2024年12月28日土曜日

耶馬溪廃線跡①


ここは、大分県の景勝地「耶馬渓」です。

有名な「青の洞門」は既に行ってますが、ここまで「大分交通耶馬渓線」が通っていたこともあり、そのルート沿いを車で追ってみました。

写真は、「耶馬渓平田駅跡」で、駅のフォームがほぼ残っており、奥まで続く道が路線跡になっています。

この線路跡がそのまま道路になっていて、そこを走ってここまで来ました。

かなりの距離を列車の気持ちでドライブ出来て、相当ワクワクしました。

よく家族にいじられる「小学3年生」の心境そのままです。

車の反対側にある公衆トイレも駅舎を模していて、鉄道の雰囲気をうまく演出してます。

また、ここで手に入れた観光マップを見て驚きました。

何と、ほとんどの路線が車道も含めて自転車道として残っているのです。

確かに、フル装備のロードレーサーが、高価な自転車に乗って走っていました。

全区間19駅で36.1キロ。

1975年に廃線となっているので、今まで存続しているのは、地元の努力も含めて奇跡に近い気がします。

再度自転車で来ようと、この時点で決意した次第です。

それ以外のルートも耶馬渓の奇抜な山々がよく見えて、素晴らしいルートでした。


そんな充実した気持ちで帰路に着いたのですが、しばらくして不幸が待ってました。

仕事で移動中に、この車の「セレスピード」が壊れました。

何かというと、「アルファロメオ」のオートマシフトの名称なのですが、マニュアルを電動で自動シフトさせるシステムです。

そのため自動ですが、ギアが変わる際に手動でシフトチェンジする感触は伝わり、個人的には好きでした。

ただ老朽化すると壊れやすい部分でもあり、シフトの制御が利かなくなって、普通に走れなくなりました。

納車してから約1か月で修理に入ってしまった「マセラティ・クアトロポルテ」のピンチヒッターとして購入しましたが、コイツとも約9か月でお別れになりました。

短い期間でしたが、約2万キロは走ってくれて頑張ってくれたと思います。

かなりサスペンションも下手っていて、衝撃が強い乗り心地でしたが、これも癖になる快感に変わっていたから不思議です。

この短い充実した期間を忘れないように、この車しばりでの旅を連続して取り上げた次第です。

この「アルファ147」は、排気量2ℓの「ツインスパーク」というエンジンでした。

高回転で小気味よく回り、あらためて「アルファロメオ」のエンジンの素晴らしさを体感出来ました。

電気自動車へと、車のトレンドが変わりつつある昨今ですが、「アルファ」で名機と呼ばれる「Ⅴ6」エンジンにも乗っておかねばと、自分の潜在的なニーズを再認識した次第です。

まだまだ車の趣味は終わりません。


 

2024年12月21日土曜日

ギロチンの海

 


ここは長崎県にある諫早湾の干拓堤防道路です。

佐賀県から長崎県に入り、島原半島へ向かうには相当便利な道です。

干拓のために海を遮っている直線道路で、海の上を進むような感覚がありますが、この道路が築かれた経緯を考えると、刃渡りの上を走っているような錯覚になりました。

この潮受け堤防の完成に際して、最後の区間が閉門されたのは1997年4月。

1.2キロの区間だそうですが、式典参列者のスイッチオンとともに、293枚の鋼板がわずか45秒の間に次々と海底に突き刺さっていく様子は「ギロチン」と呼ばれ、テレビでも大々的に放映されました。

その様を見て衝撃を受けたのを、よく覚えています。

賛否両論あった中で、ここまで見せつけるようなデモンストレーションを行政側が実施した例があったのでしょうか。

1950年代の食糧難を解消するためというと、以前に取り上げた「八郎潟」干拓と同様の計画です。

それが今頃になって実現しても、ここに入植された農業関係者の想定されている目的(収穫高や所得水準)は達成されるのでしょうか。

海産物の影響が確実に出ている漁業関係者のことも考えると、双方に泥沼のような事情が発生しているはずです。

決めたことを進めていくことは大事なのですが、決定事項に制限期間を設定していくことは、ますます変化のスピードが増している社会に対して、これからの必要かつ重要事項かと思います。

