2022年12月31日土曜日

半泊教会(はんとまりきょうかい)


最初に訪問した「福江島」に戻ります。

写真のログハウスのように見える教会は、島の最北東部、ひっそりとした浜辺にあります。

細い山道をおそるおそる進み、何とかたどり着きました。

丁寧な標識がなければ、迷ったと思い、あきらめてしまうところでした。

ここの「半泊」という地名も、数家族が九州本土の「大村領」から逃れて、ココに土着しましたが、土地が狭かったため、その半分しか住むことが出来なかったことに、由来するそうです。


周囲を囲む石垣は、華奢な教会を台風から守るために、後から築かれたそうですが、朝焼けに映えて、城好きにはそそるものがあります。

長崎県のカトリック教会を、数多く建築した大工「鉄川与助」が、ここも手がけました。

そのためか小さいながらも意匠がしっかりしています。

地元の方に伺えた話ですが、「潜伏キリシタン」と「隠れキリシタン」の表現には、区別があるそうです。

「前者は、江戸時代を通じた禁教期間に潜伏した教徒」を指し、後者は「禁教が解かれた後も、本来のカトリックに戻らず、独自に変容した信仰をそのまま続けている人々」に区分されるようです。

確かに約250年も、周囲から情報を得ることもなく潜伏していれば、本来の教義を維持するのは難しいと思われます。

今、自分が眺めている朝日も、「主」と一緒に毎日拝んでいれば、独自の超常的な何かが、普通に加わっていく気がします。

一個人にとっての「信仰の在り方」って、他人が強要できるものではないと、しみじみ考えさせられました。


2022年12月24日土曜日

旧五輪教会


「五島列島」の教会を訪問しようと思ったきっかけは、写真の「旧五輪教会」に「教会守」として都会からやってきた方の記事を読んだからでした。

「久賀島」という小さな島にあり、前回の「奈留島:江上天主堂」とセットのツアーで伺いました。

ユーチューバーの二人組も一緒で、順番的にはこちらの訪問が先でした。

もともとはこの島の中心地にある「浜脇教会堂」が前身です。

その改築に伴い、解体された旧教会堂が「五輪地区」に移築されたため、この名称になったそうです。

教会堂としては長崎県で2番目に古いそうで、国の重要文化財の指定と、集落として世界遺産にダブル認定されています。

向かう道中は細い悪路で、最初に計画した自転車による訪問を選択しなくて大正解でした。

車もたどり着けず、最期は海岸線を徒歩です。

物資は海路からしか運べない集落と思われ、きれいに保存されているのが、奇跡の佇まいでした。

先ほどの「教会守」の方の説明で中に入りました。

今は教会として使用しておらず、神様がいた跡なので撮影は可とのこと。

イエスを抱いたヨゼフ像が印象的でした。

素晴らしい木造建築の内部ですが、一部ビニールシートを貼ったところがありました。

先週の台風で受けた被害らしく、修復が大変だとの「教会守」の方の話でした。

都会からやってきた今の感想を伺いたい思いに駆られましたが、余計なお世話と重い控えました。

何やら偲びがたい空気が強く印象に残る訪問でした。


背後からのアングルが素晴らしいです。


イエス様をヨゼフが抱いている像です。

十分神々しい出で立ちでした。

2022年12月17日土曜日

江上天主堂


五島列島へ、実際に訪問してわかったのですが、世界遺産認定されている教会は、中心の島である「福江島」にはありません。

味わいのある教会を数多く満喫しただけに、該当がなかったことにビックリです。

周辺の小さな「奈留島」にあり、一般の船便では時間調整できなかったため、ツアーを申し込みました。

なんとユーチューバーの二人組と一緒でした。

韓国アイドルみたいな若者が喋り、機材を持った若者が撮影する役割分担のようです。

島に渡り車に乗り込んで、島の周囲を北東方面に回り込むように進んで到着。

写真の通り美しく、とてもかわいい教会でした。

漢字の表記と水色の窓枠のバランスが何とも言えません。

イカっぽい造形で、白ベースなのも面白味が増します。

さすが世界遺産認定といいますか、華やかさが今まで訪れた教会とは別格でした。

インスタ映えするとは、こういう教会のことなんだと、ロケっぽく動き回っているユーチューバーを眺めながら妙に感じ入った次第です。

管理人がいて、中の見学は出来ましたが、神域のため撮影はダメでした。

過疎化のため信者が激減しており、定期的に他から司祭がやってきて、ミサをしているそうです。

世界遺産認定の対象も、教会単体ではなく「江上集落」として包括されているとのこと。

そう伺うと、眼前に広がる原っぱは、昔はどうも町だったようです。


