2024年11月30日土曜日

山奥のカフェ


前回のブログで山口県には小洒落た雰囲気のカフェがないようなことを言いましたが、少しだけ前言撤回させて下さい。

一つだけ例外を思い出しました。

「俵山温泉」の道中で、遠回りして帰ろうとしたときに、偶然にもロバさんらしき看板を見つけました。

写真の通り、飛び跳ねた姿態の立体的な木彫りです。

センスの良さを感じます。

何を売っているのかと、いそいそと車を停めて近づきました。

こういった間合いは、山口県では初めてのことです。

嬉しいことに、「カフェ」兼「古本屋」兼「小道具屋」さんでした。

お腹は減ってなかったのですが、ここであったが100年目の面持ちで店内に入ります。

コーヒーとプリンしかありませんでしたが、頂くことにしました。

苦みの強いコーヒーと、卵風味の強いプリンの組み合わせは、かなり満足出来ました。

ついでに、「つげ義春」の古本もあったので購入し、失礼してあらためて外観を眺めましたが、平屋住宅と小屋が混同されたような様式は何とも言えませんでした。

内部も、小屋から納屋へ、そして母屋の空間へと、扉とかなくても、その間仕切りごとに雰囲気が変わり、旧施設の残り香をうまく再利用していると感心しました。

デルタカフェの2号店を、辺鄙なところに建てるとすると、こんな廃屋を探したらいいなあ、と感じた次第です。

でも、人の営みがあってこそで、妄想よりも本店の運営が最優先です。


 

2024年11月23日土曜日

俵山温泉

 


山口県に住んでいて、休日に一番よく行った温泉は、「俵山温泉」です。

下関市と長門市を結ぶ中間地点にあり、広域道路の発達した山口県の中では、辺鄙な場所になります。

それでも自宅から車で一時間ほどで行けるので、昼食を食べるついでにロングドライブするような流れでした。

スムーズに運転出来て快適な道中なのですが、山口県には前回取り上げたような小洒落たカフェとかがあまりありません。

ここは愛媛県とはかなり違います。

温泉に着いてすら、数少ない店がやってないことも多いので、山間部に入る前におにぎりは備えとしてコンビニで買って行きました。

一度、宿泊したのですが食事する場所がなく、夕食抜きで寝ることがあったからです。

山口県に住む前にも、ここは名湯であると伺っていたので来たことはありました。

ここの入浴の形式は変わっていて、それぞれの旅館には内湯がありません。

宿泊者は全員、数か所ある外湯に入るのです。

そのときは休日でもあったので、外来客も交じってごった返していたのを記憶してます。

それからかなり寂れてしまったようで、以前に入浴した浴場は廃止されてました。

旅館も建物こそありますが、閉めているところが多いです。

外来で入れるなら、わざわざ泊まるメリットを感じないのではないでしょうか。

新たに、大きめのスーパー銭湯的な浴場は出来ていますが、それが過疎化に拍車をかけたような気がします。

ここだけに人が集まってしまい、温泉地ならではの風情が薄れてしまったのは残念です。

それでも、源泉のある共同湯は残っていて、いつもそこに行きました。

何の特徴もない公民館みたいな場所で、人も混んでいますが、何故か居心地が良かったです。

無味無臭の透明な泉質ですが、何の良い成分が体に染み込んでいく気がして、非常に安らげました。

下の写真は、唯一やっているお菓子屋さんです。

店の雰囲気と比較すると、若い方がお饅頭を焼いており、頑張って続けて欲しいと思いますが、あまり流行ってない雰囲気を感じると、旅行者のわがままかと切なくなりました。

本当に続けることは難しいです。



2024年11月16日土曜日

唐津城


「島原城」のときに取り上げた「唐津城」です。

近い時期に伺ったので、その流れで取り上げます。

父親の「寺沢広高」については、唐津へ着任時に反対勢力を徹底的に弾圧し、早期に基盤の安定化を図ることに成功したようです。

「豊臣秀吉」配下の武将らしく、河口付近の大改修や、砂州へ松の植林(虹ノ松原)、城下町の整備、産業の導入を積極的に行い、繁栄の礎を作りました。

ただ、その死後は「徳川家康」に近づき、関が原の戦いでは東軍に与して、勝者として近世大名になりました。

その際に「天草諸島4万石」を飛び地として加増されて、石高「12万3千石」となります。

写真の通り、東側の河口から展望すると水に浮かんでいるように見え、フランスの「モンサンミッシェル」のような趣すら覚えます。

海に突き出た高台に、総構えで石垣を幾重にも重ねていて重厚感を感じる城ですが、かなり節約して建てられたようです。

先ず、当初から天守閣は築かれることなく、今のは昭和41年に文化観光施設として築かれた“なんちゃって天守閣”です。

また、領内の廃城となった「名護屋城」の遺材を転用してコツコツと、7年かけて築かれました。

そのため、築城が理由で、キリシタンの弾圧は実施されてません。

この「広高」という人物は、トレンドに敏感な方でキリシタンだったそうなのですが、「禁教令」が出た途端に迫害に転じたそうです。

幕府のご機嫌を取ったような動きでした。

遠い飛び地の「天草」での弾圧は、本領と異なる植民地の感覚だったように思われますし、行政手腕から考えて、禁教させるために効率的に搾り取った結果だったのかと推測します。

