2026年9月26日土曜日

731部隊


高市政権が誕生した頃の、2025年10月に中国を旅してきました。

帰って来た直後に、台湾有事に関する発言で、日中関係が悪化し始めたので、すごいタイミングの訪中だったと思います。

ただ、日本のマスコミが伝えている内容と、実際に旅した印象は、ずいぶんと違っているので、その辺りを比較しつつ取り上げたいと思います。

旅立つ前も、「反日テーマの映画が、中国内で立て続けに上映されていて、反日感情が高まっている。」と、ネガティブな報道が結構流されていました。

このときは、日本側だけが騒いでいたようで、中国側から目立つ動きはなかったと思います。

写真は、まさしく反日映画「731」のポスターの一枚です。

太平洋戦争中に、細菌兵器の開発のため人体実験を行った「石井731部隊」を題材にしており、現地の映画館で観てきました。

極寒の中、何故か花魁道中が出てきたりと、かなり現実感に乏しい作品でしたが、残虐な日本人はしっかり登場していました。

その陰惨な現場は、中国東北部の哈爾濱(ハルピン)郊外に、今も残されています。

日本の終戦をテーマにした番組とかで、よく取り上げられる場所ですが、いつも禍々しい雰囲気で映し出されています。

しかし、行ってみると、印象が随分と違いました。

「侵華日軍第七三一部隊遺址」という物々しい名称で、大きな博物館も併設されていますが、観光施設としての雰囲気が強いのです。

その博物館は、約一時間待ちの大行列で、10月なのに雪が降っている中を、ガイドの人と一緒に並びました。

日本は、まだ蒸し暑い感じが残っていただけに、体がついてけません。

待っている間、ガイドの方と日本語で話すしかないので、ここで喋って大丈夫なのかと、おそるおそる聞いてみましたが、全く心配しなくていい、との回答。

実際、日本語で喋っても、周囲も雑談で盛り上がっていて、日本人とか関係ないようです。

それなりに緊張していたので、拍子抜けしました。

ただ、博物館の大きなロビーには、ここの映画が上映中ということもあって、何種類ものポスターがこれでもかと掲示されていました。

博物館内は、お約束の蝋人形を展示しており、ショッキングなシーンが表現されていました。

私はその前で、日本語での説明を聞いているのですが、皆さん気にならないようです。

この辺のギャップには、あとあと気がつくことが多々ありました。

ここは愛国教育のために、日本人が中国人にどんなにひどいことをしたか忘れないための、〝国恥施設〟になります。

下の写真は、発掘された建物跡ですが、大屋根に覆われて、徹底して保存されていました。

人の感情とは別に、国としては「遠い過去には絶対しない。」という強固な意思を感じます。


最期の写真は、ここのアイコンである「ボイラー棟の残骸」です。

補強された裏側から撮影したもので、張りぼて状態に驚きました。

残念だったのは、表側に回ろうとしたとき、携帯の充電が20%は残っていたのに、突然切れてしまい、正面からの記念撮影が出来なくなったことです。

氷点下近いため、充電が不十分だと切れてしまうと、ガイドさんから先に言って欲しかった説明がありました。

凹んで表に回ると、小学生の低学年くらいの集団が記念写真を、微笑ましく撮っています。

どうも遠足のようです。

おそらく愛国教育による「憎むべき日本人像」があまりにもおぞまし過ぎるのでしょう。

実際に目の前にいる日本人とのギャップが大き過ぎて、同じ存在である実感を、みなさん抱いていないように感じてしまいました。

2026年9月19日土曜日

犬山城


夕焼けの「犬山城」です。

今回は仕事で、この界隈に一泊することになり、夕刻に到着しました。

最古の現存天守で、国宝に指定されており、城好きなら知らない人はいないでしょう。

この地域に向かうときには、この城が拝める木曽川の橋を、少々遠回りしてでも通りました。

毎度のことですが、木曽川の南岸に佇む景観がたまりません。

この川を、ヨーロッパを貫く大河である「ライン川」に例える形容がありますが、この古城の存在感が、ライン川沿いの「古城街道」を彷彿させるからだと思います。

卒業旅行でドイツに行ったことがあるのですが、近い風情を醸し出していました。

いつも車で通り過ぎることがほとんどなので、今日は宿泊先から徒歩で、周辺を散策してみます。

この川に掛かる「犬山橋」から眺めたときの一枚なのですが、川から風がそよいできてました。

蒸し暑くなってきた初夏だったので、とても気持ちよく感じた記憶が残っています。

宿泊先に食事はないので、城下町に向かいました。

下の写真は、橋から歩いてメイン通りにやってきたときの一枚です。

既に、お土産を売るお店は閉店していましたが、その背後にある天守閣の頂が映えています。

このあと、居酒屋でやった一杯は、お城を満喫した余韻をつまみに、とても旨かったです。


2026年9月12日土曜日

黒部ケーブルカー


このケーブルカーは、富山側の「美女平」から「富山電鉄富山駅」を結ぶ「立山ケーブルカー」です。

今回、長野県側から立山アルペンルートを横断しました。

