「島原城」のときに取り上げた「唐津城」です。
近い時期に伺ったので、その流れで取り上げます。
父親の「寺沢広高」については、唐津へ着任時に反対勢力を徹底的に弾圧し、早期に基盤の安定化を図ることに成功したようです。
「豊臣秀吉」配下の武将らしく、河口付近の大改修や、砂州へ松の植林(虹ノ松原)、城下町の整備、産業の導入を積極的に行い、繁栄の礎を作りました。
ただ、その死後は「徳川家康」に近づき、関が原の戦いでは東軍に与して、勝者として近世大名になりました。
その際に「天草諸島4万石」を飛び地として加増されて、石高「12万3千石」となります。
写真の通り、東側の河口から展望すると水に浮かんでいるように見え、フランスの「モンサンミッシェル」のような趣すら覚えます。
海に突き出た高台に、総構えで石垣を幾重にも重ねていて重厚感を感じる城ですが、かなり節約して建てられたようです。
先ず、当初から天守閣は築かれることなく、今のは昭和41年に文化観光施設として築かれた“なんちゃって天守閣”です。
また、領内の廃城となった「名護屋城」の遺材を転用してコツコツと、7年かけて築かれました。
そのため、築城が理由で、キリシタンの弾圧は実施されてません。
この「広高」という人物は、トレンドに敏感な方でキリシタンだったそうなのですが、「禁教令」が出た途端に迫害に転じたそうです。
幕府のご機嫌を取ったような動きでした。
遠い飛び地の「天草」での弾圧は、本領と異なる植民地の感覚だったように思われますし、行政手腕から考えて、禁教させるために効率的に搾り取った結果だったのかと推測します。
その搾取のおかげで、本領の「唐津」は更に潤い、幕府の方針も遵守している一石二鳥の構図です。
誤算は、対岸にある「島原藩松倉氏」の大弾圧の影響を考慮できなかったことです。
石高4万石の規模で、ここよりもはるかに大規模な「島原城」を築いた凄まじさは、「対岸の火事」ではすみませんでした。
本人が亡くなった後、息子の「堅高」になって「島原の乱」が勃発、天草のキリシタンも対岸に渡って「原城」で戦いました。
戦後処理では「天草」が取り上げられただけで済みましたが、江戸詰めで軟禁されたような生活になり、自刃してお家断絶という悲惨な末路でした。
ここからの帰りに、一番の目当てだった場所に向かいました。
城から東側の海岸線は松林になっており、先述した「虹の松原」です。
ここに「唐津バーガー」を販売している車がいます。
このお店は複数店ありますが、どこも車で販売しています。
下の写真の通り、昭和レトロな雰囲気が溜まりません。
ベーコンと卵入りのハンバーガーに、フライドポテトと、コンフィデンスミルク入りのホットミルクを食しながら、下関に戻りました。
少し殺伐とした気分になっていたので、ホッコリ出来ました。
0 件のコメント:
コメントを投稿