の類は一軒もありません。

持参したカロリーメイトをかじりつつ、オープンカーの頭上に見える桜をボーっと眺めた次第です。
 

そう言えば、四国に熊はいるのでしょうか。

ふと、島根県の山道で車を停めて地図を見ていたときに、通りがかった人から「この辺は月の輪熊が出るよ。」と注意されて、ビビったのを思い出しました。

これからはのどかな空気を味わうにも、山間部は油断しないようにしないといけません。

2026年3月28日土曜日

フィアット・プント

 


懐かしい写真を見つけました。

失礼ながら、観光地がほとんどないと認識している「茨城県」の田園地帯を走っていたときの一枚です。

行きたい観光地はなくとも、城はあります。

インパクトのある景色には、なかなか出会えませんが、淡い感じで梅や桜、菜の花が咲いているのをよく見かけました。

不覚にも、この前の車を事故で廃車にしてしまったときに、ディーラーよりこの車を勧められました。

予算が厳しかった中、お値打ちな提案でもあったので、迷うことなくこの「フィアット・プント」を購入した次第です。

フィアットの主力車種であり、当時のイタリアでは一番多く走っていました。

目玉は、「初代フィアットパンダ」以来かと思われる、CVTが搭載されていることです。

ディーラーの担当者が、「安心して下さい。日本製なので壊れませんから。」と太鼓判。

どうもスバル製のようですが、イタ車を欲している人間からすると、ちょっと複雑な心境です。

ただ乗り始めて、その小気味良さにビックリしました。

小さなエンジンですが、つづら折りが続く山道も、ストレスなく回転数がフィットして、ぐいぐい上っていきます。

イタリア車特有の、モッサリとしたシフトラグが全くありません。

さすが日本製と、妙なポイントで感心しました。

また時期的に、千葉県北部から茨城県の城を、集中して巡っていたので、とても重宝しました。

この地域は、大きな城があまりないのですが、南北朝争乱を描いた「太平記」に登場する山城が多く、あまり整備されてない細い道が多かったからです。

そのアップダウンを、楽しく攻めることが出来ました。

しかし、内装は素っ気なく、シートは無地ファブリックなのに、何故かワインレッドでした。

インパネもプラスチッキーな素材で、全体のバランスに落ち着きが全くありません。

逆に、その安っぽい風采が、この車の雰囲気に似合っていました。

この流れは、パンダのようなイタリアンピッコロの美徳だと思います。

今思い返せば、茨城県にかなり関われたのは、この車のおかげだったかと。

あれ以来、この地域を訪れてませんが、古代の史跡や神社を訪問する機会が欲しいと、思ってはいます。

なかなか乗り気になれないですが。



2026年3月21日土曜日

十二湖


青森県と秋田県に跨る世界遺産「白神山地」の一角にある複数の湖の総称です。

所在は青森県となり、「白神山地」の北側になります。

このとき「黄金崎不老不死温泉」がある青森県の日本海側をドライブしていました。

その帰り道に、まだ日が暮れてなかったので立ち寄ったのです。

ここに来るまで雪を意識することはなかったのですが、湖の周辺には雪がところどころに積もっています。

無防備な状態で初冬の東北地方に来ている怖さを、反省しました。

そうした緊張感の中、雄大な自然を満喫しました。

下の写真は、水面がブルーになることで有名な「青池」です。

ここを目当てに訪れましたが、さすがに夕方が近い鈍色の空では、青く輝くている姿を拝むことは出来ませんでした。

しかし、水面をのぞき込むと、確かに絵の具のような青色をしています。

それでも奥まで透き通っていて、湖底がしっかり見えているのは不思議な感じがしました。


そして何事もなく、無事に帰路についたのですが、最近の熊による被害報道を目の当たりにすると、もうここは安易に立ち寄れる場所ではなくなっている気がします。

自分の趣味としては、一定の区切りはついてきた山城探訪ですが、これからは命がけの所業になってきました。

一人でフラッと行って、行方不明にならないようにしないと。

誰も見つけてくれません。

国内旅も恐ろしいことになってきました。
 

2026年3月14日土曜日

鬼ノ城(きのじょう)