実際に移動して、これだけ多くの乗り物を活用しているのかと、ビックリしました。

長野県の内陸部と日本海を結ぶ「JR大糸線」の「信濃大町駅」からスタートしますが、

①一般のバス⇒②登山用バス⇒③電気バス⇒徒歩(黒部ダム)⇒④ケーブルカー⇒⑤ロープウェイ⇒⑥トロリーバス⇒⑦登山用バス⇒⑧ケーブルカー⇒⑨電車

と、9つの交通機関を経て、富山県側の「JR富山駅」に辿り着きます。

乗り通しても、割引とかの適用はなく、それぞれ別料金のようなので、結構なお値段になってビックリでした。

このケーブルカーは、⑧になるわけですが、その形状に衝撃を受けました。

写真の通り、運転席と乗客部分が前後に分かれて二つありますが、間の黒い部分は運搬スペースになっており、伐採した木材を乗せたり出来るように長く設計されていたのです。

乗り場に到着し、後方の乗客部分に、普通のケーブルカーと疑うことなく乗り込みました。

出発時、前方部分はトンネル内に隠れていたため、この長さに全く気づかず、動き出してトンネルの進行方向を眺めていても、暗いため黒い部分は全く見えません。

そうすると、人の入った箱が遠くに浮かんで見えるという、幽霊に遭遇したような前方車窓になりました。

何故、あそこに人が座っているんだろう。

ちょっとイリュージョンを感じてしまう不思議な空間です。

到着する前に明るくなり、全体像がわかると思わず吹き出してしまいました。

しかし、400mの高低差を1,300mのほぼ直線ルートで上り下りする手段は、物資輸送として、とても効率的に思えました。

ここで初めて見たのですが、他でも活用されているのでしょうか。

そもそもケーブルカーの車種を考えたことがないのですが、自身が降りてきた見上げるような斜度を眺めて、ケーブルカーの力強さに感動してしまいました。

乗り鉄として、今のところケーブルカーは範疇に入っていませんが、JR・私鉄・路面電車・モノレールを制覇している状況なので、これから挑む世界になるかもしれません。

いい加減にしないと、と思うのですが・・・。

下の写真は、最後の乗り物になる富山電鉄の電車です。

これから富山の魚を食べに向かいましたが、その前に寄り道して食べた焼きそばは失敗でした。


2026年9月5日土曜日

積翠園(しゃくすいえん)


古本屋で買った、日本庭園を紹介した本を参考にして、京都市内を散策することがあります。

このときは、京都郊外まで車でやって来て、そこから折りたたみ自転車を活用して、七条通をひたすら東進しました。

この庭園は、通りが終わる突き当りにあり、京都国立博物館のある隣の区画になります。

到着したのですが、入口が見当たりません。

昭和に出版された本のため、現状が変わっていることは重々承知していますが、示されていた入り口は、高級老人ホームのエントランスの勝手口となっていて施錠されていました。


仕方ないので、そのエントランスで警備している方にお伺いすると、ホテルの庭になっているが、フロントで見学の趣旨を伝えたら、そのまま入れるとの説明でした。

そのホテルは、外資系の有名なホテルです。

もともと病院が管理している庭だったらしいので、その病院が売却されてホテルに建て替わったのだと思いました。

まさしくその通りだったのですが、9月初旬の暑い中、自転車に乗った汗まみれの状態で、ホテルに行くのは、私でも抵抗がありました。

こんな小汚い姿で大丈夫かと心配になりましたが、引き返すのも癪なので、勇気を出して向かいました。

道路の入り際から竹林になっていて、石畳の歩道を自転車を手押しで進みます。

もう外界との空気が変わってきました。

しばらく行くと、下の写真の通り、背の高い木組みの屋根の下に高級外車が並んでいます。


案の定の展開です。

そして、入口に数人のフロントマンが待機していて、近づく私を訝しい目で見ています。

意外だったのは、全員が東南アジア系の方々でした。

しかし、動きは洗練されていて、要件を伝えると笑顔で案内してくれました。

自転車の置き場所を伺うと、戻ってくるまで、そのまま預かるとのこと。

おそらくそんな空間ないのでしょう。

エントランスに入ると、全く日本語が聞こえません。

東南アジアで選抜された(と思われる)ホテルマンが、外国のお金持ち(そうに見える人々)を接客してました。

庭へ案内されながら、周囲を見回しましたが、日本人は一人もいないようです。

このとき、上海の租界が頭に浮かびました。

京都に、日本とここまで隔絶された空間があるのかと驚きです。

しかし、庭のエリアに入ると、森に入ったかのような空気に変わりました。

最初の写真に写っている鷺が、静かに通路で迎えてくれます。

そのまま散策を始めると、ホテルが壁のようにそそり立っていますが、意外に違和感がありませんでした。


その足元に、池泉式庭園が忘れられたように残されていて、丁寧に手入れされた自然が保たれています。

自分の呼吸の音が聞こえても、申し訳ないような静寂を極めた空間です。

夜は照明で奢られて、各部屋から庭園が堪能出来るに違いありませんが、これだけの素晴らしい庭が、外国の方々の貸切状態になっていて、日本人に忘れ去られようとしているのが残念でなりませんでした。

