2026年4月4日土曜日

国道439号線(通称:与作)


今回の旅は、変わった趣向で行動しました。

大阪から松山に戻る道中を大幅に寄り道し、「国道439号線」を最初から最後までひたすら走ったのです。

目当てのドライブコースを目的として、旅を組み立てたことはありますが、国道の完走を目論んだのは初めてのことでした。

通称「与作(439)」と呼ばれる通り、ひたすら四国山脈に沿った山岳コースです。

春先で少し肌寒かったのですが、夜明け前から徳島市街を通り抜け、山間部に入りました。

しかし驚いたことに、標識には「438号」と「439号」が併記されています。

まあ「439号」とは書かれてますので、とりあえず「剣山」を目指しました。

どんどん標高が上がっていき、ガードレールの向こう側に見える山々が、どんどん眼下になっていきます。

このときの愛車は、「アルファロメオ:916スパイダー」で、以前の「アルファロメオ:115(ヴェローチェ)スパイダー」の後継機種となり、久しぶりのオープンカーでした。

こいつを選んだのは、アルファロメオが独自設計した最後のエンジン、名機と呼ばれる「ブッソV6」を搭載しており、その乗り味をどうしても堪能したかったからです。

難関であった「剣山」界隈の話は、別の機会に取り上げたいと思いますが、その険しい山道もパワーのあるエンジンのおかげでグイグイと上ってくれます。

天気は曇りで、小雨がたまに降りましたが、幌はずっと開けたままにしてました。

乾いた低音のエンジン音がずっと響いている中、崖から転がっていた石で下をこすることが多く、その音にビビります。

とは言え、至福の音響空間でした。

そして「剣山」近辺で、「439号」と「438号」は分岐しました。

「438号」は、ここから北に下っていき、吉野川に向かうようです。

「439号」はそのまま西に下りながらも、次の難関「京柱峠」に続いていきます。

写真は、その峠界隈の風景です。

山桜がとても綺麗に咲き誇っていて、ちょくちょく車を停めて見惚れていました。

ソメイヨシノと比較すると、花は小ぶりで密集していません。

まばらに咲いているのですが、全く盛っていない感じが、清楚さを際立たせていて、より美しく感じました。

エンジンを切ると、鳥の鳴き声と共に、雨上がりの草花の匂いがずっと漂ってきます。

お腹も空いてきたのですが、お店の類は一軒もありません。

持参したカロリーメイトをかじりつつ、オープンカーの頭上に見える桜をボーっと眺めた次第です。
 

そう言えば、四国に熊はいるのでしょうか。

ふと、島根県の山道で車を停めて地図を見ていたときに、通りがかった人から「この辺は月の輪熊が出るよ。」と注意されて、ビビったのを思い出しました。

これからはのどかな空気を味わうにも、山間部は油断しないようにしないといけません。

2026年3月28日土曜日

フィアット・プント

 


