2025年3月29日土曜日

特急やくも


上の写真は2024年春に登場した新型「273系特急やくも」、下の写真は国鉄時代の昭和・平成・令和とロングランで活躍した「381系特急やくも」です。

3月末から大阪勤務になったため、早速4月初旬に「青春18切符」を活用して、存続が危ぶまれている「木次線」に乗りに行きました。

山口時代に、3回もこの路線にトライしたのですが、遅延が発生したりして辿り着けませんでした。

今のご時世と言えばそれまでですが、新幹線も含めて鉄道のダイヤがどんどん不正確になっているような気がします。

そろそろ「青春18切符」も卒業かなと思いつつ、江坂駅からJR新大阪駅に乗り換えてスタート、「山陽線」を進んで「岡山駅」着、「伯備線」に乗り換えて「新見駅」着、更に「芸備線」で「備後落合駅」着と、1分の狂いもなく「木次線」の始発駅に到着しました。

4度目の挑戦でやっと「木次線」を満喫出来た次第です。

確か3回目の完乗だったと思います。

開発が進んでないと言えば残念ですが、何も変わってない雰囲気に安心しました。

何とか存続して欲しいものです。

話は変わりますが、今回の旅で一番の収穫と感じたのは、この新旧「やくも」に同時期に出会えたことでした。

先ずは始動したばかりの「新型やくも」です。

イメージの雲マークは、岡山県・島根県ともに豊富な古代遺跡を連想させます。

真新しい10円玉みたいに見えた色は、その通りで「やくもブロンズ」という名称だそうです。

目立つ色なのですがどこか落ち着いていて、山陽と山陰を結ぶ「伯備線」の中軸車両として、似つかわしい渋さが漂います。

本当の10円玉みたいに変色まではして欲しくないですが・・・。

しかし、何といってもこの後に出会った「旧型やくも」です。

6月14日まで走ってくれるそうで、新型登場とともに入れ替わったと勝手に想像していたので、現役中の車両に突然出会えて、一気にテンションが上がりました。

最後の雄姿を撮影するカメラマンも多く、同様にこの写真を撮りました。

島根県松江市に住んでいたことがあるので、何回も利用した愛着のある車両です。

カーブの続く谷間を走るため「振り子」方式の車両は結構な角度で揺れました。

私には、その川沿いの車窓と揺れが楽しくてしょうがなかったのですが、乗り物酔いする方には地獄だったとの話をよく伺いました。

この「クリーム+赤ライン」は国鉄特急色と呼ばれてますが、2018年に完全消滅してしまったそうです。

しかし、2022年に「やくも」の1車両編成(1本)のみが、国鉄特急色に復刻されました。

何とこの車両が、まさしくその1本だったのです。

このことは後で知りましたが、国鉄特急色のカラーリングが日本から消えてなくなるなんて、考えたこともありませんでした。

この1本の退役とともに再び消滅するなんて大ショックです。

懐かしい国鉄時代を彷彿させる存在がまた一つ減ってしまうのかと寂しくなりした。

「乗り鉄」の趣味はいつまで続けられるか、不安な情勢です。


 

2025年3月22日土曜日

都井岬(といみさき)


こんな威圧感のある灯台に来たの初めてでした。

城壁のように見える土台のうえに、灯台が城の尖塔に見えて、さながら城塞のようです。

ここは宮崎県の最南端に位置する「都井岬(といみさき)」にある灯台です。

あいにくの雨交じりの天候だったので、開館日でありながら入り口が閉まってました。

灯台守の方もこんな日に人が来るとは思ってなかったようで、写真のど真ん中に灯台に続く階段を一緒に上りながら灯台を開けてくれました。

ここは灯台の内部に入ることが出来ます。

数少ないですが、全国に内部見学か可能な灯台が存在しているらしく、その訪問コンプリートを目指す御朱印帳が売られてました。

何故か自分には、訪問先に設置されているスタンプを押していく習慣はありません。

マニアックな性癖と自覚しているから不思議なのですが、意外と収集癖はないのです。

いろんなジャンルに好奇心を示しつつも、ぬかるみとも思えるマニアの入り口までたどり着くと、一定量の満足出来るモノを手に入れ、その先は忘れないように継続するイメージです。

まあ自分の感想であり、家族には「全部ぬかるんでるよ。」と突っ込まれること間違いありません。

内部に入ると、円形の壁に張り付くように作られた螺旋階段を上っていきます。

円の中心には、現役灯台として光源を発生させる機械の固まりが鎮座しており、意外とパッケージ化され、まとまっている印象でした。

最近のボックス化された自動車のエンジンに似たものを感じます。

それを脇目に階段を上りきると、下の写真の展望台に出ることが出来ました。

手すりの右側は内陸側で、左側は海側になります。

城壁ように思えた土手は灯台敷地内の大きな風除けの役目を果たしており、反対側は太平洋にさらされて外海特有の激しい風が吹いていました。

時化ていたため、海側の景観ははっきり見えませんでしたが、高い断崖が連なっていることはわかります。

天気が良ければ、灯台の中段にある手すりのところまで更に上がれるそうですが、強風の日は閉鎖していると、あとで伺いました。

九州全体としても東南端の海岸沿いに突き出ているので、岬の位置と周辺の岩礁を知らせる灯台の役目は相当大きいように感じます。

古代に黒潮に乗ってやってきた異文化の方々も、ここは目印にしたのではと、大いなる地政学的なロマンが浮かぶ場所でした。

2025年3月15日土曜日

嘉例川駅(かれいがわえき)