最後の写真に映っている鯉を見て「塔の中のラプンチェル」を思い出しました。




2026年8月29日土曜日

保渡田古墳群の埴輪


群馬県高崎市にある「保渡田古墳群」にある八幡塚古墳の後円部からの景観です。

この古墳と二子山古墳の2基が復元されており、多種の埴輪が数多く陳列されています。

古墳自体の長さは100m超の長さですが、写真に見える小さな円墳が4基も脇を固め、更に2重の堀が囲むという、広大な敷地を有しています。

古墳の大きさを決める順番は、前方後円部本体のみの長さを基準にしてますが、堀も含めた長さと面積や、盛り上げた土の体積も考慮すると、順位がかなり変わってきます。

実際に作った方々は何を基準にして、規模を競っていたのか、はっきりしません。

5世紀頃の古墳時代に、正確な数値を測定していたとも思えず、見た目の印象がかなり重要視されたのではないでしょうか。

この古墳の主は、堀の中に小さな円墳を配置するなど、個性で勝負するつもりで築いたのではないかと、勝手に想像してしまいました。

下の写真は、外側の堀から撮影しましたが、人の背丈の高さからだと、堀がとても目立ちますし、墳丘は長さよりも、山のように高さを重視したほうが見栄えが良いと確信しました。


最近ドローンを活用した風景撮影が重宝されていて、立体的な楽しい視点ですが、昔の方々にはあり得ないことです。

AIも加わって、様々な視点や切り口が増えていくと思いますが、本来はどうだったのか、そもそもの原点を忘れない着眼点は、今まで以上に重要だと、自分に言い聞かせています。

訪問が夕方になってしまったため、隣接していた資料館は閉まっていたのですが、その周囲に盾を構えた埴輪が複数置かれていました。

顔の模様も入れ墨だと思われますが、戦闘集団の佇まいを感じますし、西日本との明らかな違いが伺えます。

従属的に思えない関東圏の古代世界について、より興味を持って調べていきたいと思います。

2026年8月22日土曜日

稲荷山古墳の鉄剣


写真の鉄剣を目の当たりにして、感動すると同時に猛省しました。

奥様の実家がある場所から、10数キロしか離れていないにも関わらず、やって来たのはつい最近です。

歴史好きとして、教科書級の「さきたま古墳群(行田市)」に出向いてなかったことに、一緒に連れてきた子供たちの背中を眺めながら恥じ入ってしまいました。

この子らが行きたいと言い出さなかったら、おそらく行ってません。

最近、古代史に特に興味が出てきて、様々な場所をウロウロしているにも関わらずです。

冒頭の鉄剣は、「稲荷山古墳の鉄剣」と呼ばれ、5世紀後半(推定)の古墳時代に作られ、国宝に指定されています。

刀身に、115文字の金象嵌銘文が刻まれており、ワカタケル大王(雄略天皇)に仕えた「ヲワケ」という人物の功績や系譜が記されているという、古代史上屈指の宝物であり資料なのです。

模造品ですが、眩いばかりのショーケースに入れられ、神々しいオーラを発しています。

ルーブル美術館で観た「ハンムラビ法典」に匹敵する気がしました。

馬や武具に関連する埴輪等も充実していて、また来たい衝動にかられています。

下の写真は、鉄剣が見つかった「稲荷山古墳」です。

散策コースとして登頂することも可能で、最も高い後円部には、どのような状態で鉄剣や埋蔵物が発見されたかの丁寧な解説があり、とても勉強になりました。

他にも、日本最大の円墳「丸墓山古墳」を始め、大小様々な古墳が集中していて、無料開放されていたのには感激です。

散歩だけでなく、トレーニングに走っている方もいて、アップ(古墳登頂部)とダウン(堀跡)のある素晴らしいコースです。

また、あらためて思い知ったのは、坂東平野における馬の重要性です。

平地で戦うため、騎馬の重要性が、他の地域よりも際立っているように思えました。

観光地が何もないと言われる埼玉県ですが、大宮市にある「鉄道博物館」の次くらいに取り上げたいと、謹んで喧伝いたします。

2026年8月15日土曜日

回天(平生基地)


山口県東南部の平生町にある「阿多田交流館」です。

企業訪問に向かう道中、カーブ越しに写真の〝回天〟が突然現れてビックリしました。

回天とは、太平洋戦争末期に開発された有人魚雷で、海で特攻するための兵器です。

以前にも、同県周南市沖合の大津島にある「回天訓練基地跡」を取り上げましたが、そのとき基地跡はしっかり見学したものの、回天記念館は閉まっていたため、実物や模型を拝見してませんでした。