懐かしい写真を見つけました。

失礼ながら、観光地がほとんどないと認識している「茨城県」の田園地帯を走っていたときの一枚です。

行きたい観光地はなくとも、城はあります。

インパクトのある景色には、なかなか出会えませんが、淡い感じで梅や桜、菜の花が咲いているのをよく見かけました。

不覚にも、この前の車を事故で廃車にしてしまったときに、ディーラーよりこの車を勧められました。

予算が厳しかった中、お値打ちな提案でもあったので、迷うことなくこの「フィアット・プント」を購入した次第です。

フィアットの主力車種であり、当時のイタリアでは一番多く走っていました。

目玉は、「初代フィアットパンダ」以来かと思われる、CVTが搭載されていることです。

ディーラーの担当者が、「安心して下さい。日本製なので壊れませんから。」と太鼓判。

どうもスバル製のようですが、イタ車を欲している人間からすると、ちょっと複雑な心境です。

ただ乗り始めて、その小気味良さにビックリしました。

小さなエンジンですが、つづら折りが続く山道も、ストレスなく回転数がフィットして、ぐいぐい上っていきます。

イタリア車特有の、モッサリとしたシフトラグが全くありません。

さすが日本製と、妙なポイントで感心しました。

また時期的に、千葉県北部から茨城県の城を、集中して巡っていたので、とても重宝しました。

この地域は、大きな城があまりないのですが、南北朝争乱を描いた「太平記」に登場する山城が多く、あまり整備されてない細い道が多かったからです。

そのアップダウンを、楽しく攻めることが出来ました。

しかし、内装は素っ気なく、シートは無地ファブリックなのに、何故かワインレッドでした。

インパネもプラスチッキーな素材で、全体のバランスに落ち着きが全くありません。

逆に、その安っぽい風采が、この車の雰囲気に似合っていました。

この流れは、パンダのようなイタリアンピッコロの美徳だと思います。

今思い返せば、茨城県にかなり関われたのは、この車のおかげだったかと。

あれ以来、この地域を訪れてませんが、古代の史跡や神社を訪問する機会が欲しいと、思ってはいます。

なかなか乗り気になれないですが。



2026年3月21日土曜日

十二湖


青森県と秋田県に跨る世界遺産「白神山地」の一角にある複数の湖の総称です。

所在は青森県となり、「白神山地」の北側になります。

このとき「黄金崎不老不死温泉」がある青森県の日本海側をドライブしていました。

その帰り道に、まだ日が暮れてなかったので立ち寄ったのです。

ここに来るまで雪を意識することはなかったのですが、湖の周辺には雪がところどころに積もっています。

無防備な状態で初冬の東北地方に来ている怖さを、反省しました。

そうした緊張感の中、雄大な自然を満喫しました。

下の写真は、水面がブルーになることで有名な「青池」です。

ここを目当てに訪れましたが、さすがに夕方が近い鈍色の空では、青く輝くている姿を拝むことは出来ませんでした。

しかし、水面をのぞき込むと、確かに絵の具のような青色をしています。

それでも奥まで透き通っていて、湖底がしっかり見えているのは不思議な感じがしました。


そして何事もなく、無事に帰路についたのですが、最近の熊による被害報道を目の当たりにすると、もうここは安易に立ち寄れる場所ではなくなっている気がします。

自分の趣味としては、一定の区切りはついてきた山城探訪ですが、これからは命がけの所業になってきました。

一人でフラッと行って、行方不明にならないようにしないと。

誰も見つけてくれません。

国内旅も恐ろしいことになってきました。
 

2026年3月14日土曜日

鬼ノ城(きのじょう)


岡山県の総社市にある古代山城(神籠石式山城)で、日本100名城にも選定されています。

30年近く前にも訪れたことがありますが、そのときは発掘が進められていたものの、狭い山道しかなく、楼門跡らしき痕跡を確認した程度でした。

古代史も今ほど調べてなかったので、桃太郎伝説に登場する鬼のモデルとなった温羅(うら)が、立てこもっていた拠点という認識でした。

しかし、現在の整備された状況には目を見張りました。

今回、城の外周2.8kmを実際に歩いて回ったのですが、石塁・土塁が見事に復元され、4カ所の城門・水門6カ所もほぼ整備されているようです。

写真は西門を城内から撮影しましたが、標高が約400mに位置するため周囲を見渡す展望は抜群でした。

当時より埋め立てで、遠ざかってしまった現在の海岸線でも見渡せます。

ここなら、上陸時点から敵の動きを確認しつつ、備えることも余裕だったでしょう。

時期は7世紀後半に築城されたようで、朝鮮半島での「白村江の戦い」が原因です。

百済再興をかけて渡海したものの、唐・新羅連合軍に惨敗(663年)し、その逆襲を恐れたからでした。

城内にも多くの建造物跡が残っており、ほぼ完成した古代山城とのことですが、それ以前には一体ここに何があったのか、ますます気になりました。

桃太郎のモデルとなった「吉備津彦」が吉備地方を鎮撫したのは、更に時代を遡った崇神天皇の頃です。

当時の海岸線は総社付近らしいので、大和朝廷への反抗勢力が拠点とするには十分な場所です。

下の写真は、西門から南方向にかけての柵の内側ですが、土台の石畳みから堅牢に築かれており、そこから続く場外の土塁は6~7mの高さがあるのですが、少々のことでは崩れないと思われます。

