2023年10月28日土曜日

新幹線500系


いつ見かけても、歴代新幹線の中で異彩を放っている「500系」です。

悪そうな目つきのライト、紫がかったような青と黒を貴重とするラインアクセント、白い部分もグレーです。

車に例えるとヤンキー仕様としか思えません。

「乗り鉄」のくせに、「車両の型式」を覚えるのが苦手な私でも、名称の区切りも良く、一発で覚えました。

最近の新幹線は、先頭車両こそ多彩なデザインですが、真正面から見ると、全てスクエアな形状をしています。

車両は四角いだけで、ボテっとしていて抑揚がありません。

しかし「500系」は、写真の通り円形になっており、ボディラインがくびれてシャープな印象が与えられてます。

乗り込むときにも、この形状がわかり、ワクワクします。

運行開始は1997年です。

もっと最近のような気がしましたが、バブル時代から開発が始まったと思えば、ここまでデザインを攻めることが出来たのも、時代のなせる部分も多かったと思います。

しかも当時のコンセプトは「スピード重視」で、移動時間の短縮が大きな開発目的でした。

時速320キロで走行出来るように設計されています。

このあとは「静粛性」とか「快適性」に重きをおかれますから、この車両が「エヴァンゲリオン」のコラボに選ばれるのも納得です。

まあ選択肢はこれしかないか。

いつまでも現役で頑張って欲しいですが、いつかはやって来る引退セレモニーは、人気の高さもあって、すごいことになるような気がします。


 

2023年10月21日土曜日

四万温泉


 群馬県北西部にある「四万温泉」。

平安時代の桓武天皇頃に開湯したと言われ、
国保養温泉地の第一号の一つに選定されました。

赤い橋は「慶雲橋」、奥に「積善館本館」があります。

確か文化財の指定を受けているはずです。

本当はここに宿泊したかったのですが、仕事に関連しての訪問だったために、この手前の旅館での宿泊でした。

泉質は「ナトリウム・カルシウムー塩化物・硫酸塩温泉」。

よくわかりませんが、効能は間違いなく高そうです。

実際に入浴したところ、肌にまとわりつくような泉質で、皮膚が喜んでいる感じがしました。

強酸性の「草津温泉」で湯治した後、肌を整えるのに適したらしく、「草津の上がり湯」と呼ばれただけのことはあります。

料理も美味しくて良かったのですが、温泉好きとしては、写真の右脇の木造建築にある「元禄の湯」に入りたくてたまりませんでした。

昭和初期に作られて、大浴槽でなく四角の湯船がいくつも埋められたようにある、大正ロマンが漂う浴場です。

雑誌やテレビにもよく取り上げられています。

朝方の出発前に、周辺をウロウロしてみました。

覗きと思われると困るので、張り付くようには近寄れませんでしたが、遠目に湯船の一部とタイルが拝めました。

しかし余計に想いが募ります。

必ずリベンジ入浴したいものです。


2023年10月14日土曜日

瑞龍寺


 富山県高岡市にある「瑞龍寺」です。

以前「JR城端線」を完乗した際に、高岡駅から大きくカーブする線路脇にあったので、何となくお寺がある印象が残っていました。

あるとき雑誌に、富山県の国宝第一号と認定されたと、記念掲載されていました。

先ず、富山県に今まで国宝が一つもなかったことに驚いたのですが、写真からでも伝わってきた豪壮な雰囲気に是非とも行きたくなりました。

それから一年後くらいだったか、市内の「高岡大仏」にがっかりしながら向かったかと記憶してます。

前田藩2代目の「前田利長」の菩提寺として建立され、写真の印象よりも更に大きく感じました。

江戸時代初期らしく、戦をしていた武士の威風堂々とした迫力が、どの建物にも残っているようです。

一番印象に残ったのは、それぞれの建物をつなぐ回廊です。

天井も高くて幅もあり、通路としては規格外でした。

何故か映画「少林寺」を思い出しました。

ここで、修行僧が掛け声に合わせてやっていた型の稽古が出来そうです。

誰もいないので、一人でやってみようと一声出してみましたが、いきなりの発生で裏返ったうえに、音響がすごぶる良く、構内に響き渡りました。

ただの変態の喘ぎ声です。

慣れないことをするものではありません。




2023年10月7日土曜日

特急「水上(みなかみ)」


改めて調べてみると、「東京:上野駅」と「群馬県:水上駅」を結ぶ特急列車になっています。

しかし写真は「新宿駅」で撮影したはずです。

臨時列車か何かだったのでしょうか?