それ以外にも、回天に関わる史跡は3つあったらしく、ここはその一つ「回天平生基地跡」になるそうです。

現在は資料館になっていて、その駐車場に鎮座してました。

訪問の帰りに、次の予定まで余裕があったので、写真を撮ろうと駐車場に入りました。

実寸大の模型のようですが、その長さに驚きです。

カメラの枠に中々入り切らず苦労しましたが、何とか前・横・後と、しっかり納めることが出来ました。


特に真横は、駐車場から出て、車道側から柵にへばりついて撮影。

かなり怪しい人です。

後ろから見ると、ただの棒状ではなく、抑揚ある流線形であったことを発見し、思わず感動してしまいました。


実は、海辺の鉄道ジオラマを作成中で、係留された潜水艦を組み入れたのですが、その潜水艦が回天を、親亀子亀のように搭載していたのです。

1/700の縮尺だったので、回天は爪楊枝くらいのサイズにしかなりませんが、これを観察したことで、作りこみのイメージが全く違ってきました。

やはり神こそ細部に宿ります。

最期の写真は内部構造の説明版ですが、丁度コクピットのある当たりに設置されてました。

本当に、一人の成年男子が乗り込み、敵艦への体当たりを目指した歴史を考えると、二度と製造してはならない兵器です。

鎮魂の意味も込めて、ジオラマを丁寧に仕上げたいと、オタクなりに気が引き締まりました。

ただ、何よりも大事なのは次のアポです。

うっかり忘れるところでした。


2026年8月8日土曜日

長崎平和公園


長崎市にある「長崎平和公園」を漸く訪れました。

近くに何度か来ていたのですが、その脇を車や路面電車で通り過ぎるのみで、気になりつつも行けてませんでした。

このときの旅は、ここを主要目的にしていたので、写真にある「平和祈念像」が見つめる南側の正面口から、ずっと歩いてきて背後の北限まで、じっくりと散策しました。

意外に感じたのは、この公園の形が思った以上に、細長かったことです。

このことは、原爆投下の解説版を見て納得しました。

目的地より、風の影響で北に流されて、縦長の形をした丘が爆心地になったからでした。

本来の予定地は、中華街のある市街地であり、あの未曽有の大被害でも、効果が半減していたことに大きな衝撃を受けました。

計画通りに落ちていたら、更に被害が拡大したことになります。

また、歩きながら思い起こしていたのは、ここに投下された原子爆弾のニックネームです。

ファットマン。

太った男という意味で、広島でその実寸大の模型を見たかと思いますが、本当に丸々と太った球形に近い代物でした。

風の抵抗は、かなり受けそうです。

しかしネーミングセンスは、アメリカン・ブラックジョークの極致ですし、細長い公園が蹂躙されたような不愉快な気分になってしまいました。

加えて、下の写真です。

途中、公園内に半地下みたいな踊り場があり、そこのガラス越しに原爆投下時の地層が見えるようになっていました。

瓦とかガラス瓶が、高熱で溶けて、一塊になっているのです。

そして、その印象を残したまま「平和祈念像」を見ると、人がモチーフになっていますが、変な位置に造形された関節がやたらと気になりました。

アートなのでしょうが、全体のフォルムとしても、奇妙な塊感が生まれており、グロテスクな心象を抱いてしまいました。

この暗黒面に落ちたような気持ちは、別の機会に再訪して、リセットしたいと考えています。
 

2026年8月1日土曜日

神武東征


空も海も真夏仕様で、海の猛々しさに目を見張りました。

写真に見える通り、波はかなりの高さで岸に迫っている様子で、海岸に近づくのが躊躇されます。

数日前の台風の影響が残っているようです。

車が近くにあると錯覚してしまいますが、実は高台に止めていて段差になっています。

加えて大きな砂浜により、海辺までの距離を保っています。

鹿児島県東串良町にある、肝属川の河口付近になりますが、下の写真の「神武天皇ご出航碑」が建立された神社が、すぐ近くにあります。

いわゆる「神武東征」がスタートした候補地の一つであり、初代天皇とされる神武天皇が、ここから兵を船に乗せて出征し、大和を攻略したという神話です。

実在が疑わしい天皇ですが、史跡をウロウロしている自分としては、比定すべき人物はいたような気がしてなりません。

ここは、鹿児島県でも西寄りの辺鄙な場所で、陸路で進むなら、かなり閉ざされた地域となります。

しかし、驚くほどに大規模な古墳群や史跡が、豊富に残っている地域であり、黒潮をうまく利用した交易の形跡が多分に感じられます。

ここを訪れたおかげで、古代史における前提として、海路で通じた人々の交流を、体感的に考えることが出来るようになった次第です。

自分の新しい趣味の扉が、大きく開きつつあるのを感じる瞬間でした。

外海の荒れた海原は、そんな妄想にふさわしい光景でした。


 

2026年7月25日土曜日

聖徳廟


ここの所在地は、「大阪府南河内郡太子町大字太子」で「叡福寺境内」の北側になります。

「太子」という表記で、勝手に「聖徳太子」と思っていたら、やはりその通りでした。

あくまで推定されている話になりますが、この周辺には叔母にあたる「推古天皇」始め、父親の「用明天皇」や、他の6世紀後半から7世紀前半の天皇と皇族が、集中的に埋葬されている地域で、エジプトなら「王家の谷」のような位置づけになるのではないでしょうか?

