2024年12月28日土曜日

耶馬溪廃線跡①


ここは、大分県の景勝地「耶馬渓」です。

有名な「青の洞門」は既に行ってますが、ここまで「大分交通耶馬渓線」が通っていたこともあり、そのルート沿いを車で追ってみました。

写真は、「耶馬渓平田駅跡」で、駅のフォームがほぼ残っており、奥まで続く道が路線跡になっています。

この線路跡がそのまま道路になっていて、そこを走ってここまで来ました。

かなりの距離を列車の気持ちでドライブ出来て、相当ワクワクしました。

よく家族にいじられる「小学3年生」の心境そのままです。

車の反対側にある公衆トイレも駅舎を模していて、鉄道の雰囲気をうまく演出してます。

また、ここで手に入れた観光マップを見て驚きました。

何と、ほとんどの路線が車道も含めて自転車道として残っているのです。

確かに、フル装備のロードレーサーが、高価な自転車に乗って走っていました。

全区間19駅で36.1キロ。

1975年に廃線となっているので、今まで存続しているのは、地元の努力も含めて奇跡に近い気がします。

再度自転車で来ようと、この時点で決意した次第です。

それ以外のルートも耶馬渓の奇抜な山々がよく見えて、素晴らしいルートでした。


そんな充実した気持ちで帰路に着いたのですが、しばらくして不幸が待ってました。

仕事で移動中に、この車の「セレスピード」が壊れました。

何かというと、「アルファロメオ」のオートマシフトの名称なのですが、マニュアルを電動で自動シフトさせるシステムです。

そのため自動ですが、ギアが変わる際に手動でシフトチェンジする感触は伝わり、個人的には好きでした。

ただ老朽化すると壊れやすい部分でもあり、シフトの制御が利かなくなって、普通に走れなくなりました。

納車してから約1か月で修理に入ってしまった「マセラティ・クアトロポルテ」のピンチヒッターとして購入しましたが、コイツとも約9か月でお別れになりました。

短い期間でしたが、約2万キロは走ってくれて頑張ってくれたと思います。

かなりサスペンションも下手っていて、衝撃が強い乗り心地でしたが、これも癖になる快感に変わっていたから不思議です。

この短い充実した期間を忘れないように、この車しばりでの旅を連続して取り上げた次第です。

この「アルファ147」は、排気量2ℓの「ツインスパーク」というエンジンでした。

高回転で小気味よく回り、あらためて「アルファロメオ」のエンジンの素晴らしさを体感出来ました。

電気自動車へと、車のトレンドが変わりつつある昨今ですが、「アルファ」で名機と呼ばれる「Ⅴ6」エンジンにも乗っておかねばと、自分の潜在的なニーズを再認識した次第です。

まだまだ車の趣味は終わりません。


 

2024年12月21日土曜日

ギロチンの海

 


ここは長崎県にある諫早湾の干拓堤防道路です。

佐賀県から長崎県に入り、島原半島へ向かうには相当便利な道です。

干拓のために海を遮っている直線道路で、海の上を進むような感覚がありますが、この道路が築かれた経緯を考えると、刃渡りの上を走っているような錯覚になりました。

この潮受け堤防の完成に際して、最後の区間が閉門されたのは1997年4月。

1.2キロの区間だそうですが、式典参列者のスイッチオンとともに、293枚の鋼板がわずか45秒の間に次々と海底に突き刺さっていく様子は「ギロチン」と呼ばれ、テレビでも大々的に放映されました。

その様を見て衝撃を受けたのを、よく覚えています。

賛否両論あった中で、ここまで見せつけるようなデモンストレーションを行政側が実施した例があったのでしょうか。

1950年代の食糧難を解消するためというと、以前に取り上げた「八郎潟」干拓と同様の計画です。

それが今頃になって実現しても、ここに入植された農業関係者の想定されている目的(収穫高や所得水準)は達成されるのでしょうか。

海産物の影響が確実に出ている漁業関係者のことも考えると、双方に泥沼のような事情が発生しているはずです。

決めたことを進めていくことは大事なのですが、決定事項に制限期間を設定していくことは、ますます変化のスピードが増している社会に対して、これからの必要かつ重要事項かと思います。

雨とはいえ、非常に展望の開けた素晴らしい景観なのですが、干拓側の閉ざされた水面(車の前方)が、濁っているのばかりが気になりました。

雨のせいだといいのですが。



2024年12月14日土曜日

西都原古墳



写真の車ですが、スポーツ仕様でタイヤのサイズが大きいせいか、サスペンションはかなりやれてます。

次回から、長距離走っている中古車を選ぶときは、ノーマル仕様に限ると一つ勉強になりました。

そうは言いながらも、しっかりした足取りで走ってくれるので、長距離ドライブには重宝しました。

今回は、下関を南下して九州の東側をひた走り、宮崎県の「西都原古墳群」を訪れました。

ここを訪れてないのに気づいて、山口にいる間にと思い、向かった次第です。

300基を超える古墳が、3世紀後半から7世紀にかけて築かれています。

邪馬台国から聖徳太子がいた飛鳥時代まで、古墳時代の全期間に渡っているのです。

写真の通り、車で走りながら、広大な範囲であることが実感出来ました。

ドライブ中にタイムスリップして古代に迷い込んだようです。

しかし、長期間大都市ですが、都でなかったことは一目瞭然でした。

数はありますが、中央集権化を感じる巨大な前方後円墳が見当たりません。

九州の南北を結ぶ中継都市だったのかと推測しますが、その南北に何があったかです。

自分の着想のパズルが一つ埋まりました。

この後は、古代ロマンに浸りつつ、宮崎市内に向かいました。

目当ての中華そば屋に行くためです。

鳥ガラと豚骨の混じった好みの味で、小さいときによく食べた味に一番近く感じました。

ここはまた伺いたいです。
 

2024年12月7日土曜日

閼伽井坊多宝塔


「あかいぼうたほうとう」と読むそうです。

山口県西部の下松市にあります。

訪問した企業さんの応接室に、多宝塔の切り絵が入った額縁が飾られてました。

伺うと、ここから北に向かうと「花岡八幡宮」があり、その脇に鎮座しているとのことで、結構勧められました。

最初、金剛界で東方に位置する「阿閦(あしゅく)仏」に関連する施設かと勘違いし、その存在が珍しくて、興味も膨らんだので行くことにしたのです。

そのまま北上すると、「花岡八幡宮」の参道だったと思われる直線道路に行き当たり、それを突き進んだのですが、ナビは途中から右折を支持し、山の斜面にある八幡宮の側面に回り込むルートを進みました。