人が減り、布教対象がどんどん消えている現状に、侘しい気持ちになりました。

道中、少しだけユーチューバーの二人組と話をしました。

何と機材を扱っている方は、バリバリのクリスチャンでした。

消えゆく光景を残すことも、訪問した目的の一つと伺い、むちゃくちゃ感心してしまいました。


2022年12月10日土曜日

ランチアデドラ

 
「デルタカフェ」に鎮座している「デルタ」は80年代半ばから90年代前半に製造された時代の車です。

その同時代の「ランチア」ブランドにおける中型セダンのラインナップとして写真の「デドラ」があります。

変な名前です。

おそらくイタリア語の発音ならカッコいいのかもしれませんが、カタカナ発音になるので「カッパ」や「テンプラ」なんてもっと「?」な車名も過去にはありました。

これも売れない理由の一つかもしれません。

車検の代車なのですが、ずっと乗りたかったので超ラッキーでした。

一度検討したことがあったのですが、よく壊れるのと、当時の年齢だとデザインが渋すぎたため、購入には至りませんでした。

でも時代を経た今ならしっくりきます。

性能では特筆すべきものは何もありませんが、造形にはイタ車独特のエッジがじわりと効いています。

日本でよくイメージされる「派手な」イタリアではなく、日常生活における「素朴な」イタリアが体現されています。

ここが自分にとって一番の車ツボで、「ランチア」が好きな理由なのかと実感します。

普段使いで気に入ってしまい、翌週返却予定だったのに、結局返したのは一ヶ月後でした。

ディーラーの方すみません。

2022年12月3日土曜日

奥三河


今は高速道路の「第二東名」が開通し、利便性は上がりましたが、それまでは訪れるのに相当不便な地域でした。

鉄路も多くの「秘境駅」を抱える、スーパーローカル線「飯田線」が通るのみです。

しかし昔は「信濃国」と「三河国」を結ぶ道筋であり、「武田氏」と「織田氏」が覇権を争う地帯でした。

写真は、その主戦場になった「長篠城」に向かうとき、寄り道した写真です。

他にも歴史に登場する城が多くあり、城好きには外せない地域でもあります。

一度で回りきれないため、何度かに分けて訪問しましたが、食事する店がなかった記憶が強く残っています。

このときも、いい天気でしたが紅葉も終わりかけの時期で、結構寒くなっていました。

確か自販機があったので、持ってきたカロリーメイトと缶コーヒーで休憩しました。

山と空を眺めながら、「空っぽ」な感じを満喫したのを覚えています。

この界隈で有名な「鳳来寺山」に行っていないので、また訪れたいと思います。

今の年齢で、写真の時の感覚を呼び起こせるのかわかりませんが、カロリーメイトは必ず持って行くつもりです。
 

2022年11月26日土曜日

本阿弥光悦の庭


京都の「本法寺(ほんぽうじ)」にある庭です。

日蓮宗のお寺で、近隣にも同じ宗派のお寺が集まっています。

加えて、茶の湯「裏千家」の本宅を含めた関連施設に囲まれており、寺内町のような雰囲気が漂う独特な区域です。

「三巴の庭」と呼ばれるこの庭は国の名勝に指定されていて、作庭者はなんと「本阿弥光悦」です。

池と思われる囲いの石組みに、エッジが効いている感じは如何にもですが、周囲とのバランスを考えると、どうにも空虚です。

そもそも底が浅くて水もなく、本来どんな風に使っていたのか謎です。

「光悦」自身がここに座り込んで、刀でも研いでいたらカッコいいと妄想しましたが、さすがにお寺でそんなことするとも思えません。

往時とは随分違っているのかもしれませんが、何を表現しようとしているのか、謎を突き付けられたような感覚を受けた状態で、見学が終わってしまいました。

その代わりに「長谷川等伯」の「大釈迦涅槃図(重文)」を順路のラストに拝むことが出来ました。

こちらは2階から吊るすくらい大きく、わかりやすい構図で、見応え十分な迫力に感動しました。

でもスッキリしません。

水と油を一緒に飲んだようで、またリベンジのため性懲りもなく再訪しそうです。

2022年11月19日土曜日

元寇跡


「下関」に有名なゴルフ場があります。

かなりの名門で、服装とかも細かい指定があります。

ミスショットしても打ち直しのみで、前進出来る救済ルールの類はなし。

移動も乗車可能な電動カートはなく、歩きのみです。

下手な自分は無事に帰ってこれるのかとドキドキしながらラウンドしました。

スコアは相変わらずでしたが、天気にもメンバーにも恵まれて、自分にしては少し優雅な気持ちでプレー出来ました。

海岸線に沿うように設計されたコースで、間近に海を感じながら、白砂青松の中を散歩しているようでした。

