2025年4月26日土曜日

デルタⅢ(スリー)


写真は、三代目の「ランチア・デルタ」です。

ちなみに「デルタカフェ」に鎮座しているのは、初代モデルの最終型になります。

それなりに魅力的な車なのですが、名前から彷彿させるイメージの踏襲はほとんどなく、別の車名にしたほうがマーケティングとしては成功したのではと思います。

「ランチア」は本当に販売戦略が下手で、着実に消滅に向かっている時期でした。

「マセラティ・クアトロポルテ」が1か月で入院状態になり、急遽代役として頑張っていた「アルファロメオ147」もシフト故障で買い替えるしかなくなった末の購入でした。

当時の勤務地である山口県は、オフィスが県の最西端に位置する「下関」にあることもあって常に半径での移動を強いられました。

企業群は山口県東部に多く、「岩国・柳井」方面を回って帰社すると、走行距離500キロを超えることになります。

毎月3000キロ前後を走ることになり、短命だった「アルファロメオ147」も約9か月で3万キロ近くまで走ってました。

よく頑張ってくれたと、あらためて感謝です。

早馬を飛ばすが如く、次の次に乗り換えたのが、この車です。

予算がないので、いつもお世話になっている京都のお店に、何か面白い下取車がないかと模索していると、コイツに当たりました。

実は、一度購入を検討したことがある車種ですが、車格が大きいことが支障となり、家族の乗りやすさを踏まえて、「ランチア・ムーザ」を選びました。

そのときはガソリン車でしたが、今回は初めてのディーゼル車になります。

借りていた代車を京都まで返しつつ、この車を受け取って「千里万博公園」に向かいました。

「ラーメン博」が開催されていたからですが、数種類のラーメンを満喫しつつ、そのときの夕暮れ時の空がとても爽やかでした。

「太陽の塔」も添えて最初の一枚を撮った次第です。

「太陽の塔」は地下も含めて顔が4つあるのですが、個人的にはこの背後の顔が一番好みです。

しかし不思議な縁で、約2年後に同じ風景が拝める場所に勤務することになりました。

今、下の写真を見ると、このとき伝えられたように感じます。

予言者みたい。

 

2025年4月19日土曜日

塩浸温泉(しおびたしおんせん)


よくバス旅行のとき「最初に新婚旅行をしたご夫婦は?」とガイドさんがクイズを出していた記憶があります。

答えは言わずと知れた「坂本龍馬とおりょう夫妻」ですが、「西郷隆盛」の勧めにより、幕府の追手から逃れるのと、傷の療養を兼ねて、二人で鹿児島を訪れたときのことを指しています。

その経緯が「新婚旅行」に認定されて、ここにも18日間滞在したそうです。

ここは、「鹿児島空港」から「霧島神宮」に向かう道中にあり、以前から何度も通っているのですが、カーブの停めにくい場所に駐車場があるため、気になりながらも他の温泉に行ってしまってました。

伺ったのは鹿児島を去る最後の週末です。

「龍馬公園」と銘打ち大きな看板はありますが、宿泊施設もなく公共浴場の体裁でした。

入浴料金も銭湯と同じで500円を切っています。

温泉が始まったのも江戸時代後半と比較的新しく、その後潰れたりしながらも、復活を繰り返しているそうです。

幸いなことに誰もいなかったので、浴場を撮影させて頂きました。

朽ちそうなコンリート空間。

鄙びていて自分好みの空間です。

泉質は「重炭酸土類泉・炭酸水素塩泉」と聞きなれない名称でしたが、少し黄色がかったような灰色で、温度は少し温めでした。

湯船に浸かり体をこすると、キュッキュッと音がなるようなサッパリした感触があります。

首までしっかり浸かっていてもあまり暑くならず、最後まで誰も来なかったので、長時間貸し切り状態を満喫できました。

風呂上りも爽やかですが、体の芯が十分に温まっているのがわかります。

鹿児島は、今まで住んだ中で温泉を一番身近に感じた場所でした。

住まいの徒歩圏内にも数件の銭湯があって、ほとんどが「源泉かけ流し」です。

しかも、全部泉質が異なります。

まさしく桜島の奇跡を堪能しました。

自分の行きたい部署があってその希望が通り1年で去ることになるのですが、職場環境も含めて不満があるわけではなかったので、名残惜しくてしょうがありません。

下の写真にある取ってつけたような像を眺めつつ、また折を見て来ようと思いました。

なかなかに遠い場所ですが。

 