ただし太子の本拠地は、奈良県にある「法隆寺」界隈であったとすると、ここは二上山を越えた大阪府になるため、政治の中心地からかなり離されている気がします。

今回は自転車でウロウロしていたのですが、何か政変があったのではと、つい邪推してしまうのです。

ここには「太子信仰」なるものがあり、断片的に伺うだけでも神秘的な話が多いと感じます。

太子は27歳のとき、ここを埋葬地として指定しました。

神馬「甲斐の黒駒」に乗って天上を駆けて富士山頂に行ったとき、そこから見渡した下界の西方が輝いていたので、そこに向かうと素晴らしい霊地であると悟り決めたそうです。

写真は、「太子廟」の正門ですが、この奥に太子とお母さん、1日前に亡くなった奥さんが、一緒に葬られている横穴式石室があります。

3人の合葬墓は「三骨一廟」と呼ばれ、下の写真は石棺の配置を説明しているものです。

立ち入ることは出来ませんが、この周囲を「結界石」なるものが囲っていて、「空海」が一晩で築き上げたとの伝説も残っています。

とは言え、実際に築かれたのは鎌倉時代らしく、時代が嚙み合っていません。

例えが何かにつけて大仰なのです。

怖さを感じることがありませんでしたが、ありとあらゆる伝説を呼び込むような磁場が働いているような気がします。

また来ようと思いますが、そのときには何が渦巻いているのか、とても気になってしまいます。
 

2026年7月18日土曜日

パリ―食堂


埼玉県秩父市にある「パリ―食堂」です。

雑誌で見つけてからずっと気になっていたのですが、やっと訪問出来ました。

対峙した時のインパクトは十分です。

西洋風を意識した建物のど真ん中に、金色の文字で「パリ―」と表記。

カタカナ縦書きという、自分が習字するなら最も苦手な書き方です。

よく見ると本当に手書きしたかのように、「パ」の大きさに対して「リ」が小さめで、しかもやや左寄りになっています。

そして最期の「ー」は最も太く力強いという、習字の先生から朱書きされそうなアンバランスさです。

それが硬質で灰色の構造物に、何とも言えない愛嬌を生み出しています。

車を一時的に駐車して覗いてみましたが、残念ながら時間が早いため、開店してませんでした。

ただ仕込み中のいい匂いが漂ってきます。

次回、一番人気のオムライスを食することを決意しつつ、建物をとりあえず拝めたことに満足して引き下がった次第です。

創業は昭和初期らしく、100年以上続く食堂です。

国の登録文化財にも選ばれていて、入口の脇に表示の刻印版が誇らしげにありました。

漸く10年を経過し、次世代にバトンタッチした「デルタカフェ」ですが、その10倍の時間を有していると思うと、どのような歴史が刻まれてきたのか想像も出来ません。

今はおじいさんと若いお孫さんで切り盛りしているそうですが、老朽化が著しいため、建物の保存維持費用をクラウドファンディングで募っており、誇らしい先達として、営業を続けて頂きたいものです。

何故「パリ―」という名称なのかも謎のままで、再訪時食事を注文した時に伺う楽しみに残しておきます。

ここまで乗って来た愛車「マセラティ・クアトロポルテ」とも、一緒に写真を撮らせてもらいました。

この車、以前のブログで取り上げましたが、納車後1か月で希少な部品が破損してしまい、そのまま4年近く入院していたのです。

やっと復活しました。

恐るべしイタ車(痛車)の洗礼を与えてくれた存在ですが、この食堂にあやかり長く乗れますようにと、思わず祈ってしまいました。







 