その松林が各コースを仕切る柵のような存在なのですが、少し土手になったところに、立て看板があるので何かと寄ってみると、「元使首掛松遺跡」と記されています。

「首をかける」とは、おだやかではありません。

読むと、「元冦」前に日本に降伏を要求してきた元使一行が、この付近に上陸したそうです。

幕府の本拠である「鎌倉」に赴いた一行以外の40名は、この地に留め置かれましたが、幕府は徹底抗戦を決意。

そのため使者の定めとして、両方とも全員処刑されました。

ここで斬首された首は、周囲の松にかけてさらされたのでこの名がついたようです。

そして、来るべき侵攻に備えたため、この盛り上がった土手は「元寇防塁」の名残だそうです。

霊的な気配を感じることはありませんでしたが、何となく木陰は避けるようにラウンドしました。

首筋に風でも吹いたらたまりません。

ただでさえ真っ直ぐに飛ばないショットが、もっと変な場所に飛んでしまいそうです。


2022年11月12日土曜日

東福寺


京都五山第四位の東福寺です。

紅葉で有名な京都でも「通天橋」からの景色は、第一位の観光ランキングかと思います。

ツアー客に占有されているのか、普通に寄っても紅葉の時期は入場制限があって入れません。

今年は台風が上陸しなかったので、葉も痛まず素晴らしい紅葉が各地で観賞出来たはずですが、コロナの影響でどうだったのでしょうか?

この写真の時期は、逆に台風の当たり年だったと記憶してます。

写真は「臥雲橋」から向かいに見える「通天橋」と「本堂」を撮影したものです。

ここは一般道なので、無料で渡ることが出来ます。

それなりに混んではいますがまだマシかと、向こうを眺めながら確認します。

実際、終わりかけの時期だったこともありますが、葉の一つ一つの痛みは激しいようです。

しかし、渓谷「洗玉潤(せんぎょくかん)」を紅葉で埋め尽くすべく、他の木は伐採しているため、お互いの赤を赤で補い合って、混じり気なしの「朱色」が展開されてました。

最大規模の紅葉ゾーンでありながら、ココは年ごとの当たり外れがそんなにないなと感動しつつ、立ち止まらないように写真を撮りました。

2022年11月5日土曜日

倭寇の城跡


「勘次佐ヶ城」、「かんじがじょう」と読むようですが、長崎県五島列島「福江島」にある「和冦」の城跡です。

中国王朝「明」の時代に中国の海岸を荒らしまくったと、教科書で習いました。

「日本人」主体の武装した密貿易商人にから、「中国人」主体の海賊へと変遷していった話を聞きますが、実態はよくわからない部分も多いそうです。

実際に訪れると、囲まれたように石塁は残っていましたが、城というよりは、前者の密貿易品の倉庫だったようです。

当時、政府公認の「勘合貿易」以外は、すべて「密貿易」になってしまうので、不正行為とは言い難い商行為でした。

ここは日本の最西端であり、眼前の「東シナ海」の先に中国本土があります。

中継地としては最高の立地です。

しかし写真は、後者のイメージに近い海賊像となっており、何となく間の抜けた雰囲気が漂っていました。

同じ島の町中には、和冦の大頭目「王直(この方は中国人)」の拠点であった「明人堂」や「井戸」とかの、前者に該当する史跡が残っています。

前者側にテーマを集約して、観光アピールするほうがと良いのでは、と考えてしまいました。

何にせよ、ココからの大海原の景色は、どこにでも行けそうな気持ちになり、旅心地としては最高でした。


2022年10月29日土曜日

田川伊田駅(石炭の町)


大分県の「日田」へ向かう路線再開の見込みがなくなってしまった「日田彦山線」に乗って、「小倉」方面から「田川伊田駅」に向かいました。

到着間近に「香春岳(かわらだけ)」が右手に大きく見えます。

「一ノ岳・二ノ岳・三ノ岳」と三つの山で構成され、直列に並んでいましたが、石炭採掘で「一ノ岳」は半分ほど平らに削られてしまいました。

「ワンピース」に登場する「鷹の目ミホーク」が、山をバッサリ切ったようです。

城跡でもあったので、消滅しているのが残念でした。

今回の目的は「石炭記念公園」です。

写真の通り、シンボルである「竪坑櫓・二本煙突」です。

筑豊随一の規模を誇った「三井田川鉱業所・伊田竪坑」の跡地であり、以前に取り上げた「直方」のこじんまりした風情とは全く趣が違います。

石炭から石油へのエネルギー転換によって、ここでの雇用が失われていく様は、多くの労働争議に発展しました。

非常に大きな影響だったと思いますし、地元の「別子銅山」閉山とも通じるものを感じます。

また、この記念館には、日本で初めて「ユネスコ世界記憶遺産」に登録された「山本作兵衛コレクション」が所蔵されていて、当時の生活を描いた作品を数多く観賞することが出来ました。