かなり狭い山道を本殿に向かって突き進むことになります。

よくよく考えれば、神社なのに、何で仏教の多宝塔があるのか不思議です。

それでも壁面に車をぶつけないように進み、上がりきるとそこは駐車場になっていて、その目の前に切り絵の建物がありました。

二層ですが、非常に端正な佇まいをされてます。

夕暮れ時でもあったので、陰影が際立って、立体の切り絵を拝んでいるようでした。

しかし説明版を読むと、老眼の進んだせいでしょうか、「閼伽(あか)」の見間違いでした。

その意味もわからず調べると、仏に供えるお水のことで、「閼伽井」はそれを組む井戸のことだそうです。

じゃあ、それが何で多宝塔なのか、説明版の内容ではよくわかりません。

多宝塔の中に井戸もなさそうですし、八幡宮との関連も説明されてません。

釈然としない気持ちで、そこから見える参道側に出ていくと、きれいに下松の街並みが拝めました。

かなりの高さを上ってきたことに驚きです。

まあ、次の訪問ネタが出来たと割り切って戻りましたが、この八幡宮はかなり風光明媚な場所です。

後で気がついたのですが、「藤原鎌足」が創建した日本16塔とも伝えられているそうです。

もっとアピールしてもいいのに。


 

2024年11月30日土曜日

山奥のカフェ


前回のブログで山口県には小洒落た雰囲気のカフェがないようなことを言いましたが、少しだけ前言撤回させて下さい。

一つだけ例外を思い出しました。

「俵山温泉」の道中で、遠回りして帰ろうとしたときに、偶然にもロバさんらしき看板を見つけました。

写真の通り、飛び跳ねた姿態の立体的な木彫りです。

センスの良さを感じます。

何を売っているのかと、いそいそと車を停めて近づきました。

こういった間合いは、山口県では初めてのことです。

嬉しいことに、「カフェ」兼「古本屋」兼「小道具屋」さんでした。

お腹は減ってなかったのですが、ここであったが100年目の面持ちで店内に入ります。

コーヒーとプリンしかありませんでしたが、頂くことにしました。

苦みの強いコーヒーと、卵風味の強いプリンの組み合わせは、かなり満足出来ました。

ついでに、「つげ義春」の古本もあったので購入し、失礼してあらためて外観を眺めましたが、平屋住宅と小屋が混同されたような様式は何とも言えませんでした。

内部も、小屋から納屋へ、そして母屋の空間へと、扉とかなくても、その間仕切りごとに雰囲気が変わり、旧施設の残り香をうまく再利用していると感心しました。

デルタカフェの2号店を、辺鄙なところに建てるとすると、こんな廃屋を探したらいいなあ、と感じた次第です。

でも、人の営みがあってこそで、妄想よりも本店の運営が最優先です。


 

2024年11月23日土曜日

俵山温泉

 


