2025年3月8日土曜日

「Dr.コトー診療所」の島



少し前に取り上げた「甑島(こしきしま)」です。

一番南端になる「下甑島」の海岸線の写真ですが、伺ったのは3月初旬にも関わらず、早朝は荒れていた天気も回復し、夏のような雰囲気が漂っていました。

鹿児島県でも西部沖合の島嶼部まで行ってしまうと、九州本土とかなり気候が異なるように思います。

丁度、昼時だったので近くのカフェにて食事を頂きましたが、入り口近くに「Dr.コトー診療所」作者の直筆サインが飾られてました。

お店の方に伺うと、実際に来られて取材されてたそうです。

Dr.コトー、実はこの島での診療に孤軍奮闘されたお医者さんがモデルなっていて、漫画の景観には何となくここの風情が漂っているような気がしました。

しかしテレビ版のロケ地は、沖縄県の「与那国島」で、ここではありません。

地理的には、沖縄本島よりも台湾の近くになります。

絶海の孤島であり、撮影のアングルを効果的にしているのでしょうが、漫画と比較するとテレビ版は、背景の海が強く迫ってくる印象を持っています。

ここに来て意外だったのは、下の写真の通り武家屋敷であったことです。

江戸時代の薩摩藩は、全地域を管轄するうえで、地方の行政・軍事を一体化させた行政単位である「外城(とじょう)」を、100余りも設けていました。

一般的に武士は城下町に住みますが、薩摩藩においては「関が原の合戦」で領地が削られた後も、武士の数を減らさず「外城」内にて、半農状態で多くが生活してました。

更に、「外城」内にある、行政・軍事の中心となる武家屋敷群を「麓(ふもと)」と呼びます。

鹿児島県内には、今も生活基盤のまま、12の「麓」が史跡として保存されていますが、そのうちの2つが「甑列島」にあり、「上甑島」の「里麓(さとふもと)」と、ここの「下甑島」の「手打麓(てうちふもと)」になります。

家はかなり建て替わってますが、当時の石積みの塀はそのままで、直線での区割りは如何にも城下町の佇まいです。

コトー先生が、城下町に住んでいたのは、不思議な感覚がします。

 

2025年3月1日土曜日

霧島連峰


異動の内示が出て、鹿児島を一年で去ることになりました。

残り一か月。

仕事は山積みですが、週末は時間が許すかぎりドライブすることにしました。

候補を思い起こすと、真っ先に「霧島連峰」が浮かびました。

連峰の南側に位置する「高千穂峰」は、「霧島神宮」の古宮跡が麓にあるため、その流れで行ってますが、連峰の中で北側にあたる「韓国岳」へは行ってきません。

連峰の中で最も標高が高いのですが、頂上近くを通るルートがあります。

ちなみに「韓国岳」は、「からくにだけ」と読みます。

「かんこくだけ」と言い間違えると、鹿児島の人に怒られると、よく飲むお店の大将が言ってました。

天気が良いときには朝鮮半島が見えるのでこの名称がついているそうですが、高いといっても1700mしかありませんし、有毒ガスも出ていてそもそも展望出来るのかと疑問に思いました。

もっと別の理由があるような気がします。

写真は、「えびのスカイライン」に入り、「韓国岳」が正面に見えるポイントで撮影したものです。

本当に頂上近くでビックリしました。

3月第1週に行ったので、雪が積もっていても当然の季節ですが、晴天が続いていたためか道路上には雪が全くありませんでした。

やはり振り返ると、鹿児島が今まで住んだ中で一番温かかったです。

しかし恐ろしいのは、このスカイラインを往復した際に、いたるところに煙が噴き出していました。

山の周囲に漂う白いものは雲ではなく、吹き出したガスの塊です。

窓も空調もクローズしているのですが、それでもかなり硫黄らしき匂いが車内に漂ってきて、おっかなびっくり走りました。

それでも、突き抜けるような青の空が迫ってくるのをわき目に、薄茶色の岩肌を走り抜けていくドライビングは快感の極致でした。

嬉しいことに誰もおらず、景観の独り占めです。

ひとしきり満喫して帰路につきましたが、オールシーズン走っておけば良かったと、あまりの気持ちよさに更なる欲が沸き起こりました。

しかし、レンタカーではなく愛車で走りたいし、大阪からここにドライブ行くのは、相当厳しいなあ。

 