そこで実際に暮らしていた方の絵ですが、素朴な味わいがあって、実物に会えて本当に良かったと思います。

二枚目の写真は、、昭和の佇まいが色濃く残るフォームに入線してくる列車です。

妙にほっこりしながら帰路に着きました。


2022年10月22日土曜日

常栄寺(雪舟庭園)


「山口県山口市」にある「常栄寺」。

「雪舟」が作った庭はいくつか取り上げましたが、真骨頂はここなんだと思い知らされた心境でした。

順番的には最期に訪れたため、よくわかっていませんでした。

当時は大戦国大名「大内氏」の庇護を受けて、本拠地としていたわけですから、当然といえば当然です。

パトロンのためにも、自身を誇示する上でも、至高を目指したはずです。

場所も大内氏の館から近い山の手にあり、国宝「五重の塔」で有名な「浄瑠璃寺」も並ぶようにあります。

石を立てるように集めてこんもりさせる特徴は健在で、使用される石も大きく、それらが群生してます。

京都(芬陀院)や、益田(医光寺)で滞在中に作った庭は、建物の間取りや庭にする面積の制限を受けてますが、そのリミッターを外すとこうなるのかと納得した次第です。

周遊出来る小道もあり、360度の全方位から、この庭を楽しめます。

訪れたときに、音楽系アーティストの企画か何かで、二枚目の写真のように境内に音の波数が表示される画面があり、不思議な音が流されていました。

自身も気持ちよく聴きながら、ずっと眺めていたらかなりの時間が経っていたのに驚きました。


2022年10月15日土曜日

森駅


行かれたことがなくても、ここの駅弁は食べたことがあるかもしれません。

百貨店とかの駅弁フェスで、超人気の「いかめし」を販売している駅です。

元祖になる新宿「京王百貨店」のフェアでは、第一位の販売記録を連続で誇ります。

弁当といっても、一般のサイズよりも二周りくらい小さいので、酒のつまみに最高な感じです。

何回か函館本線に乗っていますが、いつも寝台・夜行列車だったので通り過ぎるだけでした。

漸く現地にて食することが出来ました。

駅の隣に、写真の店舗「柴田商店(作っている会社は別)」があり、コカコーラの看板が期待を裏切りませんでした。

戦後すぐに発売され、不足した米を少なく出来るように、ヤリイカの中に詰めたそうです。

北海道の厳しい気候の中で、コンビニもなく交通も不便なときに、地元の素材を工夫して生み出された奇跡の駅弁だと、あらためて感動します。

折角なので駅の構内のベンチに座って食べました。

GWでもまだまだ寒いのですが日差しは朗らかで、これから弧を描くように向かう「有珠山」が海に浮かんで見えます。(写真のど真ん中にあるのが見えますか?)