少しモヤモヤした感じで話を進めさせて頂きます。

この列車は「バブル崩壊」以降の日本の景気後退局面を象徴しているように思われます。

「水上駅」は、地理的には群馬県の北限にあり、ここから先のトンネルを抜けると、新潟県になります。

「川端康成」の有名な小説である「雪国」の、冒頭「トンネルを抜けると雪国だった。」の、そのトンネル手前の地域です。

そこには「水上温泉郷」という、一大遊興地としても有名な温泉があったのですが、需要がどんどんなくなって、10年近く前に伺ったときは、ゴーストタウンになっていました。

そこへの観光客輸送が大きな目的だったので、乗車客減少に伴なって、定期運行から季節運行となってしまいました。

その後、何とかリゾート列車としての名目は保っていますが、相当厳しい状況です。

同県の北東部にある「草津温泉」も、コロナの今は相当厳しいでしょうが、観光地としての存在は保っており、雲泥の差が発生しています。

人口減少が避けられない中、外から人を呼びこむ運営は更に厳しくなっていきます。

ゆくゆくは死ぬまで地元で暮らしたい者として、強烈な示唆を与えられていると感じました。

とはいえ、写真の横長い顔立ちの「185系」は、自分には「リゾート列車」のイメージが強く、いつまでも目にしていたい存在です。 

2023年9月30日土曜日

軍師「竹中半兵衛」とその後


写真は「竹中半兵衛(重治)」の像と、「竹中氏陣屋」の櫓門です。

「豊臣秀吉」の軍師として名高く、もともと麓(ふもと)の陣屋でなく、その山頂にあった「菩提山城(ぼだいやまじょう)」が居城でした。

「岐阜県」の最西部に位置し、戦国大名「斉藤氏」の時代から、この一帯を所領としていたのです。

「秀吉」に「三顧の礼」で迎えられて家臣となり、有能ぶりを発揮しましたが、残念ながら「播磨攻め」のとき陣中にて病没します。

享年36歳。

その後を一人息子の「重門」が、6歳ながら叔父の後見を受けることで、家名を保ちました。

「秀吉」が天下統一を進めていく中で、領地はこのまま据え置かれます。

そして「秀吉」の死後に、何と天下分け目の「関ヶ原合戦」が、自領の「関ヶ原」で展開されることになりました。

ところで、「秀吉」の軍師で有名な方は二人いて、「両兵衛」と呼ばれます。

彼と、そのもう一人は「黒田官兵衛」です。

実はその息子同士「黒田長政」と「重門」は幼なじみで、「播磨」からのつながりがあります。

その声かけもあってか、「長政」の傘下で東軍として合戦に加わり、勝ち組として本領安堵されました。

石高は6000石であるため、大名にはなれませんでした。

それでも江戸時代は「参勤交代」をする格式を与えられた旗本である「交代寄合」として、無事に幕末を迎えます。

戦国から幕末にかけ、しかも天下統一に向けて戦場となることが多かった地域にあって、領地が変わらなかったのは奇跡としか言いようがないです。

一族は現代まで続いているそうです。キープ力の凄さをつくづく感じました。

2023年9月23日土曜日

大湯(山田温泉)


群馬県との県境に近い長野県「高山村」にある「山田温泉」。

写真はその象徴的な存在である「大湯」の外観です。

入り口の大きな「唐破風」が特徴的で、桃山時代の建築様式を取り入れているそうです。

無色透明でしたが、硫黄の香り漂うエキスの詰まった素晴らしいお湯でした。

しかし気分が浮かばれません。

実は「志賀草津道路」をドライブし、群馬県から東京方面に戻る予定でしたが、最も標高の高い「渋峠」が通行止めになっていました。

結構な距離を走ってきたので、むちゃくちゃ残念です。

そのため、やむなく高速の「上越道」を使って帰京しようと引き返した際に、折角なので立ち寄ったのです。

ぼーっと湯に浸かってましたが、もう一人入浴していたおじさんと会話が始まり、今回の顛末を説明しました。

すると「万座温泉」に抜ける脇道があるとのこと。

このルートを通れば、100キロ以上短縮出来ます。

超ラッキーな展開です。

しかし全く明かりがなく、40分位は不安が続くと、丁寧な説明まで頂きました。

実際その通りでした。

明かりが見えたら万座の町と、補足がなければ、この夜道は怖くて進めなかったと思います。

無事帰途に着けました。

おじさんありがとう。


 

2023年9月16日土曜日

鉄砲伝来の地


鹿児島県「種子島」の南端に、この地はありました。

説明看板の記述を読むと、南蛮人が上陸する様子は、かなり細かく記録に残っているようです。

写真の階段を降りた海辺のココだと、矢印の如く具体的なのにビックリしました。

いったんここに上陸した後に、島の領主である「種子島氏」がいる北部に連れていかれます。

ここで「二丁の鉄砲」が伝わるのです。

日本がすごいと思うのは、こんな辺鄙な場所で入手したにも関わらず、たった2年で鉄砲製造を「国産化」してしまったことです。

世界史においては、16世紀前半から、ヨーロッパの世界侵略が始まります。

メキシコにあった「アステカ帝国」や、ペルーの「インカ帝国」は、ポルトガル・スペインに短期間で滅ばされ、キリスト教化されていきます。

その約10年後くらいの同時期です。

しかし日本では、天下統一に向かって激化する戦国時代において、使用される鉄砲は「国内産」で、戦法も独自に進化していきました。

そのためか、「宣教師」がやって来ても、付随している「武人」や「武器商人」が主導権を握るような展開はあまりありません。

活用方法も含めて「内製化」したことが、外国の力を借りる必要を減らし、国内の綻びから展開されていく侵略の目を詰んだと思います。

海原が美しい海岸線を散策した後、記念碑がある最南端の「門倉岬」に向かいました。

最後の写真は、そこにある神社本殿を背にして、海原に向かって鳥居を撮影した一枚です。

「外敵」に対して睨みを効かしているように、非常に頼もしく感じました。