2021年12月25日土曜日

織田信雄


「織田信長」の次男「織田信雄」。

バカ殿として有名な人物です。

「安土城」の天守閣が消失したのも、この方が焼いたと、言われる説が有力です。

それ以外にも、周囲に助けてもらっているのに、破局させるようなことを、何回もやらかしてます。

「本能寺の変」後は、織田家筆頭の立場でありながら、結局は「豊臣秀吉」の配下となります。

天下統一の最終局面である「北条攻め」にも参加し、その論功行賞で「徳川家康」の関東移封により、旧領となる東海地方を与えられます。

しかし尾張からの移封を拒んだため、秀吉が激怒し、改易となります。

ここから先はあまり詳しく知らなかったのですが、流浪して伊予にもいたようです。

その後復活しても、また改易とかを繰り返し、豊臣滅亡後に、大和国の「宇陀松山藩」初代藩主となります。

他の領地と併せて5万石くらいなので、しぶとい復活です。

写真は、この藩の記念館を訪れたときに、飾られていた当人の肖像画です。

ひょうひょうとしていて、掴みどころがない人柄が出ていました。

家臣団を虐殺したり、無謀な戦で自軍の戦死者を数多く出したり、さんざんなことをやってますが、ココを所領に京都で優雅な隠居生活を送り、73歳の天寿を全うしました。

ある意味、戦国時代で、一番ハートが強い方だったかもしれません。

サラリーマンの視点では、一番上司になって欲しくない方です。

薬の看板がいっぱい展示されていました。

その一枚ですが、「〇〇につける薬」はさすがにありませんでした。


2021年12月18日土曜日

ラピュタの城


個人的には「ナウシカ」よりも「ラピュタ」のほうが好きです。

世界観もですが、ストーリーの作り込みが素晴らしいと、再放送を観る度に思います。

写真は「別子銅山上部鉄道」の終着駅「石ヶ山丈」にある用水路跡です。

ここには中々訪れることが出来てませんでした。

今回の訪問ルートは、北側の「銅山峰」からの鉄道跡を辿っていくのではなく、南(平野)側の山間部から「魔戸の滝」近辺の側道を登って辿り着きました。

林道として最低限の整備はされていましたが、誰も来ないせいか路面が大荒れで歩いて向かいました。

茂みが多くてあまり日が射しません。

それでも何とか停車場跡らしき場所について、光が射す方向を見上げたとき、斜面の頂に写真にある人工物を見つけたのです。

「ラピュタ発見!」の心境です。

斜面を登っていくとレンガ作りの貯水槽跡(2枚目の写真)であることがわかります。

逆に眼下を見ると、用水路として敷かれていたパイプ管跡の空洞の先に、平野部の集積基地であった「端出場」が一直線に見えていました。

往事を思い起こせる史跡として残っており、思いがけず宮崎ワールドを堪能出来ました。

次回は子供を連れていってみたいです。

どんな反応をするか楽しみですが、自分が「中二病」を実感することになるだけかもしれません。


2021年12月11日土曜日

ノートルダム大聖堂


パリの真ん中を突っ切っている「セーヌ川」の中州に「シテ島」があり、そこに写真の「ノートルダム大聖堂」があります。

「エッフェル塔」に匹敵するパリのランドマークです。

この界隈を歩いていると、パリの始まりとなる地域である雰囲気が何となく伝わります。

建物の斜め後方から中心に位置する尖塔を撮影したのですが、この翌年に火災で焼けてしまいました。

不謹慎ですが、全体のバランス的にはなくてもいいような存在と感じていました。

有名なツインタワーのようなゴシック建築の正面から回り込んで、この写真に写っている側面から観ると、ロマネスク様式の面影を感じます。

あとで調べると完成に長い時間がかかったため、様式が混同されていったそうです。

そのためシャープな尖塔が建てられた後に、ゴシック様式の高い建物がくっついたように見えるのです。

今一つまとまってない印象があるのに納得です。

しかしデザインにおいては、この歴史的要素が妙な味を生むから不思議なものです。

現在再建中だそうですが、立て直す前に尖塔なしの状態で眺めたいと、失礼な願望が沸きました。

どっちが格好良く見えるのか、シンボリックに感じるのか。

パリ市民ではないので、どうでもいいかと思いつつ、少し野次馬根性が出ました。


2021年12月4日土曜日

妙覚寺


正門から見ると典型的な日連宗のお寺ですが、実は「織田信長」の京都におけるメインの宿泊所です。

京都滞在時、ココに18回、本能寺に3回宿泊したらしいです。

(このブログはずいぶん前に書いていたのですが、大河ドラマ「麒麟がくる」でも、織田信長の拠点としてよく登場します。)

「本能寺の変」が起こったとき、嫡男「信忠」が宿泊していたのですが、信長の救援に向かったため、「明智光秀」の返り討ちにあってしまいました。

もし無事に逃げおおせてたら、織田家に成年男子の後継者が健在することになります。

そのため跡目争いの余地はなく、その混乱にうまくつけ込んだ「豊臣秀吉」の、その後の天下統一はなかったかと思われます。

光秀は、親子で屠ろうと考えたばずでしょうから、逃げきれなかっただけかもしれませんが、天下統一プロセスのキーポイントとなりました。

また別の視点では、宗教弾圧のイメージが強いため「魔王:信長」と称されることもありますが、この宿泊の事例からも、宗教勢力への「武装解除」が目的と思われます。

「法敵:信長」を主張している日連宗ですが、その寺への常宿は、関係改善がなければ果たせないことです。

実際のところ、解除後は、それなりの温情的な対応を図っています。

今の所在地は秀吉の命で移転した後だそうです。

秋期しか開いていないのを知らずに立ち寄ったので、たまたま入れてラッキーでした。

紅葉ばかりが無造作なほどに茂って、道だけが浮かび上がっている苔庭は、非常に雄大でした。

逆に写真のように、閉ざされた中庭には小さな「達磨」が鎮座されてました。

苔の丘に、歩道が意匠を凝らした石組みで表現されており、思わず宇宙を感じてしまいました。

小さな空間に吸い込まれそうで、非常に参考になりました。


下の写真も同じ場所を奥の部屋から捉えた一枚です。

縁のある丸窓が、視界を限定していて、惑星が浮いているように見えました。