鹿児島県にある「肥薩線」の駅です。

県内最古の駅で国の登録有形文化財に登録されています。

明治時代から存在しており、明治・大正・昭和のどの時代でもロケが敢行できるような駅舎のオーラが、周囲の自然とともにそのまま残されています。

今は無人駅ですが、何故か特急が停車していたようです。

かっては「昭和天皇」が、近くの「高屋山上陵」を訪れた際に、「東郷平八郎」が同行して乗降したという由緒もあります。

しかし、ここから数駅北上した「吉松駅」から先、熊本方面は進むことが出来ません。

数年前に起こった「人吉の大水害」で線路が流されてしまったからです。

この先はスイッチバックになっていて、「日本三大車窓」の一つである山岳風景が楽しめただけにとても残念です。

よくよく三大車窓の現状を考えると、ずっと以前に取り上げた「姨捨駅(おばすてえき)」しか今は拝むことが出来ません。

この時は車で来ていたので、年季の入った駅舎の高い天井を見ながら、フォームに出ました。

写真の進行方向が、熊本訪問なのですがこの先が通行止めなのかと思うくらい、春めいたのどかな景色です。

桜こそ咲いてませんでした、紫がかった花がチラチラ咲いていて、線路わきの雑草にも小さな花が咲いてました。

まだうまく鳴けない鶯らしき鳥も練習していて、来るべき季節への準備に全周囲が備えているようです。

「肥薩線」完全復興の予定時期は2033年。

まだまだ先ですが、必ず戻ってきて欲しいと、少し悲しくなってしまいました。

2025年3月8日土曜日

「Dr.コトー診療所」の島



少し前に取り上げた「甑島(こしきしま)」です。

一番南端になる「下甑島」の海岸線の写真ですが、伺ったのは3月初旬にも関わらず、早朝は荒れていた天気も回復し、夏のような雰囲気が漂っていました。

鹿児島県でも西部沖合の島嶼部まで行ってしまうと、九州本土とかなり気候が異なるように思います。

丁度、昼時だったので近くのカフェにて食事を頂きましたが、入り口近くに「Dr.コトー診療所」作者の直筆サインが飾られてました。

お店の方に伺うと、実際に来られて取材されてたそうです。

実はDr.コトー、この島での診療に孤軍奮闘されたお医者さんがモデルになっています。

漫画の景観には何となくここの風情が漂っているような気がしました。

しかしテレビ版のロケ地は、沖縄県の「与那国島」で、ここではありません。

地理的には、沖縄本島よりも台湾の近くになります。

絶海の孤島であり、撮影のアングルを効果的にしているのでしょうが、漫画と比較するとテレビ版は、背景の海が強く迫ってくる印象を持っています。

ここに来て意外だったのは、下の写真の通り武家屋敷であったことです。

江戸時代の薩摩藩は、全地域を管轄するうえで、地方の行政・軍事を一体化させた行政単位である「外城(とじょう)」を、100余りも設けていました。

一般的に武士は城下町に住みますが、薩摩藩においては「関が原の合戦」で領地が削られた後も、武士の数を減らさず「外城」内にて、半農状態で多くが生活してました。

更に、「外城」内にある、行政・軍事の中心となる武家屋敷群を「麓(ふもと)」と呼びます。

鹿児島県内には、今も生活基盤のまま、12の「麓」が史跡として保存されていますが、そのうちの2つが「甑列島」にあり、「上甑島」の「里麓(さとふもと)」と、ここの「下甑島」の「手打麓(てうちふもと)」になります。

家はかなり建て替わってますが、当時の石積みの塀はそのままで、直線での区割りは如何にも城下町の佇まいです。

コトー先生が、城下町に住んでいたのは、不思議な感覚がします。

 

2025年3月1日土曜日

霧島連峰


異動の内示が出て、鹿児島を一年で去ることになりました。

残り一か月。

仕事は山積みですが、週末は時間が許すかぎりドライブすることにしました。

候補を思い起こすと、真っ先に「霧島連峰」が浮かびました。

連峰の南側に位置する「高千穂峰」は、「霧島神宮」の古宮跡が麓にあるため、その流れで行ってますが、連峰の中で北側にあたる「韓国岳」へは行ってきません。

連峰の中で最も標高が高いのですが、頂上近くを通るルートがあります。

ちなみに「韓国岳」は、「からくにだけ」と読みます。

「かんこくだけ」と言い間違えると、鹿児島の人に怒られると、よく飲むお店の大将が言ってました。

天気が良いときには朝鮮半島が見えるのでこの名称がついているそうですが、高いといっても1700mしかありませんし、有毒ガスも出ていてそもそも展望出来るのかと疑問に思いました。