山口県に住んでいて、休日に一番よく行った温泉は、「俵山温泉」です。

下関市と長門市を結ぶ中間地点にあり、広域道路の発達した山口県の中では、辺鄙な場所になります。

それでも自宅から車で一時間ほどで行けるので、昼食を食べるついでにロングドライブするような流れでした。

スムーズに運転出来て快適な道中なのですが、山口県には前回取り上げたような小洒落たカフェとかがあまりありません。

ここは愛媛県とはかなり違います。

温泉に着いてすら、数少ない店がやってないことも多いので、山間部に入る前におにぎりは備えとしてコンビニで買って行きました。

一度、宿泊したのですが食事する場所がなく、夕食抜きで寝ることがあったからです。

山口県に住む前にも、ここは名湯であると伺っていたので来たことはありました。

ここの入浴の形式は変わっていて、それぞれの旅館には内湯がありません。

宿泊者は全員、数か所ある外湯に入るのです。

そのときは休日でもあったので、外来客も交じってごった返していたのを記憶してます。

それからかなり寂れてしまったようで、以前に入浴した浴場は廃止されてました。

旅館も建物こそありますが、閉めているところが多いです。

外来で入れるなら、わざわざ泊まるメリットを感じないのではないでしょうか。

新たに、大きめのスーパー銭湯的な浴場は出来ていますが、それが過疎化に拍車をかけたような気がします。

ここだけに人が集まってしまい、温泉地ならではの風情が薄れてしまったのは残念です。

それでも、源泉のある共同湯は残っていて、いつもそこに行きました。

何の特徴もない公民館みたいな場所で、人も混んでいますが、何故か居心地が良かったです。

無味無臭の透明な泉質ですが、何の良い成分が体に染み込んでいく気がして、非常に安らげました。

下の写真は、唯一やっているお菓子屋さんです。

店の雰囲気と比較すると、若い方がお饅頭を焼いており、頑張って続けて欲しいと思いますが、あまり流行ってない雰囲気を感じると、旅行者のわがままかと切なくなりました。

本当に続けることは難しいです。



2024年11月16日土曜日

唐津城


「島原城」のときに取り上げた「唐津城」です。

近い時期に伺ったので、その流れで取り上げます。

父親の「寺沢広高」については、唐津へ着任時に反対勢力を徹底的に弾圧し、早期に基盤の安定化を図ることに成功したようです。

「豊臣秀吉」配下の武将らしく、河口付近の大改修や、砂州へ松の植林(虹ノ松原)、城下町の整備、産業の導入を積極的に行い、繁栄の礎を作りました。

ただ、その死後は「徳川家康」に近づき、関が原の戦いでは東軍に与して、勝者として近世大名になりました。

その際に「天草諸島4万石」を飛び地として加増されて、石高「12万3千石」となります。

写真の通り、東側の河口から展望すると水に浮かんでいるように見え、フランスの「モンサンミッシェル」のような趣すら覚えます。

海に突き出た高台に、総構えで石垣を幾重にも重ねていて重厚感を感じる城ですが、かなり節約して建てられたようです。

先ず、当初から天守閣は築かれることなく、今のは昭和41年に文化観光施設として築かれた“なんちゃって天守閣”です。

また、領内の廃城となった「名護屋城」の遺材を転用してコツコツと、7年かけて築かれました。

そのため、築城が理由で、キリシタンの弾圧は実施されてません。

この「広高」という人物は、トレンドに敏感な方でキリシタンだったそうなのですが、「禁教令」が出た途端に迫害に転じたそうです。

幕府のご機嫌を取ったような動きでした。

遠い飛び地の「天草」での弾圧は、本領と異なる植民地の感覚だったように思われますし、行政手腕から考えて、禁教させるために効率的に搾り取った結果だったのかと推測します。

その搾取のおかげで、本領の「唐津」は更に潤い、幕府の方針も遵守している一石二鳥の構図です。

誤算は、対岸にある「島原藩松倉氏」の大弾圧の影響を考慮できなかったことです。

石高4万石の規模で、ここよりもはるかに大規模な「島原城」を築いた凄まじさは、「対岸の火事」ではすみませんでした。

本人が亡くなった後、息子の「堅高」になって「島原の乱」が勃発、天草のキリシタンも対岸に渡って「原城」で戦いました。

戦後処理では「天草」が取り上げられただけで済みましたが、江戸詰めで軟禁されたような生活になり、自刃してお家断絶という悲惨な末路でした。

ここからの帰りに、一番の目当てだった場所に向かいました。

城から東側の海岸線は松林になっており、先述した「虹の松原」です。

ここに「唐津バーガー」を販売している車がいます。

このお店は複数店ありますが、どこも車で販売しています。

下の写真の通り、昭和レトロな雰囲気が溜まりません。

ベーコンと卵入りのハンバーガーに、フライドポテトと、コンフィデンスミルク入りのホットミルクを食しながら、下関に戻りました。

少し殺伐とした気分になっていたので、ホッコリ出来ました。

2024年11月9日土曜日

竹崎城

 

どこにあるのだろうかと、迷いながら辿りついた次第です。

途中から案内板が見えたので、楽勝かと思いましたが、九州高速道路が走っている山際を分け入るよう突き進み、ほとんど使われてない高速道路の側道らしき道を、出たり入ったりしながら斜面を上っていきました。 

立体化されたコンクリート土台の道で、本来の登城路はどこにあるのかわかりません。

中世の城跡であり、しっかりした縄張りがあるとも思ってないので、本当に通じているのだろうかと不安に駆られました。

何回かの折り返しで、ようやく区画整理されてない道になり、城に近づいている実感が出てきました。

しかし自然道になると落ち葉が腐葉土化しており、スリップしないようにノロノロ運転です。

こんな調子だと、徒歩でもこの後かなり歩くのかと億劫になりましたが、写真の通り本丸らしい土手のすぐ脇まで着くことが出来ました。

この「竹崎城」は「竹崎季長(たけざきすえなが)」の城と言われてます。

日本史の教科書にも出てきますが、「元寇」に際して、自分の手柄を主張するために絵巻物「蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)」を作らせた武将です。

ここは熊本市の南方にある宇城市にあり、九州道の松橋インターチェンジの南側に位置します。

しかし、やっとのことで来れたのですが、案内板には城と武将を直接結び付けるのは難しいように書かれています。

時代的には標高も高いし、曲輪も数多くあって、南北朝の城だそうです。

まあ、中世の武将に城主を当てはめるのは、相当の無理があるのはわかってました。

しかし、城郭の地図を眺めるたびに表記されていてずっと気になっていたので、来れた達成感はあります。

ぐちゃくちゃな道程でしたが、やっとスッキリすることが出来ました。

ただのアホな行動ですが、止められません。




2024年11月2日土曜日

島原城



久しぶりに訪れた「島原城」です。

小雨まじりの陰鬱とした天候でしたが、かえってこの城の雰囲気に合ってました。

天守閣はコンクリートでの再建とはいえ、眼前まで駐車場となっていて、直に車で乗り付けられるのはここしか記憶がありません。

総石垣と堀に囲まれた本丸と二の丸は綺麗に残っていて、その中心に聳え立っているにも関わらず庭がないのが不思議です。

下の写真の縄張り図をご参照下さい。

広大な範囲に築かれた城郭であることが、よくわかると思います。

平成2年に発生した「雲仙普賢岳大噴火」に際しては、自衛隊も含めた支援部隊の拠点として利用されたほどです。

舗装されているのはそのせいかもしれませんが、とにかく殺伐とした雰囲気は、前回訪問したときと変わりませんでした。

天守閣に「破風」がなく、西洋的な趣だからかもしれません。

迫害を受けたキリシタンが起こした「島原の乱」は、幕末を除いた江戸時代の最大の戦争と言えます。

その原因となった島原半島での大弾圧は、ここの領主である「松倉重政・勝家」親子が、この島原城を築くために、領民へ過酷な年貢の取り立てを実施し、年貢を納められない農民や、改宗を拒むキリシタンに対して拷問・処刑を行ったためです。