2025年4月12日土曜日

隼人塚(はやとづか)


鹿児島県で、欠損がない石像を初めて見たと思いました。

何度か取り上げた「廃物希釈」のせいで、この県では五体満足な「石仏」が存在しません。

この石塔と四天王に囲まれたエリアは、仏教認定されずに助かったようです。

ここに来る直前に、真っ二つに割られた仁王像を拝んでいたので、なおさら思いました。

雅楽の舞踊にて、下の写真のような特徴のある兜を被って優雅に舞っている姿を見たことがありますが、この明確な出立ちがなければ無事に済まなかったと思われます。

日本神話では、南の「隼人」や北の「蝦夷」については未開の野蛮人のように描かれることが多いです。

大御所の漫画家の影響があるような気がします。

しかし実際に旅して現地に行ってみると、そうとも思えない光景によく出くわします。

ここもそうです。

「天皇家」につながる神々が眠っている御陵もこの界隈にあり、自分の中で描くイメージは全く異なるものです。

話を変えます。

「城」の趣味についてですが、最近のネット地図は細かく表示されて、ビックリすることがあります。

ズームして行きたい場所を確認していると、邪魔なくらい城名が出てきます。

かなりの数を回っているつもりですが、これではきりがありません。

歴史的なトピックスがなければ、あまりにも小さい城は場所がわかればいいかと割り切る様になってきました。

地元の人でも知らないような場所を探すのが楽しかったのですが、最近は「城」のテレビ番組も多くなり、アングラ感が薄れた感じがします。

その代わりに、今回取り上げたような史跡を重点的に回り始めました。

「何でここに、これがあるのか。」

慌ただしいながらも、今までより間合いを取って遺跡・史跡巡りを心がけるようになりました。

新しい扉が開きつつあるような気がするこの頃です。


 

2025年4月5日土曜日

下関海峡



山口時代は「下関」に住んでおり、「唐戸市場」の近くでした。

そのすぐ東北側に「火の山」があり、頂上部が公園になっています。

その展望台からの一枚です。

非常に天気がよく「関門海峡」が大きく見渡せます。

手前が内海である「瀬戸内海」側、奥が外海の「玄界灘」になります。

中国・朝鮮半島の大陸側から見れば、都のある「奈良・京都」に向かう内海への入り口となり、古くから国防上の重要拠点でした。

ここから敵襲来を確認する物見としての価値は、有史以前から不変と思えます。

この山の名称通り、それを知らせる狼煙の火が上っていたことは間違いありません。

天智天皇時代に「百済」の再興をかけて、新羅・唐連合軍と戦い敗れた「白村江の戦」後、国防ラインとして重要視されました。

「火の山城」という朝鮮式山城が築かれますが、幸い攻めてくることはありませんでした。

その後の時代も、何らかの城が存在していったようですが、その遺構ははっきりわかりません。

近代においては、日本帝国陸軍の「火の山砲台」が築かれ、周辺の整備が進んだためです。

それ以降も公園への転換が進められたことから、更に多くの遺跡が消滅していったようです。

砲台については、着弾の正確性は怪しいですが、海からの高低差を勘案すると相当な飛距離が稼げたかと推察出来ます。

下の写真は、砲台跡にある生活空間です。

料理のための竈が残されており、軍事施設における妙な生活感が、未だに漂っていました。

ちょうど桜が終わりかけの時期で、風が強いせいか落ちている花びらも含めて、その多くが海のほうに舞い散っていました。

陽光のおかげで、時折キラキラしてダイヤモンドダストのようにも見えます。

この界隈では最も風光明媚なスポットでした。