2026年7月11日土曜日

唐船峡そうめん流し


鹿児島県で勤務し始めて、お客様と話をするときに「唐船峡(とうせんきょう)のそうめん食べた。」と、よく聞かれました。

最初は何のことかわからず、場所を調べてみると以前取り上げた池田湖の近くにあります。

詳しくは、鹿児島県薩摩半島の先端部に位置する指宿市の西部、池田湖の南西部に位置する峡谷が「唐船峡」と呼ばれ、その峡谷でそうめん流しをやっているのです。

正直なところ、そうめんをわざわざ屋外で食べなくてもいいかなと思う人間だったのですが、「行ってません。」と、営業上いつまでも答えるわけにもいきません。

指宿での案件が夕刻終ったとき、行ってみようと急に思い立ちました。

到着時間を確認すると、閉店1時間前には着けます。

平日であれば空いているはずで、家族連れが基本単位と思われるそうめん流しを、お一人様で食べても、おそらく恥ずかしさが半減するはずです。

ここがチャンスと向かいました。

まっ平な道を車で走って中国風の門がある駐車場に到着し、その門をくぐると、その先は峡谷になっており、ずっと下っていきました。

山あり谷ありではなく、平地からいきなり谷なのです。

突然の急勾配はシラス台地の特徴かなと思いつつ、川が流れている底地まで降りていくと、2軒のお店がくっつくように営業してました。

1つは市営で、もう1つは民間の経営です。

市営の方が料金設定が少し安く、民間は若干ですが高級志向のように見えました。

市営がなじめそうだったので、こちらに入店。

入ると写真の光景が待ち構えていて、やはり空いています。

皆さん家族連れです。

好きな色に座っていいと言われたので、黄色のテーブルを選び、一通りの品が入ったセットを注文しました。

流しそうめんの形式としては、円卓中央にある水流テーブルに自分でそうめんを入れて食するパターンです。

峡谷だけに、凄い長さの流しレールがあるだろうと、勝手にイメージしてしまっていたので、少し残念な気持ちになりました。

昔、丹原町にあった「りんりんパーク」と同じ形式です。

昭和を感じるプラスチック感までどこか似ています。

ここの名水を使った水流らしいのですが、「りんりんパーク」だって「うちぬき」の名水だと思うと、峡谷にいて何故この形式なのか、更に違和感が募りました。

ここは、そうめんに加えて「アユの塩焼き」が基本セットのようで、それにおにぎりが付いてきます。

そうめんは極めて普通でしたが、つゆにつけてすすった後、塩味のアユとおにぎりをほうばるのはシンプルにいい塩梅でした。

伺うと、ここには年間20万人が訪問するらしく、県民比率だと6~7人に1人は必ず訪れる計算になります。

薩摩半島に絞ればグッと比率が上がるので、夏の風物詩として、毎回聞かれるのも納得出来ました。

今度は民間経営の店にも行こうと思っていたのですが、残念ながらその機会はありませんでした。

1年間の生活では鹿児島は広すぎます。

 

2026年7月4日土曜日

近つ飛鳥博物館


今、自身の趣味として、古代史への関心が高いです。

最近読んだ雑誌に、この建物が掲載されていて、是非行ってみたくなり、当館を訪れてました。

大阪府南部の奈良県境に近い「河南町」にあり、結構不便な場所でした。

車でないと厳しいかと。

予想通り、設計者は安藤忠雄でした。

自分の感覚としては、あの方の作品に関して、周囲とのバランス上、首をかしげてしまうことがあるのですが、ここについては、当館のコンセプトとうまく融合していると思いました。

写真は、入り口に向かう通路から撮影しましたが、構造物全体の正面になるようです。

聳え立つのは「黄泉(よみ)の塔」と呼ばれるシンボルタワーです。

その手前から続いている石段は、上まで通じており古墳を連想させるイメージをうまく演出していました。

中に入ると、巨大な空間が展開されています。

国宝や重要文化財といった目玉になる展示物はありませんが、古代の中心を構成する地域だったであろう、この界隈の遺跡にて出土した品々が、丁寧に説明されていました。

運搬具や石棺等が、原寸大で復元された模型も充実して、体験型の勉強が出来ます。

とりわけ興味を引いたのは、下の写真にある古墳の復元ミニチュア模型です。

その地域の有力者が亡くなって、古墳内部へ埋葬されるまで、何段階かのプロセスをミニチュアで再現していました。

このシーンは、いよいよ古墳の玄室に埋葬すべく、遺体を厳かに運んでいるのですが、リアルに再現されています。

鉄道ジオラマを作成する立場としては、古代史からの視点だけでなく、モデラ―としても興味深く拝察させて頂きました。

大阪には長く住めそうなので、他の博物館にも足繫く通いたいと考えています。


 

2026年6月27日土曜日

山の上ホテル


「お茶の水」にある「山の上ホテル」が閉館したとの報を聞き、東京を訪問したときにわざわざ行きました。

多くの文豪と呼ばれる方々がここに宿泊して執筆活動をしていた有名なホテルです。

写真のように外観はそのままですが、バリケードで周囲が囲まれていて敷地内に立ち入ることは出来ません。

ただ、竣工から86年が経過し、老朽化による対策を検討するため長期休業するとのことで、完全に幕を閉じたようではないようです。

今更ながら一度泊まっておけば良かったと後悔してますが、1階のバーと半地下の喫茶室はよく利用しました。

特にバー「ノンノン」は、この辺りで飲める時間があれば最優先で向かいました。

雑誌でも取り上げられた有名店ですが、たった8席しかないため、入店出来ないこともしばしばでした。

その場合、注文してホテルのラウンジで飲んでも構わないのですが、ここのカウンターに座ることが目的なので、あきらめて引き上げました。

何を飲むかよりも、カウンターの雰囲気が最高なのです。

英国風とは言っても決して華美ではなく、テーブルも一枚板ではありません。

古さゆえに、綻びもかなり目立つ空間だったのですが、川端康成・三島由紀夫・池波正太郎のような文豪が培ってきたのか、特殊なオーラが醸造され、そこに漂っていた気がします。

この訪問後、朗報がありました。

隣りの明治大学がここの敷地を購入し、現在の外観を維持したまま改修工事を実施し、ホテルとして再開する方針を示してくれたのです。

いつかになりますが、再びあのカウンターで一杯やりたいものです。








 

2026年6月20日土曜日

立山ロープウェー


黒部ルートの中間地帯である「黒部平~大観峰」を結ぶ「立山ロープウェー」の景観です。

写真の山頂に、白い点のような構造物がわかるでしょうか?