4万3千石の禄高で、この大規模な築城はあり得ません。

この経緯を知っているためか、どれだけの血を吸って大きくなった城なのか、どうしても恐怖を感じてしまいます。

近世の城郭は、特に為政者の権威を象徴する側面が強い存在ですが、ここほど「支配者」の畏怖を体現している城はないかと思います。

加えて、対岸の天草地方は、唐津藩領の飛び地であり、唐津城主「寺沢広高・堅高」親子が、キリシタンへの弾圧を行っており、双方のキリシタンが「原城」に合流して籠城戦が始まりました(勃発時に父親はなくなっているため、両家とも子供の代)。

「唐津城・原城」については、別の機会に取り上げたいと思いますが、乱終結後の処分については、松倉家は取り潰しで、勝家は斬首となりました。

大名が、切腹でなく斬首となったのは、江戸時代を通じてこの1例のみです。

寺沢家は、天草領を没収のみと比較的軽めでしたが、堅高自身は、江戸詰めで出仕は許されないという、生殺し状態に置かれました。

そのためか精神面を患って自害し、跡継ぎもいないため、同じく取り潰しとなりました。

そんなことを思い出しながら、高石垣の堀を除きつつ本丸の周囲を散策したせいか、何かに引き摺り込まれて落ちないように、相当腰が引けてたと思います。

2024年10月26日土曜日

加世田駅跡

 

山口県の下関にいる間に、九州地方を今一度丁寧に回っておこうと、鹿児島県西部にある「加世田駅跡」を訪れました。

まさかこの後に鹿児島県に赴任するとは露知らず・・・。

ここは、廃線となってしまった鉄路達が集結したハブ駅でした。

鹿児島県の西海岸沿いにも、昔は鉄道が走っていました。

日本最南端を走る「JR枕崎線」の終着は「枕崎駅」ですが、昔はそこから先も続いていて、「鹿児島交通南薩線」が時計回りに北上し、「JR鹿児島本線」の「伊集院駅」と結んでいました。

更に、中間にあったこの駅を起点として、山間部に向けて「鹿児島交通知覧線(終着は知覧駅)」が、海側には「南薩鉄道万世線(終着は薩摩万世駅)」が繋がっていたのです。

「知覧」と「万世」は、共に特攻隊基地のあったところでもあります。

訪れると、駅はバスのロータリーになっており、芝生が敷かれた場所は、かつてここを走った列車達の停車場となっていました。

写真の通り、野ざらしで置かれていて、それなりに傷んでいますが、かえって往時の雰囲気が伝わってきます。

路線跡とかはわかりませんでしたが、使用されていた駅名の看板が、バスターミナルや停車場に、駅のフォームのように設置されていました。

不思議に違和感がなく、駅舎に立っているような気がします。

鹿児島県に赴任した後も、この近所の営業部に伺ったときは、わざわざロータリーを周回して帰ったりしました。

これ以上は無くならないで欲しいです。


車に乗ったままで、機関車の雄姿を360度で拝めるロータリーは、相当貴重だと思います。


2024年10月19日土曜日

くま川鉄道

 

熊本県の「くま川鉄道」に行ってきました。

コロナ禍の令和2年7月4日の豪雨災害で被災し、「人吉温泉駅~肥後西村駅」の区間は、未だに復旧出来てません。

写真は、「肥後西村駅」から人吉方面に向かう踏切上で撮影しました。

見ずらいのですが、線路上に鉄のバリケードが組まれていて、この駅が現状の終着駅であることを示しています。

全線で被害を受ける中でも、この駅から東側の終着「湯前駅」までは、令和3年11月28日に運行を再開しました。

西の終着「人吉温泉駅」までは代替バスの運行で対応しているそうです。

令和7年度中に全線再開を目指しているそうですが、是非とも復活して欲しいものです。

頻発している大災害は、ローカル線に致命的な打撃を与えるケースが多く、収益的な問題以上に存続に止めを刺すことが多いです。

川下にある「人吉」は、球磨川が中心を流れる非常に美しい町です。

以前のブログで取り上げた、蒸気機関車「SL人吉」もこの町が終着駅です。

それが、豪雨災害で鉄橋が流されました。

あの風光明媚な鉄道の景観が消えうせたことに、テレビの前で絶句しました。

下の写真は、無人駅の「肥後西村駅」です。

 

フォームにも立ちましたが、この進行方向から先が通行不能になっている実感がわきません。

心地良い風が吹く、素敵な夏の夕暮れでした。


最後に、ここから山奥ルートを選択して帰路に向かうときの展望です。

この雄大な景色を見て、はるばる熊本県の南部までやってきた甲斐があったと実感した次第です。

鉄路復旧の暁には、早いうちに再訪することも誓いました。

2024年10月12日土曜日

クジラ祭り


この大きなクジラさんの模型は、山口県長門市通(かよい)地区で開催される「通くじら祭り」
にて使用されてました。

仕事の帰り、たまたま片付け中(おそらく乾かしていた)に、ラッキーにも遭遇しました。

写真にて、家との比較でもわかる通り、駐車場を一頭で占拠しており、尾びれは道路を仕切る金網すら飛び出しています。

動かすときは、模型の腹部に船が入るようになっていて、実際に海に浮かび、頭上から潮も吹きます。

少し前にテレビにてこの祭りの様子が放映されていたのですが、古式捕鯨に乗っ取ったであろう儀式はかなりリアルです。

赤い褌をしめた漁師達を乗せた船が、クジラさんを取り囲み、モリを突いたり、終いには数人が上によじ登ってとどめを刺していました。

地理的には、長門市の海に突き出た青島島の、更にか細い東端となり、釣り針のような地形になっています。

そのため、入り江は袋小路のようになっていて、クジラが迷い込みやすいそうです。

素人の自分ですら、その説明に納得できるロケーションでした。

江戸時代から、捕鯨の基地として栄えていましたが、今後の継続性が心配になりました。

今回の仕事内容は、小中学校に関するボランティア支援で、そのヒヤリングに最東端の高台にある小学校に伺ったのですが、生徒は全学年で6人しかいませんでした。

校舎自体は、コンクリートの三階建て、体育館も25mプールもありますから、以前はそれなりに人がいたのでしょうが、危機的な状況です。

(この後も同様に複数の小中学校を回りましたが、少子化に加えて、産業の空洞化で世帯数が減っており、生徒数を伺うたびに過疎化の深刻さを感じてしまいました。)