岡山県の総社市にある古代山城(神籠石式山城)で、日本100名城にも選定されています。

30年近く前にも訪れたことがありますが、そのときは発掘が進められていたものの、狭い山道しかなく、楼門跡らしき痕跡を確認した程度でした。

古代史も今ほど調べてなかったので、桃太郎伝説に登場する鬼のモデルとなった温羅(うら)が、立てこもっていた拠点という認識でした。

しかし、現在の整備された状況には目を見張りました。

今回、城の外周2.8kmを実際に歩いて回ったのですが、石塁・土塁が見事に復元され、4カ所の城門・水門6カ所もほぼ整備されているようです。

写真は西門を城内から撮影しましたが、標高が約400mに位置するため周囲を見渡す展望は抜群でした。

当時より埋め立てで、遠ざかってしまった現在の海岸線でも見渡せます。

ここなら、上陸時点から敵の動きを確認しつつ、備えることも余裕だったでしょう。

時期は7世紀後半に築城されたようで、朝鮮半島での「白村江の戦い」が原因です。

百済再興をかけて渡海したものの、唐・新羅連合軍に惨敗(663年)し、その逆襲を恐れたからでした。

城内にも多くの建造物跡が残っており、ほぼ完成した古代山城とのことですが、それ以前には一体ここに何があったのか、ますます気になりました。

桃太郎のモデルとなった「吉備津彦」が吉備地方を鎮撫したのは、更に時代を遡った崇神天皇の頃です。

当時の海岸線は総社付近らしいので、大和朝廷への反抗勢力が拠点とするには十分な場所です。

下の写真は、西門から南方向にかけての柵の内側ですが、土台の石畳みから堅牢に築かれており、そこから続く場外の土塁は6~7mの高さがあるのですが、少々のことでは崩れないと思われます。