この建物が「黒部平駅」になり、自分が撮影している場所が「大観峰駅」になります。

写真に写りませんが、この間はロープウェーを通すワイヤーで結ばれており、かろうじて見える向こう側(黒部平)から渡ってきました。

ここに来るまでに通って来た「黒部ダム」は別の機会に取り上げようと思いますが、困難を極めたダム建築よりも、山と山をワイヤーでつなぐほうが難しいのではないかと思ったくらいです。

次の写真は、「大観峰」の展望台になります。

標高は2316mで、西日本最高峰「石鎚山」よりも、更に約350mの高さがあります。

人の立ち位置で推察して欲しいのですが、覗き込む角度が尋常ではなく、山の斜面として過去最大の急勾配を体感出来ました。

伺ったのは、夏休みが終わった9月上旬の平日で、人が少ない時期らしいのですが、それでも人が押し寄せていると感じます。

また、乗り鉄として嬉しくなったのは、中継地点に駅名がついていることです。

やって来た「黒部平」はケーブルカーとロープウェーの乗換え地点になるため「黒部平駅」、ここ「大観峰」は、ロープウェーとトロリーバスとの接続により「大観峰駅」と呼ばれます。

黒部ルートの区間は鉄道ではありませんが、大阪からここに向かう前後は「青春18切符」の新ルール(3日間連続使用)をうまく活用しました。

全体的には、うまく鉄道旅行の枠に収まった印象です。

使用条件が厳しくなって利用者が減った「青春18切符」は、まだまだ工夫次第で何とかなるかもしれません。





 