現在のお祭りの運営も、地域外に出た人が戻ってきては、運営にしっかり参加しているのでしょうが、絶対数が足りなくなる可能性があります。

今年は残念ながら、悪天候のため中止になったとのこと。

そんな状況を考えると、「新居浜祭り」や「西条祭り」は異次元の運営かもしれません。

祭りの存在は、東予地域の少子化に歯止めをかけているような気がするのは、私だけではないはずです。


 

2024年10月5日土曜日

八角トンネル


最近はかなり有名になっているトンネルです。

実際に伺うと、輪切りのようになった八角形の構築物の隙間から、それぞれに光が差し込み、個々が緑色の光沢を放っているように見えます。

「エヴァンゲリオン」の情景にでも使われそうな近未来感があり、予想外の感激が沸き起こりました。

正確にはトンネルではなく、鉄路側面の切通の崩落を防ぐために築かれた補強構造物の連なりです。

そのために上部も塞がってなく、草むらになっていますが、おかげで独特の魅力を演出していました。

「熊延鉄道(ゆうえんてつどう)」という廃線の跡地で、熊本県の「南熊本駅」から東南に向かった「砥用駅」を結んでいました。

1912年(大正元年)に開業、1964年(昭和39年)に廃止されています。

自分が生まれる前にしては、保存が行き届いていると思います。

宮崎県の高千穂と結び、高千穂鉄道(これも廃線)を経由して、延岡まで繋がる計画でしたが、全く届きませんでした。

今日は旅の計画を細々と決めてないため、時間に余裕があります。

行けるとこまで行ってみることにしました。

このトンネルまでは、バイカーの見学者が数人いたのですが、奥まで進みそこから先は人がいなくなりました。

もともと28キロしかない路線なので、あと数キロ歩けば終点まで行けるかもしれません。

しかし、下の写真にある橋脚(第二津留川橋梁)まででした。

その気になったのに数百メートルしか歩けず残念です。

この手前で、歩道が川に向かう脇道になり、川まで行きましたが、渡れる橋はありません。

欠けた2本の橋梁が聳え立つのみです。

とはいえ、暑い日にもかかわらず、川のせせらぐ音を聞きながら、ボーッと橋を眺めて妙に安らげたのを覚えています。

フィーリングの良さを感じつつ、吹き出す汗が落ち着くころ合いを待って引き返した次第ですが、妙な納得感がありました。


 

2024年9月28日土曜日

阿弥陀堂



購入を決めた後、京都のショップに代車で向かいました。

入れ替え、この新しい愛車と、赴任先の山口県下関に戻りますが、週末でもあり中国地方の日本海側を地道で戻ることにしました。

道中立ち寄った鳥取市街で、「味噌だれホルモン焼きそば」を頂きました。

ビールも飲んでしまったため、駐車場にて車中泊し、早朝から活動を再会することにしました。

硬めの後部座席のシートはかえって寝心地良く、今までの長距離使用で、かなりへたってギスギス鳴るサスペンションの悪印象を、かなり払拭してくれました。

写真は、鳥取市の西方にある「湖山池」です。

開発の手があまり及んでないことから、水際をドライブしても、自然豊かに感じます。

丁度、この手前の丘に「阿弥陀堂」があります。

名称とは裏腹に、厳密には宗教施設ではなく、「鳥取民藝美術館」の別館となります。

同県での民藝運動に多大なる貢献をした「吉田璋也」が建てました。

その建物は湖を眺める窓が三面あり、そこから見える三つの島を阿弥陀三尊に見立てたことから、この名称を付けられたそうです。

実際に丘に登って撮影したのが2枚目の写真で、その脇からのアングルです。

拝観には予約が必要ですが、それ以前に早朝だったので、当然ながら閉まっていました。

建物は、国の有形登録文化建造物の指定を受けているそうですが、結構な痛みが目立ちます。

それでも霧雨のおかげで、それなりの味が出てましたし、下で待っている相棒の七難まで庇ってくれているように感じました。

天気は悪いですが、この車とはいい塩梅で旅が出来きそうです。
 

2024年9月21日土曜日

アルファ147


以前に取り上げた「マセラティ・クアトロポルテ」は、修理しようとしたのですが、不具合を起こした部品が調達出来ませんでした。

残念ながら、乗り始めて約1ヶ月での退場となります。

さすがのマセラティ・ワールド、魔界が待っていました。

ずっと欲しかった車であり、極めて程度の良い出物に出会ったことから、リスクの高いことを覚悟で購入したのですが、想定以上に早く、激しく奈落の底に落ちていきました。

良好と思われた自分の車運も、とうとう尽きてきた気がします。

でもあきらめ切れません。

長年お世話になっているショップと相談した結果、廃車になりそうな個体からの移植を、気長に待つこととなりました。

問題の部品(プロペラシャフト)さえ手に入れば、現世界に復活出来ます(?)