古代から大きな勢力基盤を誇った吉備地域へのロマンが、ますま増幅される名城でした。
 

2026年3月7日土曜日

長崎新幹線


2022年9月に開業した「長崎新幹線」。

先端の穴が開いたように見える黒いワンポイントと、白と赤のツートンカラーを見て、「宇宙戦艦ヤマト」に登場する戦闘機「コスモゼロ」とイメージが被りました。

絞り込んだように見えるボディラインも含め、最近の新幹線では一番好きなデザインです。

さすがに一番乗車は出来ませんでしたが、年内に「青春18切符」を使って、長崎方面を目指しました。

正式名称は「西九州新幹線」ですが、「武雄温泉駅」から「長崎駅」を結ぶフル規格の新幹線です。

「山形新幹線」や「秋田新幹線」のような在来線を拡張した形式ではなく、新幹線専用に設計された新規路線なのです。

しかし、とても複雑な事情を抱えています。

現状では、「佐賀県」が新幹線に素通りされる地域の過疎化を懸念し、その敷設に反対しているため、本流の「九州新幹線」と繋がっていません。

そのため「新鳥栖駅」まで新幹線でやって来ても、そこで乗り換えて「武雄温泉駅」まで在来線の特急を活用し、再びこの新幹線に乗り換えることになるのです。

スムーズに繋がっていないことに対して、無用な存在のようにあげつらう報道も見かけますが、これでも長崎県にとっては相当便利になりました。

県庁所在地「長崎市」に鉄路で向かうとすると、二つの在来線があるのですが、どちらも大きく弧を描きながら海沿いを走るため、特急でもかなりの時間がかかりました。

それをこの新幹線は、新設の直線ルートで突っ切るため、「武雄温泉駅」からでも一時間以上の短縮になります。

それを体感したくて、当時住んでいた「下関駅」を始発で出発しました。

延々と各駅停車で、小倉・博多・鳥栖・佐賀を経由し、「武雄温泉駅」に到着。

新幹線と特急の接続は、スムーズな乗り換えが出来るダイヤになってますが、各駅停車は配慮されてなく、時間の余裕がかなりありました。

そのまま改札を出て、しばらくプラプラしたのですが、いい塩梅で観光客が滞留してます。

みなさん、この地域の特産品を食べたり、買ったりしていて、満喫されているようです。

意外にもこの不便な乗り換え、結構な地域活性化につながっている気配がしました。

下の写真は、乗車前に側面から撮影した一枚ですが、カモメ(KAMOME)マークが洒落ています。

黒いフロントガラスの縁取り部分にも、ゴールドのアルファベットで「西九州新幹線かもめ2022」とレタリングされていました。

駅のフォームもSF感があり、更にワクワクしてきました。

いよいよ乗車しましたが、案の定ほとんどトンネルで、景色を見ることが出来ません。

ただ、ワープしているみたいで、これはこれで臨場感を楽しめました。

チラチラ街の景色が見える車窓になったら、もう到着のアナウンスです。

到着後は、目当ての店で食事しようとしましたが、行列であきらめました。

帰りはそのまま、新幹線に乗らず、すべて各駅停車です。

新幹線に乗った後なので、いつも以上に時間がかかる気がします。

何とか終電の時間帯に下関に到着した次第です。

2026年2月28日土曜日

満願寺温泉の川湯


ここは大分県の県境、熊本県北部にある「満願寺温泉」です。

ここの公衆浴場は写真の「川湯」で、道端と川を隔てた場所に、川面とほぼ同じような高さであります。

雑誌に紹介されていたロケーションを見て、是非とも入浴したいと思い、漸くやってくることが出来ました。

コロナの時期で山口県に住んでいたのですが、人ごみの多いところを遠慮しながら、一人ドライブでよく出かけ、誰もいない史跡巡りにいそしんだ時期でした。

その前後で、外来者でも入浴可能な温泉施設があるなら、人が少ないのを確認しつつ頂くのが、この時期の貴重な楽しみだったのをよく思い出します。

ここへの訪問も同様の展開だったのですが、誰もいないとはいえ入浴を諦めました。

町内のど真ん中にあり、ガードレールのある道が想像以上に近いのです。

お湯はよりによって澄んだ無色透明であり、裸で湯船に入ったらどの角度を向いても、上から覗ける道から大事なところが丸見えです。

ここに見知らぬ人間が入っていたら通報されかねません。

今まで、主要道路の橋の袂にある鳥取県「三朝温泉」の露天公衆浴場や、北海道の湖畔にあって自然湧出している温泉とかにも、勇気を出して入ってきたのですが、それでも社会的なリスクが高すぎました。

それでも浴場に降りて、手首だけ湯船に着けてみると、いい塩梅の湯加減です。

より残念な気持ちが募りましたが、脱衣場に回ると「コロナの影響により地区以外の方の入浴禁止」と書かれており、出来ない理由を提示されてホッとした次第です。

しかし脱衣場も下の写真の通り、横からの視界を遮る板がなく、脱いだ服をおく棚だけです。

おそらく、ここに浸かる方は大事なところを、ご近所中の奥様方から、前の車道や横の畦道からチェックされているに違いありません。

サイズとか井戸端会議のネタにされてはしないかと、勝手に心配してしまいました。
 

2026年2月21日土曜日

遠野城(鍋倉城)

岩手県の遠野市に宿泊して、早朝に城山散策をしました。

戦国時代から江戸時代にかけて、主に「遠野南部氏」の居城として、中世山城の構造を残したまま、近世城郭として活用されたという、変わった経歴を持つ城です。

曲輪の遺構が必見らしいのですが、雪が積もってこんもりとしてしまい、全くわからない状態でした。

石垣がある城郭なら、凍てついた石垣を楽しむことも出来るのですが、それもありません。

今は国史跡に指定され、天守閣風の展望台もあるそうですが、当時は何もなく雪山を一人で登っていきました。

人が見たら、死地に向かっているのではないかと誤解されそうです。

写真は、山頂の本丸で撮影した一枚ですが、針金のような枝を扇のように拡げた、一本の大木が出迎えてくれました。

朝焼けと木の陰影が素晴らしく、思わず見惚れてしまいます。

何も期待していなかったので、早起きは三文の徳だと、素直に実感が湧きました。

そのまま雪の中をズブズブと進んで、街並みが見える場所まで移動しました。

早めに脱出し、足元の雪を払わないとびしょ濡れになってしまうので、まごまご出来ません。

下の写真がそうなのですが、遠野の市街地が童話のような風景に見え、そのとき「雪中の狩人」という絵画が浮かびました。

狩人が犬を連れて、丘から街中を眺めている構図で、その狩人になったような錯覚が起こったのです。

作者は、ルネサンス後期の「ピーテル・ブリューゲル」という画家で、「バベルの塔」の作品で有名な方です。

示唆に富んだ題材が多く、寓話を散りばめるように、妖怪とかいっぱい描いています。

後で見比べると、先ほどの針金のような木までが描かれていて、イメージ以上に酷似していたことに驚きました。

ここから駅まで急がないと、予定の便に間に合わなくなるのですぐに失礼しましたが、城山に上って、童話の世界に入り込んだような感覚になったのは、初めての体験でした。

〝妖怪の里〟とも称される、遠野ならではの出来事だったのかもしれません。