福岡県の沖合にある「壱岐島(いきのしま)」。
都道府県になる前も「壱岐国(いきのくに)」と呼ばれて、国の単位でした。
更に古代に遡って「卑弥呼」が登場する三世紀初頭にも、「一支國(いきこく)」と呼ばれています。
彼女が治めていた「邪馬台国」の属国だったらしく、この遺跡が王都とされています。
誤表記かと言われてますが、中国の「魏志倭人伝」にも「一大國」の名称で登場します。
日本への道しるべとして有名な史書です。
しかし、ここから先の「邪馬台国」への行程は、距離・方角とも相当いい加減です。
誇大妄想癖かつ方向音痴の人間同士が、口述筆記し合ったとしか考えられないくらいヒドいものです。
これに学派の主張が対立しているので、「邪馬台国」の場所は、大人の事情で永遠に決められない気がします。
本題に戻りますが、この遺跡は内陸部の小高い丘にあり、とてものどかな場所でした。
島ですが、平坦な地形のため、古くから水稲栽培が行われてました。
写真の通り、周辺には民家もないので電柱が見あたらず、今も古代とそう変わらないのではと錯覚してしまいます。
子供たちが散策しているのを見ると、和むのに最適な場所だと実感します。
帰るフェリーの時間が迫っていたので、あまり長居が出来なくて残念でしたが、「壱岐」の悠久たる時間軸を感じることが出来ました。
最期の最期に、ものすごく得をした気分になりました。
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