そう信じて、この車はキープしつつ、仕事するうえで必要な車の手当てをすることにしました。

想定外の破滅だったため、お金がありません。

超低予算の中で、ショップ顧客の下取り車から車を選ぶことにしました。

今までにない展開です。

結果、写真の「アルファロメオ147・ドゥカティコルセ」に決めました。

特別バージョンの限定車で、イタリアの名門バイクメーカー「ドゥカティコルセ」とコラボして意匠がデザインされてます。

ボディサイドには、バイクに使用されるラインが奢られています。

個人の好みとしては、サイドラインとかはあまり好みではないのですが、あえて選んでみました。

タイヤのホイールも専用デザインです。

黒いボディにはしっくりと似合ってます。

しかし、ここからは数回に渡ってこの車と旅した思い出を取り上げますが、本当に魔界の扉が開いてしまったみたいで、短いお付き合いでした。

忘れないうちに履歴を残そうと思った次第です。

次回から、西中国、九州を走り回るコイツとの旅のスタートです。


2024年9月14日土曜日

石舞台古墳


奈良を訪れても、意外にも行ってなかった「石舞台古墳」。

教科書級の歴史観光地なのにあまり気が向きませんでした。

しかし、よくよく考えると「飛鳥」は、日本国の初期の都があった地域です。

嫁さんの希望で、古代からある発酵食品の何かを食べに行った思い出はあるのですが、全くウロウロしてませんでした。

地図はよく眺めていたせいか、行った気になっていたことに反省です。

早朝から現地に近鉄電車で向かい、奈良盆地を南下します。

あらためて、東大寺や興福寺のある奈良市の中心街とは相当離れていることを実感します。

近鉄吉野線にある「岡寺駅」で下車。

そこから歩き始めましたが、朝からカンカン照りの上、盆地特有の蒸し暑さに、歩きだけでの行軍は難しいと判断しました。

道中でよく目にする案内板には、「橘寺・飛鳥宮・飛鳥寺・岡寺」等の表示があり、足を踏み入れたい史跡が、この周辺に数多くあります。

どうしようかと思いながら、「石舞台古墳」に歩を進めていると、レンタル自転車屋を発見しました。

もう少しで開店の時間だったので、少し待って借りることにしました。

アップダウンが多い地域なので、登りはきついのですが、下りはいい風に当たれて、歩きとでは雲泥の差です。

早いタイミングで店舗を見つけたことは極めて幸運でした。

先ずは、ウロウロしたい想定エリアの中で、一番外れている「石舞台古墳」に到着。

想像より小さいのにガッカリしました。

とてつもなく大きな石で築かれていると伺っていたので、バイアスがかかっていたようです。

それでも下の写真のように、石室に入れたのは、構造がわかって興味深かったです。

そもそも、何で「蘇我馬子」のお墓と言われるんだろう?

この地域はもう少し時系列の前後も含めて勉強し直す必要がありそうです。


その後は、ここが一番の高所にあるせいか、この後の史跡へは、スムーズに向かうことが出来ました。
 
興味深い史跡ばかりでしたが、知識不足なので勉強し直して、あらためて取り上げたいと思います。

嬉しいことに、この自転車は他の店舗で乗り捨て出来たので、更に南下して「天武天皇・持統天皇合葬陵」や「高松塚古墳」にも立ち寄りつつ、「飛鳥駅」で自転車を返却して帰途につきました。

今回、列挙した固有名称は、全部が教科書級です。

何でこんなに南の辺鄙な地域から、有史として明確にわかる時代が始まったんだろう。

わかっているようで、全くわかってなかった実感が強く残りました。

史跡巡り、自分でその場に立ってみることは本当に大事です。

足から頭に電気が走ります。

2024年9月7日土曜日

馬毛島


前週の流れから、同じく鹿児島県の「種子島」を取り上げます。

今回は仕事で来たのですが、以前に伺ったときの観光地としての雰囲気は一変してました。

ここで取り上げる以上、仕事中といえども、合間に旅情を織り込みたいのですが、中々厳しい展開でした。

種子島の西側に「馬毛島」という平坦な島があります。

写真は「種子島」本島の西の海岸線を撮影したのですが、水平線が少しいびつになっているのがわかるでしょうか。

これが「馬毛島」の稜線で、右側に船が隊列しているように島に向かっています。

なんと自衛隊の戦闘機を発着させる基地を作っているのです。

ただ、本島に宿泊施設が少ないため、多くの人が朝からの高速艇で、九州本土から向かいます。

私もその一人だったのですが、建設会社の技師達が作業着かスーツで、船に乗り込んでいて満席です。

朝の通勤風景と変わらない雰囲気で、手荷物の置き場にすら困りました。

比較的マッチョな方が多いため、余計に圧迫感があります。

サッカーの部室を思い出しました。

以前のデッキは、釣り道具が中心に置かれていたですが、それらに変わって工事用の大量の機材が持ち込まれています。

武器みたいで、物騒な雰囲気すら漂っていました。

次の写真は、取引先を訪問した際に、建設資材の運搬作業をしている光景です。

同型の船舶が、島に行っては資材を置き、戻っては更に積み込むという、ピストン作業を繰り返していました。

民泊に近い臨時の宿泊施設を急ごしらえしているものの、供給が追いついてないそうです。

鹿児島県に来る前は山口県で仕事をしてましたが、両県とも陸海空の自衛隊基地が揃っています。

職務の関係で、士官クラスとお話させて頂く機会があったのですが、中国が先島諸島にちょっかいを出してきた際、航空部隊は山口県の「岩国基地」か、天候が悪ければ神奈川県の「横須賀基地」から、わざわざスクランブルするのだそうです。

これに発生する人的・物的・時間的コストは半端なく、また騒音等の周辺問題もあるので、日本の台湾・中国方面の先端に当たるこの地域に発着場所が出来るのは、あらゆる面の防衛の効率化につながるとのことでした。