背景の青空も視界いっぱいに拡がり、爽やかな気持ちでほおばりました。


2022年10月8日土曜日

備中高梁市の城壁


以前「備中松山城」を取り上げましたが、城下町から離れているうえ、山の高さも半端ないです。

治めるには、不便なことこのうえないです。

そのため日常は、麓に「御根小屋」という御殿を構えて、そこで殿様は政務を執り行っていました。

町の北側に位置する「高梁高校」がその跡地らしいですが、石垣でしっかり囲まれています。

また町中を散策すると、いくつかある寺社仏閣が城塞化しているのがココの大きな特徴です。

写真は南に位置する「松連寺」です。

下手な城郭より石垣が見事で、数段の構えとなっています。

海側の南から攻撃されるとすれば、出城としての役割が与えられていたはずです。

城下町の西側を流れる「高梁川」は、今でこそ護岸工事により川幅が定められていますが、往事はもっと広く、氾濫もしたはずです。

川に沿って敷かれた鉄道も昔はなかったので、町自体がもっと山側の東寄りに詰まっていました。

中心部にある「頼久寺」の石垣も加えて、川に面する形で湿地帯があり、それぞれの石垣が一つの防衛ラインになっていたと推察します。

西側の守りは、実質的に堅固な総構えです。

今日も車で「備中松山城」を訪れた後に、北からのんびりと南にドライブしたのですが、石垣の際に沿った道を走っていると、それを強く実感します。

武家屋敷を眺めながら、車で城内を散策しているようでした。

何度でも訪れたい町並みです。

2022年10月1日土曜日

猿岩


長崎県の「壱岐島」にある「猿岩」です。

後頭部からのリアルな風貌に、唖然と見とれてしまいました。

正直なところ、有名な石や岩の例えには、無理があるなあと思っています。

有名な庭園には、石や岩を何かに見立てた物語が多いですが、今まで納得出来た試しがありません。

しかし、シルエットどころか表情まであります。

少しポカンと口を開けたように見える様に、とても愛嬌を感じました。

昔のソニー「ウオークマン」のコマーシャルで、猿が遠い目をして、音楽に聞き入っている光景ともダブります。

果たしてこの猿には、何がみえているのだろうと、しばし考えてしまいます。

岩を相手に、ここまで思いを巡らせるのは初めてです。

以前に取り上げた「黒崎砲台跡」を、目的地として向かっていたのですが、偶然にも隣り合わせの場所でした。

非常にラッキーだったと思います。

こういった巡り合わせがあるからこそ、いつまでたっても旅はやめられません。

素敵な観光地でした。

 

2022年9月24日土曜日

壬生寺(みぶでら)


幕末において、京都の治安維持を目的に活動した「新撰組」。

その最初の本拠地であり、当初の隊名が「壬生浪士組」であったことからも縁の深さが伺えます。

写真の通り、「誠」の旗印が異様に目立ちます。

お寺に伺う感じとは、随分と印象が違いました。

屯所が「西本願寺」に移転してからも、当時の境内は兵法調練場に使用されたいたようです。

その縁で隊士の墓である「壬生塚」があり、訪れたときも若い女性の姿がかなり目立ちました。

漫画「鬼滅の刃」で鬼と闘う「鬼殺隊」は、「新撰組」をおそらくモデルにしています。

ここでも、羽織に使用された「緑と黒の市松模様」のグッズが、本家を凌ぐように売られていました。

まだ映画が大ヒットする前の訪問だったので、今は「聖地化」して、原宿の竹下通りのようになっているかもしれません。

今のうちに行っといてよかったと思います。

お寺としては、京都では珍しい「律宗」で、奈良の「唐招堤提寺」を本山としています。

開祖が「鑑真大和上」の宗派と関係があるのが、何かしっくりきません。

幕末期のドラマティックな展開には事欠きませんが、その後に「廃仏希釈」や、放火による本堂消失の被害とかも受けています。

最期の写真にある、本堂と並ぶようにあったストーパのような「千体仏塔」が独特の雰囲気を醸し出しており、いろんな因縁を吸い込んでいるように見えました。


2022年9月17日土曜日

韓国国境


「対馬島」の最北端にある「韓国展望所」です。

いかにもコリアン風の建物でしたが、作りはウレタンみたいな素材が風化したようになっていてボロボロでした。

大きいわりには土産物の店舗も入っておらず殺風景です。

海も天気は良かったのですが、少し霞んでいて朝鮮半島は見えません。

しかも入口にあった大きな門は期待値を上げただけで何だったのかと、複数の悪条件が重なって興ざめしました。

しかし国境であることを感じるのは十分でした。

展望所から目の前に小さな島があり、そこは自衛隊の「レーダー基地」でした。

そもそもこの島は、日本本土よりも半島に近いわけですから、有史以来ずっと日本の領土であるのは、世界的に見ると希有な例なのかもしれません。

そして近くに「豊砲台跡」があります。

以前に取り上げた「黒崎砲台跡」と同時期の昭和初期に築かれました。

2枚目の写真の通り、戦艦の主砲が備えられた跡が、空に向けて大きな口を開けていました。

実は上からだけでなく、側面から基地内を見学出来る入口があったらしいのですが、このときは知りませんでした。

またあらためて訪れたいと思います。

「対馬」は神社巡りが十分に出来てないので、再訪問の機会があるような気がします。



2022年9月10日土曜日

周山城跡(しゅうざんじょうあと)