2025年2月22日土曜日

夜景サミット

 

山口県東部に位置する「周南市」の船上からの工場夜景です。

市町村合併で名称が変更になっているのですが、「徳山駅」界隈が中心市街地になります。

工場夜景に萌える方々がいるのは知っていましたが、その夜景に自身のある市町村が「夜景サミット」なるものを運営しているのは、ここに来て初めて知りました。

当時は13の市町村が加盟しており、持ち回りでサミットの開催都市になるらしいのですが、たまたま勤め先とこの市が「包括連携協定」を結ぶタイミングで、この市にお鉢が回ってきました。

その協定担当者だったので、目玉としてサミットのスポンサーになることにしたのです。

しかし時期はコロナの真っただ中で、市役所の方々と準備した様々な行事もことごとく延期・もしくは中止に追い込まれました。

サミットもオンラインに変わってしまい、来賓の自分すらモニター越しでの参加です。

ただ夜景見学のクルーズ運行は実施されることになり、乗り込んで撮った写真なのです。

2月の真冬にも関わらず、密閉を避けるため窓を開放しての出航です。

寒いことこの上なく、直に風に当たると涙と鼻水が止まりませんでしたが、そのせいか夜景の光が余計にまばゆく映りました。

切ない展開でしたが、ちょっと美しい体験でした。

「マッチ売りの少女」ってこんな感じだったのかなあ。

下の写真が、乗船したクルーズ船です。

うろ覚えですが、世界か日本に2隻しかない「水素船」の1隻らしく、動力エネルギーは「水素」です。

国から一定期間借りているとのことでした。

駆動についての説明も乗船中に受けたのですが、船独特の油臭い匂いはなく、静かでモーターみたいな回転音がわずかに聞こえただけでした。

風の音と、寒さで感覚がマヒしていたせいかもしれませんが、日本勢が開発している「水素エンジン」の自動車は期待できると直感的に思いました。

今振り返ると荒行のようなイベント参加も、貴重な機会だっと思えるから不思議です。


2025年2月15日土曜日

矢田の渡し


島根県松江市の市街地東部にあり、「宍道湖」と「中海」を結ぶ「大橋川」を横断するための渡し船です。

「出雲風土記」に渡しがあったと記録されていて、それを起源にすれば奈良時代から続いていることになります。

住んでいるときに乗ることはなかったのですが、その後訪れたときに是非乗っておこう思い立ちました。

当時は平日の午前7~9時のみ、所要時間約1分、料金は40円でした。

北岸が拠点となっていて、南側からの利用者は渡し場にある赤い回転灯を点けて船を呼ぶ仕組みでした。

写真は、呼んでいる間に車を撮っていたらうまく背景に収まった1枚です。

南岸から北岸へ、再び車のある南岸へ、往復料金80円でした。

そのとき乗ったのは私一人で、正直やっていけるのか不安になりました。

実際、2014年から休航しているそうです。

確かに、松江市南北を結ぶ橋は増え続けていて、とうとう高速道路もかかりました。

立地が良い場所でもないので時代の流れと言えばそれまでですが、奈良時代からの運行が終ってしまったと伺うと、このとき乗ったことは大いなる記念となりました。

松江の冬らしいどんよりした天気は、景観を灰色に染めてしまいます。

そのときの渡し船から眺めたみぞれ混じりの大橋川は、水墨画の中を進んでいるようで非常に美しかったです。

古代人も眺めたであろうあの景色は、橋からは観ることの出来ない景色なんだと、ブログを書いていてあらためて思い出しました。


 