もっと別の理由があるような気がします。

写真は、「えびのスカイライン」に入り、「韓国岳」が正面に見えるポイントで撮影したものです。

本当に頂上近くでビックリしました。

3月第1週に行ったので、雪が積もっていても当然の季節ですが、晴天が続いていたためか道路上には雪が全くありませんでした。

やはり振り返ると、鹿児島が今まで住んだ中で一番温かかったです。

しかし恐ろしいのは、このスカイラインを往復した際に、いたるところに煙が噴き出していました。

山の周囲に漂う白いものは雲ではなく、吹き出したガスの塊です。

窓も空調もクローズしているのですが、それでもかなり硫黄らしき匂いが車内に漂ってきて、おっかなびっくり走りました。

それでも、突き抜けるような青の空が迫ってくるのをわき目に、薄茶色の岩肌を走り抜けていくドライビングは快感の極致でした。

嬉しいことに誰もおらず、景観の独り占めです。

ひとしきり満喫して帰路につきましたが、オールシーズン走っておけば良かったと、あまりの気持ちよさに更なる欲が沸き起こりました。

しかし、レンタカーではなく愛車で走りたいし、大阪からここにドライブ行くのは、相当厳しいなあ。

 

2025年2月22日土曜日

夜景サミット

 

山口県東部に位置する「周南市」の船上からの工場夜景です。

市町村合併で名称が変更になっているのですが、「徳山駅」界隈が中心市街地になります。

工場夜景に萌える方々がいるのは知っていましたが、その夜景に自身のある市町村が「夜景サミット」なるものを運営しているのは、ここに来て初めて知りました。

当時は13の市町村が加盟しており、持ち回りでサミットの開催都市になるらしいのですが、たまたま勤め先とこの市が「包括連携協定」を結ぶタイミングで、この市にお鉢が回ってきました。

その協定担当者だったので、目玉としてサミットのスポンサーになることにしたのです。

しかし時期はコロナの真っただ中で、市役所の方々と準備した様々な行事もことごとく延期・もしくは中止に追い込まれました。

サミットもオンラインに変わってしまい、来賓の自分すらモニター越しでの参加です。

ただ夜景見学のクルーズ運行は実施されることになり、乗り込んで撮った写真なのです。

2月の真冬にも関わらず、密閉を避けるため窓を開放しての出航です。

寒いことこの上なく、直に風に当たると涙と鼻水が止まりませんでしたが、そのせいか夜景の光が余計にまばゆく映りました。

切ない展開でしたが、ちょっと美しい体験でした。

「マッチ売りの少女」ってこんな感じだったのかなあ。

下の写真が、乗船したクルーズ船です。

うろ覚えですが、世界か日本に2隻しかない「水素船」の1隻らしく、動力エネルギーは「水素」です。

国から一定期間借りているとのことでした。

駆動についての説明も乗船中に受けたのですが、船独特の油臭い匂いはなく、静かでモーターみたいな回転音がわずかに聞こえただけでした。

風の音と、寒さで感覚がマヒしていたせいかもしれませんが、日本勢が開発している「水素エンジン」の自動車は期待できると直感的に思いました。

今振り返ると荒行のようなイベント参加も、貴重な機会だっと思えるから不思議です。


2025年2月15日土曜日

矢田の渡し


島根県松江市の市街地東部にあり、「宍道湖」と「中海」を結ぶ「大橋川」を横断するための渡し船です。

「出雲風土記」に渡しがあったと記録されていて、それを起源にすれば奈良時代から続いていることになります。

住んでいるときに乗ることはなかったのですが、その後訪れたときに是非乗っておこう思い立ちました。

当時は平日の午前7~9時のみ、所要時間約1分、料金は40円でした。

北岸が拠点となっていて、南側からの利用者は渡し場にある赤い回転灯を点けて船を呼ぶ仕組みでした。

写真は、呼んでいる間に車を撮っていたらうまく背景に収まった1枚です。

南岸から北岸へ、再び車のある南岸へ、往復料金80円でした。

そのとき乗ったのは私一人で、正直やっていけるのか不安になりました。

実際、2014年から休航しているそうです。

確かに、松江市南北を結ぶ橋は増え続けていて、とうとう高速道路もかかりました。

立地が良い場所でもないので時代の流れと言えばそれまでですが、奈良時代からの運行が終ってしまったと伺うと、このとき乗ったことは大いなる記念となりました。

松江の冬らしいどんよりした天気は、景観を灰色に染めてしまいます。

そのときの渡し船から眺めたみぞれ混じりの大橋川は、水墨画の中を進んでいるようで非常に美しかったです。

古代人も眺めたであろうあの景色は、橋からは観ることの出来ない景色なんだと、ブログを書いていてあらためて思い出しました。