古代から大きな勢力基盤を誇った吉備地域へのロマンが、ますま増幅される名城でした。
 

2026年3月7日土曜日

長崎新幹線


2022年9月に開業した「長崎新幹線」。

先端の穴が開いたように見える黒いワンポイントと、白と赤のツートンカラーを見て、「宇宙戦艦ヤマト」に登場する戦闘機「コスモゼロ」とイメージが被りました。

絞り込んだように見えるボディラインも含め、最近の新幹線では一番好きなデザインです。

さすがに一番乗車は出来ませんでしたが、年内に「青春18切符」を使って、長崎方面を目指しました。

正式名称は「西九州新幹線」ですが、「武雄温泉駅」から「長崎駅」を結ぶフル規格の新幹線です。

「山形新幹線」や「秋田新幹線」のような在来線を拡張した形式ではなく、新幹線専用に設計された新規路線なのです。

しかし、とても複雑な事情を抱えています。

現状では、「佐賀県」が新幹線に素通りされる地域の過疎化を懸念し、その敷設に反対しているため、本流の「九州新幹線」と繋がっていません。

そのため「新鳥栖駅」まで新幹線でやって来ても、そこで乗り換えて「武雄温泉駅」まで在来線の特急を活用し、再びこの新幹線に乗り換えることになるのです。

スムーズに繋がっていないことに対して、無用な存在のようにあげつらう報道も見かけますが、これでも長崎県にとっては相当便利になりました。

県庁所在地「長崎市」に鉄路で向かうとすると、二つの在来線があるのですが、どちらも大きく弧を描きながら海沿いを走るため、特急でもかなりの時間がかかりました。

それをこの新幹線は、新設の直線ルートで突っ切るため、「武雄温泉駅」からでも一時間以上の短縮になります。

それを体感したくて、当時住んでいた「下関駅」を始発で出発しました。

延々と各駅停車で、小倉・博多・鳥栖・佐賀を経由し、「武雄温泉駅」に到着。

新幹線と特急の接続は、スムーズな乗り換えが出来るダイヤになってますが、各駅停車は配慮されてなく、時間の余裕がかなりありました。

そのまま改札を出て、しばらくプラプラしたのですが、いい塩梅で観光客が滞留してます。

みなさん、この地域の特産品を食べたり、買ったりしていて、満喫されているようです。

意外にもこの不便な乗り換え、結構な地域活性化につながっている気配がしました。

下の写真は、乗車前に側面から撮影した一枚ですが、カモメ(KAMOME)マークが洒落ています。

黒いフロントガラスの縁取り部分にも、ゴールドのアルファベットで「西九州新幹線かもめ2022」とレタリングされていました。

駅のフォームもSF感があり、更にワクワクしてきました。

いよいよ乗車しましたが、案の定ほとんどトンネルで、景色を見ることが出来ません。

ただ、ワープしているみたいで、これはこれで臨場感を楽しめました。

チラチラ街の景色が見える車窓になったら、もう到着のアナウンスです。

到着後は、目当ての店で食事しようとしましたが、行列であきらめました。

帰りはそのまま、新幹線に乗らず、すべて各駅停車です。

新幹線に乗った後なので、いつも以上に時間がかかる気がします。

何とか終電の時間帯に下関に到着した次第です。

2026年2月28日土曜日

満願寺温泉の川湯


ここは大分県の県境、熊本県北部にある「満願寺温泉」です。

ここの公衆浴場は写真の「川湯」で、道端と川を隔てた場所に、川面とほぼ同じような高さであります。

雑誌に紹介されていたロケーションを見て、是非とも入浴したいと思い、漸くやってくることが出来ました。

コロナの時期で山口県に住んでいたのですが、人ごみの多いところを遠慮しながら、一人ドライブでよく出かけ、誰もいない史跡巡りにいそしんだ時期でした。

その前後で、外来者でも入浴可能な温泉施設があるなら、人が少ないのを確認しつつ頂くのが、この時期の貴重な楽しみだったのをよく思い出します。

ここへの訪問も同様の展開だったのですが、誰もいないとはいえ入浴を諦めました。