2026年6月13日土曜日

田中一村


奄美大島に住んだ画家「田中一村」終焉の家です。

奄美大島の海岸線を背景に、南洋植物を大きく描いた独特の日本画で有名な方ですが、後世になってようやく評価を得ました。

体調を崩していた一村が療養のためこの一軒家に移り住んだのですが、10日後に亡くなってしまい、このような名称になったそうです。

69歳でした。

大事に保存されているようですが、南国特有の湿気がまとわりついており、かなり苔むしています。

もともとの生まれは栃木県栃木市で、東京育ち、若くして南画(水墨画)に才能を発揮して、東京芸術学校に入学してます。

今の東京芸術大学で、東山魁夷は同期です。

ここまではエリート街道ですが、学校の指導方針への不満や、父の病気などが原因で中退し、南画を描いて生計を立てる道を選んだようです。

これ以降は、様々な職業、住み家を転々としていきます。

奄美大島への単身移住は50歳のときでした。

50代の自分としては他人事とは思えず、この年齢での決断には忸怩たるものを感じます。

いっとき千葉にも戻りましたが、基本的には大島で活動しました。

その千葉では、お見合い話もあったようですが、進展なく独身のままです。

染色工とか農業の仕事をこなしつつ、画業に励みましたが、最後まで画壇に認められることはありませんでした。

病気もつきまとい、腰痛や眩暈による昏倒、加えて脳卒中も発症、そして最後の死因は心不全です。

最期の写真は、奄美空港近くにある「田中一村記念美術館」になります。

後世の評価の高まりが、この記念館を作る流れになりました。

この地域の伝統建築をモチーフにしたデザインで、一村の作品が数多く展示されています。

ゆっくり鑑賞させて頂きましたが、彼の画風と、建物の重厚すぎる空間が、どうも噛み合っていないような気がしてしまいました。

もしですが、終焉の家の通気をしっかりして住める環境に戻し、そこに飾って眺めたらどんな趣だろうと、つい想像してしまいます。

亡くなってからの評価というのは、悔しいです。
 

2026年6月6日土曜日

皇居外苑


用事があって東京から大阪へ戻るとき、深夜バスを選択しました。

東京駅の真ん前にあるバスターミナルから出発するのですが、かなり割高に感じる値段設定になっています。

東京ディズニーリゾートで、閉園まで遊んでも間に合う23時の出発からかもしれませんが、あと数千円出せば新幹線に乗れる水準です。

まだ夕刻なのに、予定もなく、珍しく時間が余っています。

日頃の行動からすると、あり得ない展開なので、何となく落ち着きません。

思いついたのは、神保町の古書街を散策することで、早速行ってみると、閉店時間の早さにビックリしました。

17時に閉まる店舗が結構あって、散策を始めた直後から、ガラガラとシャッターが下りていくのです。

18時は標準、遅い店でも19時には閉めてしまうようで、仕事帰りにウロウロするような行動習慣は、昔のことのようです。

居心地の悪いまま、古書店巡りを切り上げ、同じ界隈にある喫茶店「ミロンガ」に入りました。

ここは遅くまでやっていて、店内を覆うレンガ造りの壁は、いつ見ても素敵です。

コーヒーをゆっくり楽しんでも、時間の余裕があるため、追加でビールまで頼んでしまいました。

ほろ酔い気分で店を出ましたが、それでも20時前、ずいぶんと時間が残っています。

それで仕方なく、皇居外周を歩いて「東京駅」に向かうことにしました。

その道中、面白そうな店があれば夕食に入るつもりです。

「神保町駅」のある交差点から、南下開始。

「竹橋駅」に到着すると、ここから皇居外周の堀端が始まり、時計回りで動きます。

驚いたのは、ランニングしている方の多いことです。

チーム単位での走行も多く、人の流れはずっと途切れることはありませんでした。

当初の予定では「二重橋駅」を左折し、「東京駅」に向かうつもりでしたが、もう少し先まで歩くことにしました。

例年なら蒸し暑い6月なのに、涼しい風が吹いていて、快適だったからです。

東京にしては奇跡的な現象で、汗をかかずにすみました。

そして「桜田門駅」の手前まで行き、折り返して「日比谷濠」の城外側から、石垣を眺めつつ「東京駅」に到着しました。

写真は、石垣の背景に聳え立つビル街を撮影したモノですが、濠による合わせ鏡の景観が綺麗でした。

しかし、22時近くなっても窓の明かりは煌々と点いていて、残業している方の多い実態も垣間見えます。

結局、夕食にはいい縁が得られず、コンビニでサンドイッチを買ってバスに乗りました。

2026年5月30日土曜日

PLの塔


以前から大阪南部「富田林」の当たりに向かうと、よくこの塔が視界に入ってきました。

自転車でこの辺りを散策する際に、ここにも立ち寄ろうと向かいました。

この界隈は「PL教団」の本拠地で、その敷地内に聳え立つ塔です。

180mもあるらしく、目立つのは当然だと思いました。

正式名称は「超宗派万国戦争犠牲者慰霊 大平和祈念塔」であり、必殺技がいくつも組み合わさったような物凄い名称が冠されています。

教団の教えに「人生は芸術である」とあるらしく、二代目教祖がこの塔をデザインし、それを原型に建立したそうです。

世間的には、不気味とか、怖いとか、意味不明な様相に対する後ろ向きな評価が多いようですが、個人的には「教祖様なかなかやるなあ。」と、前向きに感心しています。

そんなことで、塔の真下まで行こうと近寄ったのですが、広大な敷地の通路はことごとく閉ざされていて近づけません。

普通に出入りできる公園の中に立っていると、安易に考えていました。

敷地の正門から入れば、1階までは見学出来ると、後で知りましたが、そこまでの気づきに至らず、一番近そうな柵の外側で撮ったのが、最初の写真です。

少し逆光気味だったので、建物の陰影が浮き上がり、かなり立体的な造形だと知ることが出来ました。

しかも、雲の形がとても良い日で、宮崎アニメのワンシーンのように感じました。

2枚目の写真は、帰りの駅に向かう途中、歩道橋から振り返って撮影しました。

周囲とは、あまりにも不釣り合いな形と高さで、怪獣が歩いているようです。

確かに、自分が住む近くにこの塔はいらないかなと、あっさり思い直してしまいました。
 

2026年5月23日土曜日

安倍晴明ゆかりの地


岡山県西部の内陸部を走る「井原鉄道」沿いをドライブして「平櫛田中美術館」に向かっていたときでした。

その美術館も素晴らしかったので、別の機会に取り上げればと思いますが、その道中に「安倍晴明ゆかりの地」と記された看板を発見しました。

その名前は「陰陽師」として、様々な題材に出てきますが、よくよく考えるとアニメのキャラクターと同じような認識でした。

お公家さんなので京都にずっといたと思っていただけに、どのようなゆかりがあるのか俄然興味が沸いてきて、予定を変えて向かうことにしました。

脇道に入り、北側の山奥へかなり進み、やっと次の写真の看板を見つけました。


説明文を読むと、この近辺にある「阿部山」で、晴明が天文観測のため居を構えたと伝えられており、そこが阿部神社(通称:晴明神社)になっているそうです。

ここまで来た以上、当然そこも目指しました。

しかし、山に向かうかと思ったら下っていき、窪地のような場所に到着。

最期の写真が、そこにあった神社の本殿です。

参拝した直後に、人の気配が及ばない閉ざされた空間に入り込んでいると感じました。

手前の荒れたように見える場所は、祈祷でもしたのか燃やしたような跡です。

でも、ここや本殿に磁場のようなものは感じません。

幸いなことに、悪い印象はしなかったので、そう感じる何かを捜しました。

そうしたら、最初の写真にある小さな石でした。

場所は窪地の入り口付近です。

おそらく、晴明はここに来ていないでしょうが、この石は何かの役割を与えられてここに
置かれたような気がします。

実在の人物としては、大河ドラマ「光る君へ」に出てくる通り、「花山天皇・一条天皇・藤原道長」に関わっていたようです。

その功績もあってか、下級貴族でありながら「従四位下」を与えられており、陰陽師としての一族の立場を確立しました。

日本史における呪術の影響について、おぼろげながら考えてしまう不思議な体験でした。