雨とはいえ、非常に展望の開けた素晴らしい景観なのですが、干拓側の閉ざされた水面(車の前方)が、濁っているのばかりが気になりました。

雨のせいだといいのですが。



2024年12月14日土曜日

西都原古墳



写真の車ですが、スポーツ仕様でタイヤのサイズが大きいせいか、サスペンションはかなりやれてます。

次回から、長距離走っている中古車を選ぶときは、ノーマル仕様に限ると一つ勉強になりました。

そうは言いながらも、しっかりした足取りで走ってくれるので、長距離ドライブには重宝しました。

今回は、下関を南下して九州の東側をひた走り、宮崎県の「西都原古墳群」を訪れました。

ここを訪れてないのに気づいて、山口にいる間にと思い、向かった次第です。

300基を超える古墳が、3世紀後半から7世紀にかけて築かれています。

邪馬台国から聖徳太子がいた飛鳥時代まで、古墳時代の全期間に渡っているのです。

写真の通り、車で走りながら、広大な範囲であることが実感出来ました。

ドライブ中にタイムスリップして古代に迷い込んだようです。

しかし、長期間大都市ですが、都でなかったことは一目瞭然でした。

数はありますが、中央集権化を感じる巨大な前方後円墳が見当たりません。

九州の南北を結ぶ中継都市だったのかと推測しますが、その南北に何があったかです。

自分の着想のパズルが一つ埋まりました。

この後は、古代ロマンに浸りつつ、宮崎市内に向かいました。

目当ての中華そば屋に行くためです。

鳥ガラと豚骨の混じった好みの味で、小さいときによく食べた味に一番近く感じました。

ここはまた伺いたいです。
 

2024年12月7日土曜日

閼伽井坊多宝塔


「あかいぼうたほうとう」と読むそうです。

山口県西部の下松市にあります。

訪問した企業さんの応接室に、多宝塔の切り絵が入った額縁が飾られてました。

伺うと、ここから北に向かうと「花岡八幡宮」があり、その脇に鎮座しているとのことで、結構勧められました。

最初、金剛界で東方に位置する「阿閦(あしゅく)仏」に関連する施設かと勘違いし、その存在が珍しくて、興味も膨らんだので行くことにしたのです。

そのまま北上すると、「花岡八幡宮」の参道だったと思われる直線道路に行き当たり、それを突き進んだのですが、ナビは途中から右折を支持し、山の斜面にある八幡宮の側面に回り込むルートを進みました。

かなり狭い山道を本殿に向かって突き進むことになります。

よくよく考えれば、神社なのに、何で仏教の多宝塔があるのか不思議です。

それでも壁面に車をぶつけないように進み、上がりきるとそこは駐車場になっていて、その目の前に切り絵の建物がありました。

二層ですが、非常に端正な佇まいをされてます。

夕暮れ時でもあったので、陰影が際立って、立体の切り絵を拝んでいるようでした。

しかし説明版を読むと、老眼の進んだせいでしょうか、「閼伽(あか)」の見間違いでした。

その意味もわからず調べると、仏に供えるお水のことで、「閼伽井」はそれを組む井戸のことだそうです。

じゃあ、それが何で多宝塔なのか、説明版の内容ではよくわかりません。

多宝塔の中に井戸もなさそうですし、八幡宮との関連も説明されてません。

釈然としない気持ちで、そこから見える参道側に出ていくと、きれいに下松の街並みが拝めました。

かなりの高さを上ってきたことに驚きです。

まあ、次の訪問ネタが出来たと割り切って戻りましたが、この八幡宮はかなり風光明媚な場所です。

後で気がついたのですが、「藤原鎌足」が創建した日本16塔とも伝えられているそうです。

もっとアピールしてもいいのに。