町内のど真ん中にあり、ガードレールのある道が想像以上に近いのです。

お湯はよりによって澄んだ無色透明であり、裸で湯船に入ったらどの角度を向いても、上から覗ける道から大事なところが丸見えです。

ここに見知らぬ人間が入っていたら通報されかねません。

今まで、主要道路の橋の袂にある鳥取県「三朝温泉」の露天公衆浴場や、北海道の湖畔にあって自然湧出している温泉とかにも、勇気を出して入ってきたのですが、それでも社会的なリスクが高すぎました。

それでも浴場に降りて、手首だけ湯船に着けてみると、いい塩梅の湯加減です。

より残念な気持ちが募りましたが、脱衣場に回ると「コロナの影響により地区以外の方の入浴禁止」と書かれており、出来ない理由を提示されてホッとした次第です。

しかし脱衣場も下の写真の通り、横からの視界を遮る板がなく、脱いだ服をおく棚だけです。

おそらく、ここに浸かる方は大事なところを、ご近所中の奥様方から、前の車道や横の畦道からチェックされているに違いありません。

サイズとか井戸端会議のネタにされてはしないかと、勝手に心配してしまいました。
 

2026年2月21日土曜日

遠野城(鍋倉城)

岩手県の遠野市に宿泊して、早朝に城山散策をしました。

戦国時代から江戸時代にかけて、主に「遠野南部氏」の居城として、中世山城の構造を残したまま、近世城郭として活用されたという、変わった経歴を持つ城です。

曲輪の遺構が必見らしいのですが、雪が積もってこんもりとしてしまい、全くわからない状態でした。

石垣がある城郭なら、凍てついた石垣を楽しむことも出来るのですが、それもありません。

今は国史跡に指定され、天守閣風の展望台もあるそうですが、当時は何もなく雪山を一人で登っていきました。

人が見たら、死地に向かっているのではないかと誤解されそうです。

写真は、山頂の本丸で撮影した一枚ですが、針金のような枝を扇のように拡げた、一本の大木が出迎えてくれました。

朝焼けと木の陰影が素晴らしく、思わず見惚れてしまいます。

何も期待していなかったので、早起きは三文の徳だと、素直に実感が湧きました。

そのまま雪の中をズブズブと進んで、街並みが見える場所まで移動しました。

早めに脱出し、足元の雪を払わないとびしょ濡れになってしまうので、まごまご出来ません。

下の写真がそうなのですが、遠野の市街地が童話のような風景に見え、そのとき「雪中の狩人」という絵画が浮かびました。

狩人が犬を連れて、丘から街中を眺めている構図で、その狩人になったような錯覚が起こったのです。

作者は、ルネサンス後期の「ピーテル・ブリューゲル」という画家で、「バベルの塔」の作品で有名な方です。

示唆に富んだ題材が多く、寓話を散りばめるように、妖怪とかいっぱい描いています。

後で見比べると、先ほどの針金のような木までが描かれていて、イメージ以上に酷似していたことに驚きました。

ここから駅まで急がないと、予定の便に間に合わなくなるのですぐに失礼しましたが、城山に上って、童話の世界に入り込んだような感覚になったのは、初めての体験でした。

〝妖怪の里〟とも称される、遠野ならではの出来事だったのかもしれません。

2026年2月14日土曜日

雪のドライブ

 


島根県の松江市に住んでいたとき、ラッキーにもガレージを安い値段で借りることが出来ました。

オープンカーは、幌が特に傷みやすいので、本当に大助かりです。

また個室になるため、諸々の付属品を、車の邪魔にならないスペースに置くことが出来ました。

さすがに、島根は日本海側であるため、結構な雪が降ります。

そういうときに、タイヤにつける「チェーン」を、片付けずに置いておけるので、とても重宝しました。

この車の駆動方式は、後輪駆動であるため、雪が特に天敵となります。

どの車も、雪には十分気をつけないといけませんが、程度の問題として、駆動方式が前輪駆動の場合、雪で後輪が多少ブレても、駆動する前輪がグリップして何とか走行出来ます。

