2023年10月14日土曜日

瑞龍寺


 富山県高岡市にある「瑞龍寺」です。

以前「JR城端線」を完乗した際に、高岡駅から大きくカーブする線路脇にあったので、何となくお寺がある印象が残っていました。

あるとき雑誌に、富山県の国宝第一号と認定されたと、記念掲載されていました。

先ず、富山県に今まで国宝が一つもなかったことに驚いたのですが、写真からでも伝わってきた豪壮な雰囲気に是非とも行きたくなりました。

それから一年後くらいだったか、市内の「高岡大仏」にがっかりしながら向かったかと記憶してます。

前田藩2代目の「前田利長」の菩提寺として建立され、写真の印象よりも更に大きく感じました。

江戸時代初期らしく、戦をしていた武士の威風堂々とした迫力が、どの建物にも残っているようです。

一番印象に残ったのは、それぞれの建物をつなぐ回廊です。

天井も高くて幅もあり、通路としては規格外でした。

何故か映画「少林寺」を思い出しました。

ここで、修行僧が掛け声に合わせてやっていた型の稽古が出来そうです。

誰もいないので、一人でやってみようと一声出してみましたが、いきなりの発生で裏返ったうえに、音響がすごぶる良く、構内に響き渡りました。

ただの変態の喘ぎ声です。

慣れないことをするものではありません。




2023年10月7日土曜日

特急「水上(みなかみ)」


改めて調べてみると、「東京:上野駅」と「群馬県:水上駅」を結ぶ特急列車になっています。

しかし写真は「新宿駅」で撮影したはずです。

臨時列車か何かだったのでしょうか?

少しモヤモヤした感じで話を進めさせて頂きます。

この列車は「バブル崩壊」以降の日本の景気後退局面を象徴しているように思われます。

「水上駅」は、地理的には群馬県の北限にあり、ここから先のトンネルを抜けると、新潟県になります。

「川端康成」の有名な小説である「雪国」の、冒頭「トンネルを抜けると雪国だった。」の、そのトンネル手前の地域です。

そこには「水上温泉郷」という、一大遊興地としても有名な温泉があったのですが、需要がどんどんなくなって、10年近く前に伺ったときは、ゴーストタウンになっていました。

そこへの観光客輸送が大きな目的だったので、乗車客減少に伴なって、定期運行から季節運行となってしまいました。

その後、何とかリゾート列車としての名目は保っていますが、相当厳しい状況です。

同県の北東部にある「草津温泉」も、コロナの今は相当厳しいでしょうが、観光地としての存在は保っており、雲泥の差が発生しています。

人口減少が避けられない中、外から人を呼びこむ運営は更に厳しくなっていきます。

ゆくゆくは死ぬまで地元で暮らしたい者として、強烈な示唆を与えられていると感じました。

とはいえ、写真の横長い顔立ちの「185系」は、自分には「リゾート列車」のイメージが強く、いつまでも目にしていたい存在です。 

2023年9月30日土曜日

軍師「竹中半兵衛」とその後


写真は「竹中半兵衛(重治)」の像と、「竹中氏陣屋」の櫓門です。

「豊臣秀吉」の軍師として名高く、もともと麓(ふもと)の陣屋でなく、その山頂にあった「菩提山城(ぼだいやまじょう)」が居城でした。

「岐阜県」の最西部に位置し、戦国大名「斉藤氏」の時代から、この一帯を所領としていたのです。

「秀吉」に「三顧の礼」で迎えられて家臣となり、有能ぶりを発揮しましたが、残念ながら「播磨攻め」のとき陣中にて病没します。

享年36歳。

その後を一人息子の「重門」が、6歳ながら叔父の後見を受けることで、家名を保ちました。

「秀吉」が天下統一を進めていく中で、領地はこのまま据え置かれます。

そして「秀吉」の死後に、何と天下分け目の「関ヶ原合戦」が、自領の「関ヶ原」で展開されることになりました。

ところで、「秀吉」の軍師で有名な方は二人いて、「両兵衛」と呼ばれます。

彼と、そのもう一人は「黒田官兵衛」です。

実はその息子同士「黒田長政」と「重門」は幼なじみで、「播磨」からのつながりがあります。

その声かけもあってか、「長政」の傘下で東軍として合戦に加わり、勝ち組として本領安堵されました。

石高は6000石であるため、大名にはなれませんでした。

それでも江戸時代は「参勤交代」をする格式を与えられた旗本である「交代寄合」として、無事に幕末を迎えます。

戦国から幕末にかけ、しかも天下統一に向けて戦場となることが多かった地域にあって、領地が変わらなかったのは奇跡としか言いようがないです。

一族は現代まで続いているそうです。キープ力の凄さをつくづく感じました。

2023年9月23日土曜日

大湯(山田温泉)


群馬県との県境に近い長野県「高山村」にある「山田温泉」。

写真はその象徴的な存在である「大湯」の外観です。

入り口の大きな「唐破風」が特徴的で、桃山時代の建築様式を取り入れているそうです。

無色透明でしたが、硫黄の香り漂うエキスの詰まった素晴らしいお湯でした。

しかし気分が浮かばれません。

実は「志賀草津道路」をドライブし、群馬県から東京方面に戻る予定でしたが、最も標高の高い「渋峠」が通行止めになっていました。

結構な距離を走ってきたので、むちゃくちゃ残念です。

そのため、やむなく高速の「上越道」を使って帰京しようと引き返した際に、折角なので立ち寄ったのです。

ぼーっと湯に浸かってましたが、もう一人入浴していたおじさんと会話が始まり、今回の顛末を説明しました。

すると「万座温泉」に抜ける脇道があるとのこと。

このルートを通れば、100キロ以上短縮出来ます。

超ラッキーな展開です。

しかし全く明かりがなく、40分位は不安が続くと、丁寧な説明まで頂きました。

実際その通りでした。

明かりが見えたら万座の町と、補足がなければ、この夜道は怖くて進めなかったと思います。

無事帰途に着けました。

おじさんありがとう。


 