2025年2月8日土曜日

大陰陽神石


いきなりのセクハラ写真すみません。

以前、テレビ番組の「チコちゃんに𠮟られる」でも放映されていました。

NHKの審査も通っているため、ここでの取り上げもお許し下さい。

ぱっと見ると、そそり立つ「陽石(男石)」が目に焼きついてしまいますが、根元の左側にちゃんと「陰石(女石)」も、うまく合体出来そうなサイズでちゃんとありました。

そのため「大・陰・陽・神石」となります。

鹿児島県境に近い宮崎県小林市にあり、山間部の辺鄙なところですが、江戸時代でも全国区で知られていたそうです。

童謡詩人で有名な「野口雨情」もここを訪れて歌を詠んでます。

「浜の瀬川には二つの奇石 人にゃ言ふなよ語るなよ」

この方、「十五夜お月さん」や「赤い靴」が代表作にありますが、私生活はなかなか破天荒だったようです。

今後、歌人や詩人の人生をいろいろ勉強してみたいと思います。

ここまで立派だと、当然ながら子宝信仰の対象になりました。

鳥居があるのも納得です。

更にすごいのは、この角度だけでなく完全に円柱型であり、どこから見ても唸るものがあります。

詳細はこれ以上言えませんが、細部にわたってリアルなディティールがまだまだあるのです。


ちなみに最後の写真は、ここの「お地蔵様」らしいです。

神社の造形物のほとんどが子宝に関連している意匠となっており、こだわりがすごいのですが、奥にあった博物館のような館以外は無料でした。

結構な観光客が来ていたので、有料化して地域貢献に役立てたらいいのに。

ただ、前宮崎県知事の東国原氏が「宮崎県観光遺産:生命発祥の聖地」に指定されたそうです。

元「たけし軍団」、さすがに見逃しませんね。

2025年2月1日土曜日

DMVの駅


写真は、「DMⅤ(デュアル・モード・ビーグル)」の乗り場になる「甲浦駅(かんのうらえき)」です。

白いガードレールに沿って、スロープのような道路を上り下りして、線路に合流します。

この駅は徳島県にあり、室戸方面に向かう「阿佐海岸鉄道」の終着駅であり、以前に鉄路全線制覇のため訪れていました。

そのときは、線路が高架のまま終点となるために駅のホームが高い場所にあり、長い階段を下りて改札口を出たのですが、辺鄙なローカル線とは思えない不思議なゴールだったと記憶しています。

その高架で線路が終わった場所に、道路のスロープがくっついたんだと、ここを訪れて道路と鉄路の連動する構造がわかりました。

今では駅の体裁も変わってしまったため、「МIC(モードインターチェンジ)」という名称までつけられています。

今回は、その仕組みが知りたくて四国のほぼ最東南端に来ました。

以前のブログで取り上げた「神護寺」に母親と途中で立ち寄り、時間がかかってしまったため、高知県から「室戸岬」に近いルートを経由して、何とか夕方に間に合った次第です。

後回しになりましたが、そもそもの「DMⅤ」の説明をします。

下の写真に登場している「道路」と「鉄路」の両方を走ることが出来るバスみたいな乗り物です。

3台配備されており、それぞれが色に合わせた固有名称を持っています。


「道路」を走るときは、普通の自動車と同じです。

タイヤのついた4輪で走行するのですが、線路に侵入する際には、車体下の前後から鉄車輪が出てきてレールに合わさり、そのまま「鉄路」を走ることになるのです。


次の写真が、気になっていたスロープみたいな道路と線路のつなぎ目です。

その先には、私が降りたことのある駅フォームがありますが、今はスロープを上がる手前が停車場になっていて、乗降に使用されておらず閉鎖となっています。

バスのように乗降するため、フォームの高さではバスの出入口と合わないので仕方がないのですが、往時の長い階段も残っていて、乗り鉄としては少し寂しいです。

この後、予定時刻にDMVがやってきてくれて、道路用から線路用にモードチェンジする動画もしっかり撮れたのですが、テンションが上がりすぎて静止画を撮るのを忘れてしまいました。