しかし後輪駆動は、後輪がブレると、駆動力のない前輪が踏ん張れずに一緒にブレてしまうため、カーブだとすぐに横を向いてしまいます。

真っすぐ走ることが、他の駆動方式に比べて、より困難になるのです。

その反動なのか、調子こいていました。

大雪でない日なら、雪景色を堪能すべく、チェーンを車に履かせて、近場をドライブして楽しんだのです。

「松江城」周辺は、特に坂道が少ないため、よく目指しました。

下の写真は、お城の脇にある県立図書館にて、撮影した一枚です。

黒い天守閣は森に隠れてしまい、拝めないのは少し残念ですが、走ってきた雪の轍が何とも溜まりません。

なんて事はないのですが、子供が雪だるまを作るに近い感覚なのか、まさしく童心100%の心境でした。


久しぶりにやってみたい気持ちになりましたが、今の車でやったら、ホイールスピンして、大変なことになるだろうなあ。

ここは大人でいこうと決意した次第です。

2026年2月7日土曜日

羽越本線


新潟県「新津駅」から秋田県「秋田駅」を結ぶ「羽越本線」。

東北地方の日本海側を縦断する大好きな路線です。

この写真は20年以上前の写真ですが、当時は東京から「ムーンライトえちご」を活用して「新潟駅」まで向かい、そこから北上していました。

東北地方の西側は、この路線を軸に各路線を毎シーズン横断して、全線制覇を進めていったのを思い出します。

少し前のブログで、「北陸本線」が「えちごトキめき鉄道」へと、名称が変更になっている話題を出しましたが、もう少し細かい話をすると、「北陸新幹線」が開通したことで、福井県「敦賀駅」から新潟県「直江津駅」のいわゆる一般路線の区間が、JRではなくなったのです。

つまり第三セクター化して、上記の鉄道を含む、複数の鉄道会社の運営に切り替わり、正確には違うのかもしれませんが、事実上「北陸本線」は消滅してしまいました。

そのため現時点で、自分が住む大坂から東方面の日本海側を「青春18切符」だけで走ろうと思えば、東京まで行き「高崎線・上越線」に乗り換えて、新潟方面からしか乗るしかないのです。

今は夜行のムーンライト系もないので、途中で1泊しないと辿り着けません。

また、別の機会に触れますが、昨年度に「青春18切符」の活用ルールが大きく変更されて、機動性が著しく低下してしまいました。

ざっくり言うと、連日乗り続けるしかその有効性を発揮できなくなったのです。

下の写真のように、荒れる東北地方の日本海を久しぶりに拝みたくなりました。 

新ルールでひたすら乗ってみようかと計画しています。

しかし懸念すべきことは他にもあります。

以前の「青春18切符」をフル活用しての旅では、雪が吹雪く冬に行動していても、当時は不思議なほど遅延がありませんでした。

最近は遅延の話題がやたらに目立ちます。

万が一遠方に行って帰れず、やむなく新幹線と飛行機で帰宅する事態は本末転倒であり、大した目的がないだけに絶対に避けたいところです。

実際に行動に移すか悩ましいところですが、待ち時間の停車駅で食していたカップうどんの「どん兵衛」を思い出します。

地域限定版に「芋煮味」があり、寒い中ですすりたい誘惑に駆られています。

ただし予定がうまくいかなければ、その一杯が数万円のコストに大化けするかもしれませんので、本当に痺れます。

2026年1月31日土曜日

北里駅跡


今回取り上げる「北里駅跡」は、廃線跡の関連史跡でも稀有な存在です。

駅のフォーム単独でメインなのです。

写真の通り、天に向かって両端が反った形の屋根や、短いですが堅牢な石造りのフォームは、ここに駅があったことを誇らしげに伝える素晴らしいモニュメントになっていました。

