2025年6月28日土曜日

大山ドライブ


鳥取県にある「伯耆大山」の山岳ルートにある駐車スペースです。

いつ雨が降ってもおかしくない曇り空ですが、真夏のオープンカーにとって、最高の条件になります。

湿度高めの風が、肌に優しく潤いを与えてくれる感じがします。

少しミストっぽいというか、意外にもクセになりました。

とてもじゃありませんが、今どきの夏に太陽を拝みながら走るのは自殺行為です。

一度、短時間オープンで走った時に、野球帽を被っていたのですが、むき出しだった耳の上部をやけどしました。

この大山は、別名「伯耆富士」と呼ばれるだけあって、米子市側から見ればきれいな円錐形をしてますが、それ以外は歪な形をしていて、走るルートで多種多様な景観が楽しめます。

この山岳ドライブ自体が目的でなくても、「島根・大阪・愛媛」に住んでいるときに、山陰方面へ向かうことがあれば、わざわざこの山を通り抜けるようなコースを選んだりしました。

頂上にむけて全方位からといってもいいくらいに、多くの道があるので毎回新しい選択となり、凄く新鮮な心地で、森の中を走り抜けてました。

中国地方では最も標高が高い山ですが、日本海に近いので海岸ルートの趣も感じます。

このブログを書いていて忘れてました。

これだけドライブしているのに、ここの神様がおわす「大山寺・大神山神社」に行ってません。

この車は譲ってしまい私の手元にありませんが、今の新しいオープンカーで忘れずに訪問したいと決意しておきます。

追伸 今の車を事故してしまい、長期修理中のため、復活の暁にはしっかり拝んでこようと思います。



2025年6月21日土曜日

見島


山口県の最北端、萩市の沖合北北西約45kmに「見島」はあります。

対馬同様、朝鮮半島への最前線のため「航空自衛隊見島分屯地」があり、表敬と案件の相談があって、ここの担当者と一緒に伺いました。

担当者も萩市内在住のため、年に1~2回しか行けないとのことで、朝早い高速艇に乗って向かいます。

さすがに観光では中々来れない場所です。

港からのレンタカーで、山間の基地に向かって一仕事した後、帰りの船便まで時間があるので担当者の勧めもあり、島内を遠回りに1周するルートで戻ることにしました。

こういう展開大好きです。

島内を時計の針に見立て基地を9時の位置とすると、写真の「宇津山観音正寺」は2時の方角、突き出た岬の突端にあります。

崖の角度に合わせたような急坂の石段を下りたところに、本堂がありました。

一般的な伽藍配置と全く真逆の高低差で、この下り石段に吸い込まれそうです。

妙な威圧感が漂っていました。

自分の危険レーダーは反応してないのですが、強烈なざわつきが沸いてきます。

階段を降り始めると、竜宮城にも、黄泉の国にも向かうように感じました。

一段、一段と降りるたびに、水に潜っていくような錯覚が起こります。

あきらかな異空間への侵入です。

本堂に着いて、その裏手に廻ると海に突き出た岩礁に立てるのですが、妙に海面が粘っこく見えました。

拝礼した後すぐに失礼しましたが、何を護っているのか、それとも閉じ込めているのか、非常に気になる社でした。


入るときには、気にならなかった写真の鳥居も、出ていくときはくぐるたびに、何かつきものが剝がれていくような感覚がします。

この木造の鳥居群、強風にさらされ続けてかなり瘦せ細ってましたが、強烈な結界であることは間違いないと思いました。


最後の写真は、鳥居をくぐり終えた直後の日本海の遠望ですが、強風のわりには温かく感じました。

担当者に伺うと、ここは対馬海流の影響で、山口北部よりもずいぶん温かいそうです。

港近くにも、「見島ジーコンボ古墳群」と呼ばれる、約200基もの積石塚古墳群があります。

外国の言葉遣いであり、古代においてもこの島が果たしている役割は大きそうです。

いろいろと調べたくなりました。

怖い思いをするかもしれませんが。

2025年6月14日土曜日

耶馬溪廃線跡②



以前のブログで取り上げた「耶馬渓廃線跡」に再びチャレンジしました。

約半年後の3月初旬に、天候の良い週末を選んで完乗ならぬ完走を目論見ました。

前回訪問後に調べると、1982年にほぼ全線が「大分県道411号中津山自転車道線」として整備、通称「メイプル耶馬サイクリングロード」として約22kmが自転車専用道になっています。