「京都市」北部の山奥にある「周山城」です。

恥ずかしながら全く存在すら知りませんでした。

大河ドラマによる「明智光秀」特集の雑誌で知ることとなり、すぐに伺った次第です。

特にこの辺りは以前大阪に住んでいたとき、結構ドライブで走ったことがあったので意外でした。

実際に近くまで行っても看板すらありません。

当たりをつけて入った何本目かの山道で、漸く登城入り口の看板を発見です。

駐車場もないので、空き家のスペースにおそるおそる停車して登城しました。

しばらくは普通の登山道だったのですが、ゴロゴロ大きめの石が増えてきました。

過去に訪れた「織豊時代」の城郭が破却されたときの崩れた石垣と同じ雰囲気が漂います。

しかし写真の通り、今は杉が植林されて、山の主は誰なのか誇示しているようです。

「本能寺の変」を起こす数年前に「丹波」を平定した「光秀」が、その東領域を支配するために築いたそうですが、彼が築いてきた他の城と比較すると、何となく彼らしい趣が感じられませんでした。

実は不思議に思っていることが一つあります。

彼が「山崎の合戦」で破れた後に、どうして琵琶湖の「坂本城」にわずかの手勢で向かったのかということです。

既に本拠地となっている「丹波方面」へ向かったほうが安全のように思うのですが・・・。

そういう意味ではココは籠もるうえで、適当な場所のように感じました。


2022年9月3日土曜日

金田城跡(かねだじょう・かねたのき)


長崎県の「対馬」にある、古代の朝鮮式山城「金田城」です。

「天智天皇」の時代に、「白村江の戦い」で敗れた後、「唐・新羅連合軍」の侵攻に備えて築かれました。

幸い侵攻はなく、戦場になることはありませんでした。

続100名城の中で、最も訪れたい城でしたが、島嶼部の辺鄙な場所であり、ついでに寄るなんてことはかなわず、結局99番目の訪問となりました。

「対馬」を訪れた際に、レンタカーで真っ先に向かったのですが、入口の案内図を見ると想像以上に大規模でした。

そのため、この後の予定が見通せなくなることから、明日の早朝に出直すことにしました。

島の中央部を分断する「浅矛湾」に面して、山の斜面に築かれています。

全周は、2・8キロの石垣(崩落部分が相当多い)に囲まれていたそうです。

翌日の早暁に現地に向かいましたが、それでも帰りの船便に間に合うか不安でした。

また明治末期には、この山頂に砲台が築かれ軍事施設となっており、麓から中腹の古代城壁とは別に、物資輸送のための車道として整備された石垣も築かれていました。

これはこれで見応えありでした。

先ずはこのルートを使って山頂まで、3キロ近く登りました。

かなりハードです。

砲台跡の施設はしっかり残っていました。

そしてここから、古代城壁と重複する箇所となり、城壁に沿うように山の斜面を、海に向かって下りました。

写真はその途中に撮影したもので、湾の美しさに見とれながらしばし休憩しました。

城壁は、海からやってくる敵への防衛が前提のため、頂上から尾根沿いに下りながら続き、海側に面すると一定の高さで、海岸線を水平にぐるりと築かれました。

最期の写真は、古代城壁の「一ノ城戸」と呼ばれる張り出した石垣で、海から最前線の防衛ラインになります。

キレイに修復されていましたが、近代城郭と大差ない規模で、防人達がいた往事を偲べた気がしました。

ここで所持していた水が切れます。。

8月の終わり頃だったので、カンカン照りの日差しに相当体力が奪われました。

ここまで約5キロ、あと約2キロ近く駐車場まで残っています。

クラクラする感じがあったので、恐怖を感じました。

脱水症状で倒れたら誰か来るとも思えず、野垂れ死にです。

ビビりながら何とか辿り着いた次第です。

車の中で、飲みかけの温いポカリスエットがこんなにうまいと感じたことはなく、まさに命の水でした。


2022年8月27日土曜日

小倉駅(こくらえき)

 