北海道の根室で、ロシア国境を眺めて以来の、国境を感じる海岸線の風景です。

これも旅情なのかな。


 

2024年8月31日土曜日

レッドバロン


「大師堂???」

奄美大島の企業訪問中に、その看板があったので、気になって指し示す脇道に入りました。

すぐに説明版を発見。

その横に生い茂った木々に埋もれるように石段があります。

確か奄美大島には、毒蛇のハブが生息してます。

無謀に分け入ることも出来ないので、先ずはチャレンジする価値あるものか判断しようと思い、説明文を読みました。

ところが、大師=弘法大師はこんな人みたいな説明をしているだけです。

石像があったので忘れられないように囲ってます、みたいな内容で要領を得ません。

ますます興味が募り、赤く塗られた手すりの先がどうしても気になります。

好奇心が勝り、行くことにしました。

雨が上がった直後なので薄暗く、頭上も木々に覆われて、洞窟のように感じます。

そのせいか、赤の手すりがやたらに目につきます。

途中に寺院跡のような空間もなく、50メートルも行かないうちに、写真の真っ赤な祠に行き当たりました。

そびえ立つような端正なデザインに、いい意味で期待が裏切られました。

子供の頃に観ていた子供番組「レッドバロン」を想起します。

番組タイトルの名称を持つ主人公ロボットに、どこかイメージが似ています。

周囲にハブがとぐろを巻いてないか気にしつつ、目に当たる窓をのぞき込みました。

頭がない石像が鎮座してます。

あきらかに「廃物希釈」の傷跡です。

鹿児島県は、幕末に藩の号令のもと、徹底的な「廃物希釈」が実施され、古い寺院の建造物が完全に消滅した唯一の県です。

ひょっとしたら島でも辺鄙な場所なので、五体満足な石像が残っているかな、と期待したのですが、ここでも徹底破壊されていました。

祟りか何かで、ここに祭らざるをえないような怖い事象があったのかとも思いますが、私のレーダーは反応しません。

ただ蒸し暑い中、階段を上ってきたのですが、不思議に汗が引いていて、ミステリアスな心地がします。

もうここに来ることは二度とないと思いますが、
鹿児島県の海域でもほぼ南端に位置するこの島で、一番のスピリチュアルな体験でした。

やばい企業訪問に遅れる。

2024年8月24日土曜日

石原裕次郎


しばらく前からですが、 昭和の大スターの記念館が閉館する話をよく耳にします。

昭和が終わってから30数年が経過し、自分が歳を取るのも当然ですが、それを認めたくない気持ちも強くなっている今日この頃です。

「美空ひばり」クラスでもそうなる現実に、世代交代の流れにあがらうことの難しさを痛感します。

写真の「小樽運河」は、初夏に訪れた際の一枚ですが、この近くの「石原裕次郎記念館」も同様に閉館しました。

個人的には、「石原軍団の記念館」といった視点でしたが、興味深い様々な小道具に惹かれてましたので、寂しい限りです。

このブログを書いている直前にも、「石原プロ」の解散と、その直後の「渡哲也」の訃報を耳にしました。

その段取りを感じる流れに、どう終わりにするのか、を痛感させられます。

仕事がら、物事を承継させることの重要性は、それなりに分かっているつもりですが、引き継ぎをどのようにすればうまく残るのか?逆に消えるのか?実際の事例を踏まえても、本当に難しいと感じます。

私事ですが、今年度から仕事が変わりました。

籍はあるのですが、一念発起して全く別の仕事にチャレンジします。

ここからの30年、第二ステージの始まりです。


2024年8月17日土曜日

お岩木山


青森県にある「お岩木山」です。

津軽平野にシンボリックに鎮座してます。

千葉から延々と車でやってきました。

目的は「津軽氏」関連の城跡を巡るためです。

もともとは、岩手県周辺を支配していた「南部氏」の一族です。

津軽方面を攻略すべく、「南部光信」が攻略司令官として派遣されます。

太平洋側の岩手県北部の海岸線にある「久慈」あたりが、もともとの所領です。

そこから下北半島を北上しながら、陸奥湾も越えて津軽半島を回り込み、日本海側の半島根元にある「鯵ヶ沢」付近に上陸しました。

はやい話が、青森県の海岸線を反時計回りに、端から端までです。

そこから内陸部の津軽平野を目指すのですが、とんでもない行軍指令です。

おそらくブチ切れたのではないかと。

私なら一族から見捨てられたと判断します。

彼の5代後に、有名な「津軽為信」が登場します。

秀吉の天下統一の過程で、本領安堵を認められて南部から独立します。

そのために裏切られた「南部氏」と、裏切った「津軽氏」の構図で、この両地域は大変仲が悪いと、私の勤める社内でも耳にするくらいです。

しかし経緯を知れば、見返されて当然かと思います。

下の写真は、「光信」が何とか津軽平野の端を押さえた拠点に築かれた「大浦城跡」の近くです。

ここからも「お岩木山」が展望出来ました。

行軍を開始した「津軽氏」の本拠地は、「鯵ヶ沢」から山間部に進んだ「種里城」になります。

その山中から更に進軍し、何とか獲得した最前線にて、この山が拝めたときは、相当なモチベーションのアップに繋がったと思われます。

領地の魅力度向上に一役買っている山です。

そう言えば、その際に通った鳥居、何でこんなに低いんだろう。

通るのギリギリでした。




 