この雄々しいというか、むしろ猛々しいくらいのオーラを感じて、感動のあまりしばらく立ち尽くしてしまいました。

廃線跡巡りの深みにますますハマってしまいそうです。

大分県と熊本県に跨る「宮原線(みやのはるせん)」の熊本県側にあり、既に路線は1984年の国鉄時代に廃線となってしまいましたが、「久大線」の「恵良駅」から分岐して「肥後小国駅」までを結ぶ盲腸線でした。

ここに来る前に終点だった「肥後小国駅跡」にも立ち寄りましたが、おそらく線路であったであろう道路の脇に、駅名標と分岐箇所の線路が残されており、趣のある風情を醸し出していました。

しかし、この界隈は山越えに近い駅だったせいか、周辺がかなり新たに造成されています。

下の写真にある駅名標も、もともと別の位置にあったのが、移設されてフォームに鎮座している様子です。


どの辺に駅舎があって、線路がどのように走っていたのか、識別するのが非常に困難なロケーションでしたが、フォームの先に地下に続く階段を発見。

明かりもなく不気味でしたが、立入禁止ではないので降りてみました。

地下鉄の階段くらいの段数はあり、車を止めた道路沿いの反対側に続くようです。

その階段を降り横に続くトンネルを抜け出て、振り向いた景観が最後の写真で、線路を支えていた石垣の土台がしっかり残っていました。


やって来た車道に対して、平行に少し弧を描くように築かれており、この前後に繋がっている線路のイメージが何となく浮かびます。

それは、正しいかどうかも曖昧な空想の産物ですが、ここにやって来たことを心に刻む大切な要素であり、それをしっかりと行うことが出来ました。

新たな旅情を体験し、大満足でここを立ち去りました。

2026年1月24日土曜日

二尊院


山口県の「長門湯本温泉」に、世界三大美女で有名な「楊貴妃」をモチーフにした温泉宿があります。

宮廷風の浴室内に、立ったまま入浴する「楊貴妃風呂」がありました。

お取引先でもあり、社長にそのことを伺うと、この地域にはもともと「楊貴妃伝説」があり、お墓まであると熱っぽく語ってくれました。

こういう話は大好物です。

中国は唐の時代になりますが、「安禄山の乱」が起きたときに、「玄宗皇帝」の妃である彼女は殺されたことになっています。

しかし、犠牲になったのは身代わりで、本人は中国本土を逃れて、長門市の海岸線に逃れたという話なのです。

確かに、中国本土や朝鮮半島から、対馬海流に乗って対馬や壱岐島を通り抜ければ、山口県北東部に当たる長門市の海岸へ辿り着きそうです。

実際に、北九州のみならず、この界隈は大陸との交易ルートになっていたと思われるのです。

彼女のお墓は「二尊院」にあるとのことで、翌週末に向かいました。

地理的には、車の走行撮影で有名な「角島大橋」がかかる「角島」と、連続する赤い鳥居がインスタ映えすると有名になった「元乃隅神社」の中間に位置します。

そこは長門市街から、大きく突き出た半島になっていて、その入り江に面した高台にありました。

いかにも漂流してきた船が、落ち着きそうな場所です。

写真の通り、楊貴妃の大きな像があり、二枚目の写真にある通り、建物は唐風に仕上げられていました。

歩く場所も大陸風で、ほとんど石畳になっています。


最期の写真は彼女の墓です。

単独ではなく、逃れてきたであろう一団がまとまって葬られているのが印象的でした。

伝説はともかく、中国本土から脱出した一団が、流れ着く事象はそれなりにあったのかと思われます。

この時期、某新聞紙に「阿倍仲麻呂」が連載されていて、「楊貴妃」も登場してました。

私がここを訪問した数日後に、その小説のフィナーレがあったのですが、何と作者がここを訪問して締めくくっていました。

不思議な共感を感じた次第です。


2026年1月17日土曜日

廃仏毀釈(徳重神社)