先ずは終点「守美温泉駅:跡」に車を置いて、写真に写っている折りたたみ自転車にてスタートしました。

可能なら、町中の始発駅から山間部の終点駅に向ったほうが旅情が増すのですが、全長は36.1kmもあります。

おそらく登坂が続くと体力的に無理だとあきらめ、下坂が多くなるであろう進行方向を選択した次第です。

予想通り少し下り坂が多く、ペダルをこぐ力も軽減されました。

この自転車は変速機がないため、本当に大助かりです。

季節的に暑くもならないし、前半は快適に進みました。

駅があった地点には、駅名の白い表示看板も再建されていて、その界隈にはフォームの名残が感じられます。

自転車で駅を通過していく感じ、乙なものです。

その道中も、昔の路線幅で往年の雰囲気がしっかり残っていました。


 中間地点あたりでは、おそらく始発駅からスタートしたロードレーサーの方々とすれ違いました。

自分よりも年配の方が、高級自転車をフル装備にして、ピチピチにフィットしたウェアを着込んで快走されてましたが、どうもあのピチピチが馴染めません。

驚いたのは、新しい橋梁によってルートが再建されている箇所がかなりあったことでした。

昨今の九州北部水害で、ここも結構な被害を受けたらしく、その復興工事によるものだそうです。

が、かかる費用が比較にならないとは言え、その影響で現役路線の廃止が相次ぐ中、廃線ルートが真っ先に再建されているのは皮肉な感じがしました。

後半は思った以上に平坦で、疲れかけている体に思った以上の負荷がかかりましたが、約4時間かけて無事に完走出来ました。

さすがに駅前は区画整理により、この路線の始発「中津駅:跡」はわかりにくくなってましたが、ここまで廃線ルートをトレース出来たことに大満足です。

全国の廃線ルートの探索は、新しい趣味なりそうな気がします。

最後は「鶏天」を食べて、折り畳み自転車と共にバスに乗り込み、元の場所まで戻りました。

2025年6月7日土曜日

四階楼


あまり期待してなかったのですが、昔こんな建築様式があったんだと、小さく感動しました。

瀬戸内らしいなと、何の根拠もなく呟いてしまします。

場所は山口県「上関町」にあり、県下でもマイナーな地域ですが、原発を建てる計画が出されたため、最近にわかに注目を集めています。

山口県には、「上関・中関・下関」と揃った港名が残っており、もっとも東寄りに位置します。

山口県で仕事をしていたとき、オフィスはその「下関」にありましたが、そこから企業のある地域として、ここの「上関」が一番遠隔地でした。

「光市」と「柳井市」の中間地帯で一番南に突き出た地域になり、片道3時間以上かかります。

最も先の「長島」という島に「上関町役場」があり、脇の高台が「上関城」でした。

そこへは「上関大橋」を渡って向かいますが、その橋のたもとにこの建物があります。

明治初期の1879年に建てられ建物の角は石造りに見えますが、石板を貼ってるだけで、実は木造建築です。

この時期、西洋建築に精通した職人は、まだ地方にいません。

そのため、伝統的な木造の上に漆喰を施し、西洋風の縦長の窓ガラスを採用して、屋根は寄棟造りに仕上げています。

都会に出現しつつある西洋建築を参考にしたらしく、擬洋風建築とも呼ばれているそうです。

偶然だったのですが、施工主は以前にブログで取り上げた「第二奇兵隊」の参謀を務めた「小方謙九郎」という方だそうで、当初は住宅兼店舗に加えて汽船宿としても利用したそうです。

