たまたま京都の西陣地区界隈をブラブラしていて、偶然発見しました。
家と家の隙間に作られた記念碑で、邸宅を想像出来るようなものは何一つ感じません。
しかし「応仁の乱」の西軍の総大将である「山名宗全(持豊)」がこの当たりを拠点にしていたのです。
改めて京都の街中で11年も戦争をしたのだと、正直あきれてしまいます。
「三管領」の一つである「畠山氏」の跡目相続が、他家の諸事情に飛び火して、もめにもめたグダグダな戦でした。
いろんな有力者が直接関係ない他家の問題に口だし・肩入れすることで、「大義名分」がはっきりしない戦が延々と続いたのです。
日本史上最大の相続争いだと思います。
しかも当事者が亡くなっていくことで、よくわからないまま収束していきました。
室町時代の上流武士層は、「将軍家」が京都に政庁を構えたことで、公家文化に取り込まれていったと思います。
その課程で公家特有の「無責任体質」も根付き、汚れ仕事をどんどん家臣に任せることで、当事者能力を失い、自然と実権を放棄していく。
これが「下克上」の風潮を生み、戦国時代に突入していったと考えます。
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