「織田信長」の次男「織田信雄」。
バカ殿として有名な人物です。
「安土城」の天守閣が消失したのも、この方が焼いたと、言われる説が有力です。
それ以外にも、周囲に助けてもらっているのに、破局させるようなことを、何回もやらかしてます。
「本能寺の変」後は、織田家筆頭の立場でありながら、結局は「豊臣秀吉」の配下となります。
天下統一の最終局面である「北条攻め」にも参加し、その論功行賞で「徳川家康」の関東移封により、旧領となる東海地方を与えられます。
しかし尾張からの移封を拒んだため、秀吉が激怒し、改易となります。
ここから先はあまり詳しく知らなかったのですが、流浪して伊予にもいたようです。
その後復活しても、また改易とかを繰り返し、豊臣滅亡後に、大和国の「宇陀松山藩」初代藩主となります。
他の領地と併せて5万石くらいなので、しぶとい復活です。
写真は、この藩の記念館を訪れたときに、飾られていた当人の肖像画です。
ひょうひょうとしていて、掴みどころがない人柄が出ていました。
家臣団を虐殺したり、無謀な戦で自軍の戦死者を数多く出したり、さんざんなことをやってますが、ココを所領に京都で優雅な隠居生活を送り、73歳の天寿を全うしました。
ある意味、戦国時代で、一番ハートが強い方だったかもしれません。
サラリーマンの視点では、一番上司になって欲しくない方です。
薬の看板がいっぱい展示されていました。
その一枚ですが、「〇〇につける薬」はさすがにありませんでした。