九州の玄関口となる「小倉駅」です。

駅ビルと呼ぶには時代錯誤な感じすらする、近未来感が漂うステーションビルです。

そして写真の通り、ビルのド真ん中にモノレールが乗り入れています。

かなりの高さがあるため、空にでも飛んでいきそうで、ちょっと「銀河鉄道999」を思い浮かべました。

ここより低階層になりますが、交差するようにJRの在来線と新幹線が走っています。

今住んでいる下関から新幹線に乗る場合、手前の「新下関駅」より、運行本数が多い主要駅のココで乗るほうが、東京や大阪への時間距離が短くなり便利です。

ここに週末来ていて新たな発見もありました。

2枚目の写真は宇宙海賊の船長である「キャプテンハーロック」の銅像です。

反対側の入口にあります。

なんとその先にあるビル一棟が、アニメキャラの殿堂みたいになっていて、アニメグッズが新品からアンティークまで大量に販売されていました。

子供の頃、欲しくても買えなかった代物が販売されています。

迷いましたが、かなりの値段だったのであきらめました。

またノコノコと行きそうです。

帰りにJRの7番線フォームにある、名物「かしわうどん」を立ち食いしました。

何故かこの番線の立ち食い店だけ、以前取り上げた「折尾のとり弁当」と同じかしわを使用していると、よく通うおでん屋の大将が教えてくれたのです。

九州のうどんはやわらかめですが、つゆとかしわの味がなじんで非常に美味でした。

ここは、ちょくちょく立ち寄っています。


2022年8月20日土曜日

原の辻遺跡(はるのつじいせき)