その当時、瀬戸内の田舎町に入港して、西洋建築が見えたとしたなら、かなりハイカラな風情を街並みの印象として与えたに違いありません。
 

中に入ってみました。

畳で和室となってますが、3階は左官の方が仕上げたであろう「こて絵」で、唐獅子が仕上げられてました。


圧巻は4階の「ステンドグラス」です。

四方から照らされ、色のついた陰影が畳に写っており、座るとまるで万華鏡の中にいるようでした。

日本人の、モノが無くても生み出そうとする創意工夫の姿勢は、いつの時代も素晴らしいと感じ入った次第です。

2005年に国の重要文化財に指定されたそうですが、惜しむらくは私以外の観客は誰もいませんでした。

もう少し脚光を浴びてもいいのにと、寂しく思ってしまうほどの素晴らしい建物が、山口県には意外に多いのですが・・・。

2025年5月31日土曜日

志布志駅


一度乗ってますが、鹿児島を去る前にもう一度乗っておこうと気合入れました。

車なら、鹿児島市内から高速で2時間かからずに志布志市内に行くことが出来ます。

利便性を考えると、仕事でここに向かうときは車以外の選択肢はありませんでした。

列車でここに行こうとすると、「鹿児島中央駅」を出発して宮崎県にわざわざ入り、「南宮崎駅」から「日南線」に乗り換えて、宮崎県の最南部をひた走り「志布志駅」に到着します。

終着駅のこの駅と、一つ手前「大隅夏井駅」の2駅だけが、鹿児島県に入るのです。

昔は「志布志駅」から、鹿児島県「国分駅」を結ぶ「大隈線」と、宮崎県「都城駅」へ向かう「志布志線」が存在したのですが、すでに廃線となっており、この地域は鉄路上の孤島となっています。

