山口時代は「下関」に住んでおり、「唐戸市場」の近くでした。
そのすぐ東北側に「火の山」があり、頂上部が公園になっています。
その展望台からの一枚です。
非常に天気がよく「関門海峡」が大きく見渡せます。
手前が内海である「瀬戸内海」側、奥が外海の「玄界灘」になります。
中国・朝鮮半島の大陸側から見れば、都のある「奈良・京都」に向かう内海への入り口となり、古くから国防上の重要拠点でした。
ここから敵襲来を確認する物見としての価値は、有史以前から不変と思えます。
この山の名称通り、それを知らせる狼煙の火が上っていたことは間違いありません。
天智天皇時代に「百済」の再興をかけて、新羅・唐連合軍と戦い敗れた「白村江の戦」後、国防ラインとして重要視されました。
「火の山城」という朝鮮式山城が築かれますが、幸い攻めてくることはありませんでした。
その後の時代も、何らかの城が存在していったようですが、その遺構ははっきりわかりません。
近代においては、日本帝国陸軍の「火の山砲台」が築かれ、周辺の整備が進んだためです。
それ以降も公園への転換が進められたことから、更に多くの遺跡が消滅していったようです。
砲台については、着弾の正確性は怪しいですが、海からの高低差を勘案すると相当な飛距離が稼げたかと推察出来ます。
下の写真は、砲台跡にある生活空間です。
料理のための竈が残されており、軍事施設における妙な生活感が、未だに漂っていました。
ちょうど桜が終わりかけの時期で、風が強いせいか落ちている花びらも含めて、その多くが海のほうに舞い散っていました。
陽光のおかげで、時折キラキラしてダイヤモンドダストのようにも見えます。
この界隈では最も風光明媚なスポットでした。