鹿児島県日置市伊集院町にある「徳重神社」です。

鹿児島市から車で30分ほど、西北の方向に位置します。

写真の「手水舎(てみずや)」にも、島津家の家紋が大きく刻まれており、島津家とのゆかりが深いことは一目瞭然です。

しかし創祀されたのは、明治4年です。

何故こんなに新しいのか。

島津家は鎌倉御家人から続いているに。

以前のブログでも話題に出しました「廃物希釈」でお寺が消滅し、神社に変わったからです。

ここはもともと「妙円寺」で、今でも「妙円寺詣り」が運営されています。

大河ドラマ「西郷どん」の第一話に出てきた行事で、「関ヶ原の戦い」にて敵中突破をして生還した「島津義弘」の苦難をしのび、鹿児島城下からここまで詣でる行事です。

お寺のご本尊は「島津義弘公」の木像でしたが、今は神社のご神体となって祀られています。

鹿児島に着任するまでは、「廃物希釈」を当時の庶民による暴挙のように考えていましたが、薩摩藩の全体運動としての徹底ぶりに驚きました。

鹿児島市内の話になりますが、島津家の菩提寺だった「福昌寺」の跡地は、「玉龍高校」という進学校になっています。

ヤンキー漫画に出てきそうな校名だなと、失礼にも思ってしまったのですが、お寺の山号が「玉龍山」だったため、この名称になっているようです。

あらためて不届きな錯覚をしてしまい申し訳ありません。

現在でも山際の奥まった領域は歴代藩主の墓地であり、「島津斉彬公」も「島津久光公」もここに埋葬されています。

その菩提寺を、島津家自らが明治2年に廃寺にしているのです。

「斉彬公」も「久光公」も、国学・蘭学に傾倒していたため仏教嫌いだったという話もありますが、この流れが藩内に徹底されて1000以上あったお寺がひとつ残らず廃寺、伽藍・仏像が徹底的に破壊されました。

実際、県内をウロウロしていて、首がある石像を見たことがありません。

端数まで記されている数字に徹底ぶりが出ていて怖いですが、2946人いた僧侶は、全員が僧籍をはく奪されて、俗人に戻りました。

そのため、檀家制度に基づいた過去帳(戸籍の役割があった)も、寺院と共に消滅したため、鹿児島県人は江戸時代以前のルーツを調べることが出来ないそうです。

過去の歴史を無かったことにする施策が目立つ共産主義の国々でも、ここまで徹底された事例を聞いたことがないです。

中国の「文化大革命」と比較すると、それをほぼ無血に近い状況でやっている「徹底力」は何なのでしょうか。

上の権力層から下の庶民まで連動しているのは奇跡に近い現象です。

とは言え、下の写真のように今の神社はどこにいってものどかでした。

ドライブで車を脇に止めて拝礼しつつ、まったりさせてもらいました。

幕末の明治維新をけん引した「薩摩藩」の、この不思議な底力については継続的に調べてみたいです。


 

2026年1月10日土曜日

鹿島線

 


新年にふさわしい朝日でした。

元旦ではありませんが、冬季の「青春18切符」を活用して、千葉県と茨城県の県境を流れる「利根川」を跨ぐ、「利根川橋梁」を渡ったときに拝んだ朝日です。

このときは、「鹿島線」を完乗するため、「香取駅」から「十二橋駅」を渡りました。

厳密には、この橋梁を渡って、更にその先にある「霞ヶ浦」から流れ出ている支流の「常陸利根川」を越えて、「潮来(いたこ)駅」まで行かないと、茨城県に入れません。

更に川下で合流し「利根川」になるのです。

ただ、全国第2位の長さを誇る「利根川」河口域の独特の風情は、ここが象徴的に体現していると思います。

朝日の手前に見える橋梁は高速道路で、この橋梁とほぼ並行して走っており、自分を鏡合わせに眺めているような錯覚が起こります。

下の写真は、「鹿島線」を折り返して戻るときに、同じ橋梁から対岸に向けて撮影したものですが、この見通しの良い天候でも、はっきり対岸を撮影することは出来ませんでした。