上述のルートで、始発から出発しても、着いたのは昼過ぎでした。

駅から歩いていける目当てのラーメンを食べ、すぐに復路を戻ったのですが、鹿児島市内の到着は、夜になってしまいました。


駅周辺を散策すると、もともと大きな物流港があるため、鉄路による大輸送体制があったと思われます。

そのため、多くの線路が敷設されていたであろうフラットな空間が駅の周囲に広がってました。

周囲の道路幅がかなり広いのは、鉄路が転用されているからだと、駅を起点とした景色を見てわかりました。

更に歩くと、廃線となった先ほどの2路線を顕彰するモニュメントがあり、当時活躍していた蒸気機関車とキハ系の車両が飾られていました。

普通、こういった施設は少し侘しいものですが、南国特有の晴れやかな天候のせいで寂しい気配が全くありません。

冬なのですが日差しが眩しいため、いい塩梅の撮影が出来ませんでした。

そのためこのブログでの車両のアップは控えようと思います。

何となく、釈然としないままに終わった旅ですが、車両の撮影を邪魔するように照っていた太陽だけは忘れないと思います。

2025年5月24日土曜日

宗太郎越え


九州東海岸を縦断する「日豊本線」の最大の難所が、大分と宮崎県境近くの「重岡駅」と「宗太郎駅」間にある急勾配で、通称「宗太郎越え」と呼ばれます。

ここを以前特急で通ったことがありますが、あまりピンときませんでした。

そのあと、各駅停車で挑戦しようとしたのですが、何故か始発便と最終便しか走ってなく旅程にうまく組み込むことが出来ません。

そのため一念発起して、これをクリアするための計画を立てることにしました。

週末の2日間を利用し、「鹿児島中央駅」を出発して、「日豊本線」を北上、宮崎県北部の中核都市「延岡駅」まで、「青春18切符」で向かいました。

ここで、廃線となった「高千穂鉄道」の遺構を散策しながら最終便を待ち、各駅停車で「宗太郎越え」を敢行する手筈です。

そのまま、終点「佐伯駅」近くのビジネスホテルにて宿泊します。

初日は、夕方「延岡駅」に、計画通り着くことが出来ました。

しかし、ここから夕食に困りました。

それなりに飲食店はあるのですが、町のいろんな式典が重なっている日らしく、どこも満杯です。

一人旅で、その一人が入れない経験はあまり記憶にありません。

最終便の時間も近づいており、店に片っ端から入りましたが駄目でした。

あきらめかけて駅に戻る道すがら、人の出てくる店がありました。

席が空いたと思いのぞくと、片付けられてない席以外に、一席だけ空いていました。

店の女主人には、よそ者だけに嫌そうな顔をされましたが、その席の隣の紳士がわざわざ進めてくれて、何とか入ることが出来ました。

お礼の流れで会話をすると、やはり行事が重なっている日であることを教えてくれました。

物腰が上品なので伺うと、やはり地場企業の社長さんです。

慌ただしい会合の後、一人でゆっくり飲み直しているとのことで、何と鉄道好きでした。

今日の探索で、うまく探せなかった「高千穂鉄道」の遺構について伺うと、存続が出来なくて無念だったこととや、訪れるべきポイントを教えてもらいました。

また、この後「宗太郎越え」に挑戦する話をすると、この急勾配のおかげで、どれだけ宮崎県北部の発展が阻害されているか熱く語って頂き、地元ならではの情報を頂きました。

お会いした記念だとビールまで奢って頂き、名残惜しく別れをして駅に向かいました。

そして、目的である最終便の各停車両を見てビックリです。

そこには、フル編成の特急が停車していて、その先頭車両のみが、各駅停車用に開放されていたのです。

写真の通り、グリーン席・指定席の上に「普通」と表示されています。

普通のワンマン車両では、今からの勾配は上っていけないのでしょうか?

ただ乗ってみると、確かに特急が力強く上っていく印象はあるのですが、急勾配なのかどうか、正直なところよくわかりません。

翌朝は、始発便の各駅停車で、鹿児島まで戻ります。

次の写真にある通り、昨日の車両が折り返すようで、同じく特急の先頭車両が解放されてます。

逆方向(福岡大分方面)には、一般の各停用車両がスタンバイしてますので、この各駅停車はやはり急勾配仕様のようです。

こちらから越えるほうが、より急勾配のようなので、今度こそ感じ取りたいと思いました。


最後の写真は「重岡駅」のフォームからで、ここから「宗太郎駅」までが最大の難所です。


でも、さほど体感出来ませんでした。

平衡感覚鈍いのかなあ。

まあ、今度来たときは、「高千穂鉄道」遺構の再確認と、ビールをご馳走してくれた社長さんのところへ、菓子折りでも持って挨拶に行きたいと思います。

急勾配を越えた感想を聞かれたら困りますが。

2025年5月17日土曜日

リニア実験線跡


鹿児島県で「青春18切符」を使おうとすると、鎖国しているようです。

北上するルートとして、熊本県と結ぶ大動脈の「鹿児島本線」は、新幹線の開通により「川内駅」から先が第三セクターとなるため、使用できません。

以前取り上げた山間部を進む「肥薩線」は、人吉の水害により鉄橋が流されたことで、「吉松駅」からは今も通行止めのままです。

残るは、宮崎県へ向かう「日豊本線」のみ。

線名からは福岡・大分・宮崎しか連想できませんが、しっかり鹿児島までつながってます。

そのため、鉄路の旅はこちら側に集中しました。

そのときに遭遇した変わり種が、写真の「(超電導)リニア実験線」です。

今は具体的な運行に向けて山梨県に移りましたが、それまではこの地で開発が進められました。

調べてみると、着工は国鉄時代の1974年(昭和49年)、実験開始は1977年とかなり前であることにビックリしました。

しかしよくよく思い出すと、自分が幼少のときに「鉄腕アトム」とかで「リニア」なる言葉を使っていた覚えがあります。

何故ここが選ばれたのか、その理由はひたすらフラットであるからです。

全長が、「都農駅・東都農駅」間の「日豊本線」に平行して、全線7キロの線路ですが、終点間際だけが半径1万メートルの曲線(?)、勾配も知らない単位で説明されていました。

とにかく真っすぐ、まっ平であるそうです。

ここでの最高記録は、1979年に無人運転で時速517キロを記録したとのこと。

写真の通り、車窓からはずっと、並行するリニア線を眺めることが出来ました。

新幹線の橋脚よりは小ぶりですが、堅牢な印象があります。

今の路線上は、太陽光パネルが数多く敷設されていて、パネルが斜めの角度になっているため、上面がジグザクに見えてしまいました。

また手前は水田が広がり、逆さリニアとも並走で拝めたのは、かなり乙な体験でした。


近代遺産に認定して、しっかり残して欲しいものです。