今回はここで終わりにします。

今度は乗車したときの状況を取り上げたいです。

今日、飲み会があるの忘れてました。

急いで壬生川に帰らないと。
 

2025年1月25日土曜日

大谷サンの兜


直近までいた鹿児島は、自分の行き先の希望もあって1年で離れることになりました。

「明治維新」を専攻していた身としては、もう少しここに住んでいたかったのですが、やむなしの状況です。

それでも、赴任前から何回も来てましたし、この1年間も暇さえあればウロウロしてましたので、しばらくは「鹿児島県」を多めに取り上げたいと思います。

ここは、「甲冑工房丸武(丸武産業株式会社)」の駐車場です。

言わずと知れた「エンゼルス・大谷選手」のホームランセレモニーにて使用された兜を作っている企業です。

鹿児島県北西部の薩摩川内市にあり、市街地から離れているので古風な雰囲気をイメージしていたのですが、良い意味で期待は裏切られました。

オリジナル鎧も含めた個々の需要にも応じているそうですが、ドラマ・テレビ・CMで使用される数多くの甲冑作成がメインで、大規模に製造を手掛けてました。

大きな櫓のある長屋の奥は、甲冑のテーマパークになっており、工場見学・展示拝観・着装イベント・お土産・お食事と、甲冑に関してなんでもござれの対応をされています。

インバウンド対応もぬかりないようで、エミー賞を多数獲得した海外ドラマ「SHOGUN将軍」の影響もあって、更に大きな需要が生まれる気がしました。

これからは、世界を見渡しても唯一無二の観光施設として認知される場所が大きく発展していくように思います。


 下の写真は、テーマパークの入り口ですが、時間が早すぎて入れませんでした。

自分の甲冑を、自分でデザインして作ってもらうと楽しいかも。

いくらかかるか問題ですが・・・。

2025年1月18日土曜日

桜島の海岸


錦江湾から眺めた「桜島」です。

時期は年末で、一番寒い日でした。

午前中は雪も降っていて、この山が雪化粧した美しい姿も拝めましたが、やむと数時間で地熱のため雪は消えてしまいます。

さすが現役バリバリの活火山で、火口の右側からいつも煙が吹いています。

鹿児島には一年しか住めなかったのですが、この山がどれだけ愛されているか、地元の方とお話をするたびに伝わってきました。

鹿児島県の中心に位置し、その周囲のほとんどを「錦江湾」が取り囲んでいます。

同じ海辺に浮かんでいる景色でも、360度で山の見る方角が変わるため、その地域ならではの様相で描かれたモミュメントを探すのが、訪問先での密かな楽しみでした。

この写真は、山から見て西北に位置する海岸線で、「磯庭園」があります。

家族がちょうど来ていたので、そこを見学した後、近くにある本命の食べ物屋に向かいました。

平たいお餅をしっかり焼いて、みたらしをかけた「じゃんぼ餅」という名物があり、その名店が海辺にあったので、それを食した後腹ごなしに向かったのです。

朝から寒いままですが、いい天気です。

意外と人もいて、右手には青春全開らしき女子高生達が石を投げながら何かを叫んでいました。

写真の通りで、ドラマでなく実際に観たのは初めてです。

また左手には映ってませんが、海洋調査らしきスエットスーツを着たおっさんの集団が、酸素ボンベを背負って、スタスタ海に歩いていきます。

そのまま海に消えていったので、ちょっと怖くなりました。

家族も負けまいと思ったのか、「アーシング」をすると言って、裸足になって波打ち際を歩き出します。

私は遠慮しました。

靴が砂で汚れるのも嫌だったので、遠巻きに人々の動きと、山を借景にボーっと眺めていました。

きれいな海なのですが、この混沌とした光景に「ガンジス川の沐浴」が頭に浮かびます。

この後は、案の定体が冷えたのか、震えが止まらないとか、お腹が痛いとか、大騒ぎです。

大地からエネルギーをもらう前に「アイシング」してしまったら何にもなりません。
 

2025年1月11日土曜日

神峯寺


真夏のように陰影がくっきりとした写真ですが、新年の写真です。

正月、母と二人でいたときに、室戸方面へのドライブ予定と告げると、私も連れて行けとなり、二人で出発することになりました。

私は、室戸岬を回り込んで徳島側まで行き、鉄路も道路も走行可能な鉄道車両「DMV」を見たかったのですが、母は四国八十八か所巡りの寺に行ってないところがあるらしく、道中でこのお寺を指定してきました。