日本の地理上で、天候が良くて対岸がはっきり見えないというのは、過去の経験上あり得ないスケールの大きさです。

この河口の広大さを強く実感した一枚となりました。


鉄道写真として、河口風景で印象的だったのは、福井県と京都府にある「若狭湾」を結ぶ「北近畿タンゴ鉄道」です。

そこの由良川を渡る「由良川橋梁」は、高さがないので水面スレスレを走っているなスリルを感じます。

ここも長い橋梁ですが、それでも対岸は普通に見えていました。

一番長い川は新潟県の「信濃川」ですが、そもそも河口近くに鉄路がないので、ここには比較対象が存在しません。

現時点では、自分にとっての河口写真ベストワンは「利根川」になります。

このときは、終点の「鹿島サッカースタジアム駅」に着いて、下車することもなくそのまま戻ってきてしまいました。

ここから先の「鹿島臨海鉄道」は既に完乗しています。

しかし、よくよく考えれば、「鹿島神宮」にも「香取神宮」にも行ってませんでした。

今、神社に大変興味を持っていて、いろいろ調べているのですが、明治以前から「神宮」の名称で呼ばれているのは、「伊勢神宮」を筆頭に、この2社を合わせて3社のみなのです。

何故、このときに参拝しておかなかったのだろうと、悔いを残しています。

近いうちに行きたいと思いますが、かなり遠いため、いつのことになるやらと不安が募りました。

2026年1月3日土曜日

一輪挿し


ここは滋賀県にある「佐川美術館」です。

名前の通り大手運送会社が設立母体で、琵琶湖のほとりにあります。

ちょうど1年前の年末に訪問しました。

以前から伺いたい美術館だったので、冬晴れの天気の良い日に訪れることが出来て、よりテンションが上がります。

予約が必要な美術館だったらしく、その確認をする受付に結構な人達が並んでいたのですが、招待券を頂いていたので、ラッキーにもその提示のみですぐに入ることが出来ました。

そのため集団に囲まれず、一人の間合いで拝観スタート。

常設展と企画展が併設されており、どちらも見ごたえがありますが、もともと伺いたかったのは、〝楽焼〟の大家のコレクションがあるからです。

先に他の作品を楽しんだ後に、最後に向かいました。

暗い空間に設えられた展示室になっていて、茶道とかわかってない立場で恐縮なのですが、茶室をイメージしているような気配を感じます。

ただ、作品については「楽焼美術館」を何となくイメージしていたせいか、自分のレベルでは斬新に映りすぎてしまい、よく解りませんでした。

ただ、一番印象に残ったのは、写真の〝一輪挿し〟です。

いよいよ展示室に入るぞ、という手前にあり、最初は側面から眺めるようになります。

〝あっ〟と気になったのは、展示室を出るとき、正面から向き合ったからです。

鉄道のレールに敷く枕木のような質感の木が、横に平行に積まれて、そこだけ周囲と異なる壁が作られていました。

そこに1本だけ、おそらく鉄製の花瓶が、背後にある釘のようなもので、木に突き刺さり固定されているのです。

薄紫の小さな花が生けられていましたが、何の花かわかりません。

その辺の庭の隅に咲いているのを積んできたような、貧相な雰囲気さえ漂います。

対照的に、花瓶は細長いといっても、ふくよかな曲線美を持っており、コルセットで固められた貴婦人を彷彿しました。

金属製であることから、かなりの重厚感が伝わってくるのです。

とても不揃いで、アンバランスな感覚がしますが、それが逆に良いと、心に刺さった次第です。

このときに、ふと浮かんだのが、カフェにある車庫の内装についてでした。

実は、まだ壁シートを張っておらず、建材ボードを剥き出しにしてます。

それでも違和感がないので、ずっとそのままにしてますが、今後手を加えるときに、この壁面と一輪挿しは大きな参考になりそうです。

昨年度は母から妹に運営の主体が変わり、様々な事情から、飲食の提供スタイルも変更させて頂きました。

それでも、継続的にご来店頂けることにあらためて感謝申し上げます。

アンバランスなようでも、何とか均衡を保ちつつ、飽きの来ないカフェでいられるよう頑張りますので、今年もよろしくお願い致します。
 

退出する長い廊下に面した、底の浅い水庭の水面がとても美しく煌めいていました。

今年もこんな年になりますように。