2024年8月10日土曜日

パレルモ


旅程が前後しますが、最後の夜はシチリア州の州都である「パレルモ」に宿泊しました。

ここはさすがの大都会で、新年早々でも食事出来る店が開いてました。

旅費の内訳でも、今までの経緯から食事代は相当浮いています。

その分奮発して、地元の魚介料理やシチリアワインを堪能しました。

旅程を無事にこなした達成感も手伝ってか、相当夢心地に酔っ払った次第です。

ホテルへの帰りに、写真の「マッシモ劇場」の前を通りました。

正月用と言いますか、新年用に飾り付けされてます。

円柱下辺りの暗い部分が正面階段で、そこの登り降りをしたかったのですが、飾り付けの関係で閉鎖されてました。

ちょっと惜しいです。

この階段は、映画「ゴッドファーザー・パートIII」の最後、シリーズを通じての最後のクライマックスの舞台となりました。

主人公マイケルの娘が撃たれるのですが、その娘の配役が残念でした。

なんと監督「フランシス・コッポラ」が自分の娘を起用したのです。

その前に実妹を、マイケルの妹役に起用してますが、この方はいい味出してました。(「ロッキー」のエイドリアン役の方です。)

二匹目のドジョウを狙ったのでしょうか、大失敗だったと思います。

親バカのそしりを受け、シリーズの中では駄作の扱いです。

自業自得で降板となりましたが、本来は「ウィノナ・ライダー」でした。

好きな女優が、イマイチな方になったので、勿体ないの二乗となってしまいました。

これも、映画全体を通じて表現されている〝無常〟なのかもしれません。

ともかくシチリア旅行は明日で終わります。

店が空いてないので、地域の珍しいモノを探す選択肢がなくなり、物欲は早々に消えました。

食事も旨い料理を探すどころか、ありつけない日々の連続で、ドライブばかりの旅となりました。

その分、素晴らしい景観と人々の有り様のみに、集中出来たと感じます。

田舎臭くてもカッコいい。

そんな親父が目につきました。

根暗が寡黙に、それが渋さに昇華してます。

某ファッション雑誌にて、いつも表紙を飾っている方とは、同じイタリア人でも対極です。

イタリアの北と南の違いとも言えます。

これからの自分の師匠になるのは、やはり南かと。

死んだとき、〝こんな爺いがいたね。〟と多少なりとも存在感が残せるのが本望かもしれません。


2024年8月3日土曜日

天空の景色


前回取り上げた空中都市「エリーチェ」に向かう途中に撮影しました。

風景画を抜き出したような写真の背景です。

ティレニア海を背景に、どこまでも続いていく奥行きに感動しきりでした。

おそらくもう来ることはないはずです。

〝一期一会〟を実感し、自分の目に焼き付けつつ、この瞬間が何とか収められないかと、シャッターを押しました。

シチリア島一周は、3泊4日の強行スケジュールでした。

しかも年末年始。

日本と違って、買い物が出来るような店は空いておらず、日中の食事にも困りました。

ホテルの朝食を多めに分けてもらい、りんごとか齧りながら飢えを凌いだ次第です。

その分、ドライブ中の景観には、取り分け集中出来たと思います。

シチリア島はかなりアップダウンが激しい分、起伏に富んだ景色に出会えて、サプライズの連続でした。

そのとき気が付いたのですが、眺望の良い道には木がないことです。

日本は観光名所でも、展望台以外は木々が邪魔して、運転中はあまり景気を楽しめないことが多い気がします。

その点イタリアは、道路計画上そうしているのか不明ですが、ドライブ中に常に風景が視界に入ってきました。

ヨーロッパの映画を観て、取り分け景色が素晴らしいと思うのは、そんな理由からかもしれません。

環境問題がどうこうとあるかもしれませんが、日本も魅力的な道路作りを考えるうえで、一考の余地があるかもしれません。


 

2024年7月27日土曜日

エリーチェ


写真をご覧下さい。

これほど美しい石畳を観たことはありませんでした。

現時点ですが、自分の世界No. 1です。

おそらく超える存在はないと思うくらい衝撃でした。

日本に帰る最終日の早朝に、無理して向かった甲斐がありました。

ここは、空中都市「エリーチェ」と呼ばれる町で、そのメインストリートになります。

(すみません。ここでブログのアップが途切れてました。以下は追加の文です。)

尾根の頂上に近いところ、標高751mの場所に築かれており、一辺が700~800mほどの正三角形に収まった市街地になっています。

地元の新居浜と比較すると、別子銅山跡地の「東平(とうなる)」ほどの高さだなと、勝手に想像して親近感を覚えました。

町の規模は小さいので、一通り外周の三角形を散策することにしました。

町の入り口となる「トラーパニ門」は、左隅のポイントで一番の西側になります。

その近辺に車を停めて、門から眼下の景色を眺めましたが、真下にある都市「トラーパニ」と、その先に拡がるティレニア海がよく見渡せました。

高地だけに、一段と気温が下がっていますが、そのぶん空気が澄んでいるおかげかと思います。

そこから南側の一辺を進み、右隅のポイント(一番東側)に鎮座する、下の写真「ノルマン城」に向かいました。


もともとは、古代ギリシャ人が築いた要塞都市ですが、12~13世紀にノルマン人がやってきて、ヴィーナスに捧げた神殿跡に築いた城だそうです。

ギリシャ文化を地中海世界に拡げていったギリシャ人や、ノルマン人のヨーロッパへの侵入など、世界史の教科書で習う出来事です。

それらが、イタリアにある南の島まで影響を及ぼしていたのを、ここに立つことで強く実感出来ました。

町でも一番の高所となり、そこからは山側の景色なのですが、山々は展望のかなり眼下にあり、その先のシチリア島の輪郭と地中海が拝めました。

もっと天気が良ければ、アフリカのチュニジア(つまり、カルタゴの本拠地)も望めるそうですが、それは叶いませんでした。

ここは、カルタゴの配下ににもなっています。

歴史的な展望、景色も含めて全てが圧巻でした。

今回の旅行で、新たな好奇心を呼び起こす、一番の拾い物と感じた訪問地となりました。