「四国霊場 第二十七番札所 竹林山 地蔵院 神峯寺」

海岸を走る道路から、看板が示す山側に左折して向かいましたが、ここからの山道にビックリしました。

東予地方にある札所のイメージのせいか、脇道入ればすぐの場所と勝手に考えていたのですが、かなりの坂道が続きます。

お寺が近づくにつれ、更に勾配がきつくなり、人用の登山道を車幅分に拡げたような状態です。

ハンドルを延々とジグザグに切りながら上がっていきました。

途中で、徒歩のお遍路さんを何人か追い越しましたが、本当にここまで登ってくるのでしょうか。

車もオートマ車だったのが幸いでした。

マニュアル車なら、ここでの坂道発進には、相当痺れたと思います。

写真は何とか到着し、境内の石段から太平洋を臨んだ景色です。

冬とは思えないくらいの快晴で、遠くまで太平洋が見通せます。


また珍しいと思ったのは、寺院の山門と鳥居が並んで建立されていることです。

明治になる以前は普通だった「神仏習合」の形態がそのまま残っています。

石段の様式まで異なるのに仲良く並んでいて、思わずホッコリしてしまいました。

対照的な話ですが、このときに単身赴任で住んでいた鹿児島県は、江戸時代に明治維新の原動力となった薩摩藩です。

明治初期に「廃物希釈(はいぶつきしゃく)」が徹底された地域で、古いお寺は完全消滅して、全て神社になっています。

見かけた石像もすべてが首から割られていて、神道を主体とした新国家体制を推進するエネルギーの凄まじさを見せつけられる心地がしました。

そう思うと、ここにはそこまでのハレーションが及ばず、自分達の共同体によるペースで生活が維持出来たのかと推察します。

神社の石段が、お寺よりも急勾配になっているのが示す通り、お寺の上方に「神峯神社」があるので、記帳している母を残してそのまま上っていきました。

古びた本殿も趣があって良かったのですが、更に上方に展望台がありました。

どこまで上がるのかと思いながらも、ここまで来たらと頑張って進みました。

その展望台からの景観が、以下の写真です。


室戸岬に向けての一枚ですが、山々よりも一段と高い展望台なので、360度見渡せました。

扇形の高知県の地形は、「鶴翼の陣」で太平洋と向き合っているのが分かります。

やはり南海トラフ巨大地震は怖いです。

今年も良い年になる気がしましたが、大幅に時間がかかってしまい、室戸方面での目的達成は困難になったと、ほぼあきらめました。

待たせていた母にも叱られました。

2025年1月4日土曜日

曜変天目


昨年は開店10周年を迎え、リニューアルした年でした。

運営の中心を母から妹へと、少しずつ軸足を動かしていくことになりました。

同じ場所で長くやっていると、内外の様々な変化を受け入れていかなければ、そのままではいられないことを痛切に感じます。

冬旅の話になりますが、写真は「甑大橋(こしきおおはし)」です。

鹿児島県の西部沖合にある「甑列島」の島々をつなげる橋で、1,533mの長さは県内で一番だそうです。

またあらためて取り上げるつもりですが、「Dr.コトー診療所」のモデルとなった島です。

九州本土からフェリーに乗って、1時間15分ほどで、北端にある上甑島の里港に上陸。

あっさりした旅程ですが、大荒れの天気で船は揺れに揺れました。

生まれて初めて、船酔いを経験しました。

そこからレンタカーで南端を目指して走ります。

この橋は、中甑島と南甑島を結ぶ橋であり、南甑島側にある展望台からの撮影でした。

高波によって岩礁が生み出す砕けた波の文様が見事でした。

海の澄んだ青色に浮き出る様は、「曜変天目(ようへんてんもく)」のようです。

茶碗の紋様の話で宇宙とも形容されるのですが、岩礁が斑紋となってその周囲を白波が弾けます。

更に外周海面が激しい高低差で動くことで、海の青色が漆黒から紺碧に、そして瑠璃色にまで、多様に繰り返して変化していくのです。

手に取った器を鑑賞するような心地で、しばらく見惚れてしました。

詳しくはわかってないのですが、鉄質黒釉のかかった陶器を「天目茶碗」と呼ぶようで、その最高峰に「曜変天目茶碗」が位置するそうです。

中国の宋で焼成されたそうですが、現存は世界に3碗のみ、全てが国宝に指定されて日本にあります。

日本にあるおかげで3碗とも拝みに伺ってましたので、こんな見立てをしてしまいました。

変化を受け入れるということは、自身も変化していくことで、形が整うのかと思います。

長年お越し頂いている常連様からすれば、勝手が違うと思われている方もいらっしゃると思いますが、「デルタカフェ」らしさを続けていくための挑戦だと、温かい目でお付き合い頂ければ嬉しい限りです。

変えるからこそ、変わらないものが残る。

そんな店でありたく、今年もよろしくお願い申し上げます。


天候が回復してきました。

帰りは、船酔いにならずにすみそうです。