2023年9月16日土曜日

鉄砲伝来の地


鹿児島県「種子島」の南端に、この地はありました。

説明看板の記述を読むと、南蛮人が上陸する様子は、かなり細かく記録に残っているようです。

写真の階段を降りた海辺のココだと、矢印の如く具体的なのにビックリしました。

いったんここに上陸した後に、島の領主である「種子島氏」がいる北部に連れていかれます。

ここで「二丁の鉄砲」が伝わるのです。

日本がすごいと思うのは、こんな辺鄙な場所で入手したにも関わらず、たった2年で鉄砲製造を「国産化」してしまったことです。

世界史においては、16世紀前半から、ヨーロッパの世界侵略が始まります。

メキシコにあった「アステカ帝国」や、ペルーの「インカ帝国」は、ポルトガル・スペインに短期間で滅ばされ、キリスト教化されていきます。

その約10年後くらいの同時期です。

しかし日本では、天下統一に向かって激化する戦国時代において、使用される鉄砲は「国内産」で、戦法も独自に進化していきました。

そのためか、「宣教師」がやって来ても、付随している「武人」や「武器商人」が主導権を握るような展開はあまりありません。

活用方法も含めて「内製化」したことが、外国の力を借りる必要を減らし、国内の綻びから展開されていく侵略の目を詰んだと思います。

海原が美しい海岸線を散策した後、記念碑がある最南端の「門倉岬」に向かいました。

最後の写真は、そこにある神社本殿を背にして、海原に向かって鳥居を撮影した一枚です。

「外敵」に対して睨みを効かしているように、非常に頼もしく感じました。


 

2023年9月9日土曜日

赤木城


三重県の城巡りは、以前大阪に住んでいたときに相当押さえていたつもりでしたが、「続100名城」に選定されるまで、この城の存在自体を知りませんでした。

しかも築城者は、城造りの名人で有名な「藤堂高虎」です。

不覚でした。

慌てて、時間を都合して伺った次第です。

写真は本丸周辺に向けて、石垣が被写体として移るようにアングルを定めて撮影したものですが、小規模ながら総曲輪であるためポイントが多くて決めるのに苦労しました。

場所は三重県熊野市で、和歌山県と奈良県の県境に近く、かなり辺鄙な地です。

しかし山中でも海に出やすく、熊野大社も近いことから、海路の視点で見ると状況は随分違うのかもしれません。

当時の「高虎」は「豊臣秀吉」の弟「秀長」の家臣でした。

その「紀州攻め」に随行して、この地域の一揆鎮圧を任された際に、ここを拠点にしたそうです。

11年間の長期にわたって在居し、ここから「秀吉」の天下統一に関わる戦に、「秀長」の配下として出陣し、数々の戦功を立てて大名となります。

そして「秀長・秀保」の死後に、「秀吉」直属の配下となり、伊予三郡を与えられて「宇和島城」を築きます。

その後も数々の名城を築城していきますが、「高虎」の出世城はまさしくここが原点だったのです。

学ぶことの多い、大好きな武将であるにも関わらず、肝心の拠点が何処かを押さえてなかったのは、本当に恥ずかしいです。

夏でしたが、夕暮れ近くだったので、本丸跡に立つと、いい感じで風がそよいでいました。

汗が引くのを待ちつつ、いい勉強になったとつくづく思いました。


2023年9月2日土曜日

姫神山砲台跡


長崎県「対馬」にある砲台跡です。

国境の島であることから、国防と大陸への最前線基地として島の要塞化が進められました。

明治から昭和にかけて30カ所を越える砲台が建設され、ここは「日露戦争」が始まる直前に完成してます。

ここの存在を知らなかったのですが、レンタカー会社でもらったパンフレットに、お勧めポイントとして記載されていました。

旅程では最後半に行けるかどうか微妙でしたが、何とか間に合いました。

主要道路からの看板はあったものの、そこからはかなり険しい雑草が生い茂る道で、レンタカーに傷がつかないか心配でした。

かなり日が暮れていて、自分の心霊レーダーが機能しないか不安になります。

しかし無理にでも訪れてよかったです。

写真は一番高い箇所にあった砲台跡からの景色で、夕焼けの日差しにリアス式の海岸がくっきりと浮かび上がっています。

大きな貯蔵庫跡は、暗くなると特に怖いので、先に伺いました。

迂回してから登ったのでゼエゼエしてましたが、息をするのを忘れるくらい、ウットリ眺めてしまいました。

まさしく「神々の黄昏」です。

数分だと思いますが、夕日が沈んでいく陰影の変化が、より神々しさを増します。

軍事技術の進展で、砲台の射程距離が大幅に向上していったことから、明治・大正期の砲台は、すぐに機能不全となっていきます。

そのためここは戦場になることはありませんでしたが、来るべき「ロシア帝国」に備える崇高な使命みたいなものが伝わってきて、オペラが聞こえてきそうでした。