その搾取のおかげで、本領の「唐津」は更に潤い、幕府の方針も遵守している一石二鳥の構図です。

誤算は、対岸にある「島原藩松倉氏」の大弾圧の影響を考慮できなかったことです。

石高4万石の規模で、ここよりもはるかに大規模な「島原城」を築いた凄まじさは、「対岸の火事」ではすみませんでした。

本人が亡くなった後、息子の「堅高」になって「島原の乱」が勃発、天草のキリシタンも対岸に渡って「原城」で戦いました。

戦後処理では「天草」が取り上げられただけで済みましたが、江戸詰めで軟禁されたような生活になり、自刃してお家断絶という悲惨な末路でした。

ここからの帰りに、一番の目当てだった場所に向かいました。

城から東側の海岸線は松林になっており、先述した「虹の松原」です。

ここに「唐津バーガー」を販売している車がいます。

このお店は複数店ありますが、どこも車で販売しています。

下の写真の通り、昭和レトロな雰囲気が溜まりません。

ベーコンと卵入りのハンバーガーに、フライドポテトと、コンフィデンスミルク入りのホットミルクを食しながら、下関に戻りました。

少し殺伐とした気分になっていたので、ホッコリ出来ました。

2024年11月9日土曜日

竹崎城

 

どこにあるのだろうかと、迷いながら辿りついた次第です。

途中から案内板が見えたので、楽勝かと思いましたが、九州高速道路が走っている山際を分け入るよう突き進み、ほとんど使われてない高速道路の側道らしき道を、出たり入ったりしながら斜面を上っていきました。 

立体化されたコンクリート土台の道で、本来の登城路はどこにあるのかわかりません。

中世の城跡であり、しっかりした縄張りがあるとも思ってないので、本当に通じているのだろうかと不安に駆られました。

何回かの折り返しで、ようやく区画整理されてない道になり、城に近づいている実感が出てきました。

しかし自然道になると落ち葉が腐葉土化しており、スリップしないようにノロノロ運転です。

こんな調子だと、徒歩でもこの後かなり歩くのかと億劫になりましたが、写真の通り本丸らしい土手のすぐ脇まで着くことが出来ました。

この「竹崎城」は「竹崎季長(たけざきすえなが)」の城と言われてます。

日本史の教科書にも出てきますが、「元寇」に際して、自分の手柄を主張するために絵巻物「蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)」を作らせた武将です。

ここは熊本市の南方にある宇城市にあり、九州道の松橋インターチェンジの南側に位置します。

しかし、やっとのことで来れたのですが、案内板には城と武将を直接結び付けるのは難しいように書かれています。

時代的には標高も高いし、曲輪も数多くあって、南北朝の城だそうです。

まあ、中世の武将に城主を当てはめるのは、相当の無理があるのはわかってました。

しかし、城郭の地図を眺めるたびに表記されていてずっと気になっていたので、来れた達成感はあります。

ぐちゃくちゃな道程でしたが、やっとスッキリすることが出来ました。

ただのアホな行動ですが、止められません。




2024年11月2日土曜日

島原城



久しぶりに訪れた「島原城」です。

小雨まじりの陰鬱とした天候でしたが、かえってこの城の雰囲気に合ってました。

天守閣はコンクリートでの再建とはいえ、眼前まで駐車場となっていて、直に車で乗り付けられるのはここしか記憶がありません。

総石垣と堀に囲まれた本丸と二の丸は綺麗に残っていて、その中心に聳え立っているにも関わらず庭がないのが不思議です。

下の写真の縄張り図をご参照下さい。

広大な範囲に築かれた城郭であることが、よくわかると思います。

平成2年に発生した「雲仙普賢岳大噴火」に際しては、自衛隊も含めた支援部隊の拠点として利用されたほどです。

舗装されているのはそのせいかもしれませんが、とにかく殺伐とした雰囲気は、前回訪問したときと変わりませんでした。

天守閣に「破風」がなく、西洋的な趣だからかもしれません。

迫害を受けたキリシタンが起こした「島原の乱」は、幕末を除いた江戸時代の最大の戦争と言えます。

その原因となった島原半島での大弾圧は、ここの領主である「松倉重政・勝家」親子が、この島原城を築くために、領民へ過酷な年貢の取り立てを実施し、年貢を納められない農民や、改宗を拒むキリシタンに対して拷問・処刑を行ったためです。

4万3千石の禄高で、この大規模な築城はあり得ません。

この経緯を知っているためか、どれだけの血を吸って大きくなった城なのか、どうしても恐怖を感じてしまいます。

近世の城郭は、特に為政者の権威を象徴する側面が強い存在ですが、ここほど「支配者」の畏怖を体現している城はないかと思います。

加えて、対岸の天草地方は、唐津藩領の飛び地であり、唐津城主「寺沢広高・堅高」親子が、キリシタンへの弾圧を行っており、双方のキリシタンが「原城」に合流して籠城戦が始まりました(勃発時に父親はなくなっているため、両家とも子供の代)。

「唐津城・原城」については、別の機会に取り上げたいと思いますが、乱終結後の処分については、松倉家は取り潰しで、勝家は斬首となりました。

大名が、切腹でなく斬首となったのは、江戸時代を通じてこの1例のみです。

寺沢家は、天草領を没収のみと比較的軽めでしたが、堅高自身は、江戸詰めで出仕は許されないという、生殺し状態に置かれました。

そのためか精神面を患って自害し、跡継ぎもいないため、同じく取り潰しとなりました。

そんなことを思い出しながら、高石垣の堀を除きつつ本丸の周囲を散策したせいか、何かに引き摺り込まれて落ちないように、相当腰が引けてたと思います。