福岡県の沖合にある「壱岐島(いきのしま)」。

都道府県になる前も「壱岐国(いきのくに)」と呼ばれて、国の単位でした。

更に古代に遡って「卑弥呼」が登場する三世紀初頭にも、「一支國(いきこく)」と呼ばれています。

彼女が治めていた「邪馬台国」の属国だったらしく、この遺跡が王都とされています。

誤表記かと言われてますが、中国の「魏志倭人伝」にも「一大國」の名称で登場します。

日本への道しるべとして有名な史書です。

しかし、ここから先の「邪馬台国」への行程は、距離・方角とも相当いい加減です。

誇大妄想癖かつ方向音痴の人間同士が、口述筆記し合ったとしか考えられないくらいヒドいものです。

これに学派の主張が対立しているので、「邪馬台国」の場所は、大人の事情で永遠に決められない気がします。

本題に戻りますが、この遺跡は内陸部の小高い丘にあり、とてものどかな場所でした。

島ですが、平坦な地形のため、古くから水稲栽培が行われてました。

写真の通り、周辺には民家もないので電柱が見あたらず、今も古代とそう変わらないのではと錯覚してしまいます。

子供たちが散策しているのを見ると、和むのに最適な場所だと実感します。

帰るフェリーの時間が迫っていたので、あまり長居が出来なくて残念でしたが、「壱岐」の悠久たる時間軸を感じることが出来ました。

最期の最期に、ものすごく得をした気分になりました。

2022年8月13日土曜日

回天秘密基地


よりによって、8月15日の終戦記念日に訪れてしまいました。

洞窟のように見える、トンネルの入り口に近づくにつれ、震えがきました。

自身のレーダー反応に、引き返そうかと迷いましたが、微妙に我慢できそうなので突き進みました。

夕暮れ時で薄暗くなっていましたが、中に入っていくと、意外と大丈夫でした。

広い空間は通路であると同時に、収納・整備も兼ねています。

少し弧を描きながら歩いていくと、写真の建造物が見えてきました。

ここは、「山口県周南市」沖合の「大津島」にあります。

ギリギリ往復出来る最終便のフェリーに間に合い、そのまま乗り込みました。

海の特攻兵器である、人間魚雷「回天」に纏わる施設です。

ここまでキレイに外郭が残っているのに、感激しました。

「回天」のモニュメントは、ここにありませんが、それらが運用されていた、当時の息吹が伝わってきます。

海に進水させる長方形の穴や、吊るすクレーンを固定した土台の跡には、生々しい臨場感を感じました。

戦時中に活用された悲劇の産物なのですが、何故か清々しい気分になりました。

夕日の彩りが一役買っていたかもしれません。

最後の写真は、基地内の横穴から見えた景色ですが、何とも言えない癒しを感じました。

まるで教会にいるようでした。


2022年8月6日土曜日

伊勢興津


災害で、途中から運行不能になっていた三重県にある「興津線」。

そのまま廃線になってしまうことが多いローカル線の中で、無事復活しました。

前回の訪問では、始発「松坂駅」から「家城駅」までは乗れましたが、不通のため折り返し、残念な思いをしてます。

そのため完乗すべく、終点「伊勢奥津駅」から「家城駅」まで、逆進行で乗ることにしました。

埼玉への帰省途中に、家族に詳細を語らず、まあまあの遠回りをして車で寄り道しました。

道中は、室町時代に南朝方の「北畠氏」が、戦国時代後半まで籠もった地域だけのことはあり、思った以上に道は険しく、到着に時間がかかりました。

列車の運行本数は少ないので、一本乗り遅れると次は数時間後です。

でも、家族と一緒なので昼食抜きは厳しい状況です。

コンビニも見あたらない山道を走っていると、「あまご料理」の看板が。

ギリギリ間に合いそうなので、看板の指示通りに向かうと、下の写真にある池と食堂がセットになった敷地を発見です。

池には「(おそらく)あまご」が優雅に泳いでいます。

時間がない旨伝えると、小さいあまご焼き定食ならすぐとのことで、急ぎ注文しました。

写真の献立で、あっさりしたものでした。

みんなでかなり慌ただしく食べましたが、臭みもなく、旨くてビックリです。

養殖ではなく、採ってきた魚を眼前の池に入れていると思われ、天然物と推察しました。

野性味ある食事をたっぷりに満喫しつつ、鉄道の乗車をせがむ子供達を引き連れて、何とか出発に間に合いました。


乗車したときの車窓です。

山間部の鉄道風景が醸し出す、昔のままの鄙びた雰囲気が最高でした。


2022年7月30日土曜日

眞鍋家邸宅


四国中央市の切山集落にある住宅です。

香川方面に向かう11号線と、徳島池田方面に向かう192号線に挟まれた山間部にあります。

仕事で畜産業を営む企業様を訪問したときに、ここの存在を偶然知りました。

昭和45年に、国の重要文化財に指定されていますが、今でも十分鄙びた集落でした。

どうしてこの小さな一軒家に、わざわざ別格の歴史的価値が与えられたのか、その基準について素人では正直わかりませんでした。

雨が降っていたのですが、向かう道中に咲いていた青色のアジサイが、水を得た魚のように生き生きと満開でした。

小学校の雨の登下校時に、何処かで眺めた記憶が蘇りました。

家については、茅葺きの屋根や土壁が大切に保存されており、中に入ることも出来ました。

早めに移動してきたため、訪問時間までかなり余裕があります。

しかしコンビニなぞはありませんでしたので、ここでしばらくボーっとしてました。

頭上を見上げると天井はなく、茅葺き屋根の裏側が直接見えました。

燻されて真っ黒です。

また、雨の当たる音が下に伝ってきて、非常に心地よい空間でした。

更に歳をとっていくと、こんな感じがちょうど良いと思いましたが、寄ってくる数匹の蚊を見つけて、大丈夫なのか悩ましく思いを巡らしました。

なかなか自然には戻れません。

2022年7月23日土曜日

関門海峡(かんもんかいきょう)


「山口県」に転勤して「下関」に住んでいます。

マンションはかなり古いのですが、嬉しいのは窓から、海である「関門海峡」が毎日拝めることです。

自分の人生において海辺に住むことは、おそらくないような気がしていたので、生涯一度の貴重なことだと、よく海側を散歩してます。

そうするとこの地は、源平合戦の「壇ノ浦古戦場」であり、ボランティアの方が観光客向けに、その紙芝居とかやっているのを見かけます。

また写真のように幕末「長州藩」が、「異国船打払い」を実施した場所でもあります。

報復で「四カ国艦隊」に上陸占領され、過激な攘夷思想が強かった「長州藩」の、その後の方針転換に繋がる契機となりました。

最初は気がつかなかったのですが、散歩の範囲を広げていくと、「前田砲台」という堅牢な石垣の組まれた場所があり、そこで実施されたことがわかりました。

主要道路のすぐ脇の高台にあり、近所の公園という佇まいで、観光客が来ている雰囲気は感じませんでした。

そこから海を眺めると、この辺りが一番海峡の狭い場所であることがわかります。

九州と接した古来からの交通の要衝であることが実感出来るお気に入りのポイントです。


砲台のすぐ近くにある「源義経」の「八艘飛び(はっそうとび)」のモニュメントです。

2022年7月16日土曜日

置塩城


「100名城・続100名城」認定されてませんが、播磨国を代表する名城だと思っています。

兵庫県姫路市の北部に位置する連郭式山城で、後期「赤松氏」の本拠地でした。

山の尾根沿い全てを覆うように郭が構築されています。

この一族の築城で特徴的なのは、写真のように石垣を多様していることです。

他の諸城も同様で、極めつけは雲海の城で有名な「竹田城」です。

近世城郭みたいに、石材の産地から運んでくるのではなく、郭の平面部分を作る際に、削った部分の石材をそのまま石垣として活用しているそうです。

山を崩しながら築いていく。

超効率的な技術を持っていたようです。

そのためか、播磨国の山城は江戸時代になってほとんど廃城になっていますが、本丸部分や大きな廓の角っことかに、に石垣が残っていることが多いです。

この「赤松氏」、やんちゃな印象を受けます。

室町時代には、幕府の重職である侍所の長官「四職(山名・一色・京極・赤松)」に列せられた有力者でしたが、当時の居城「城山(きやま)城」にて、当時の将軍「足利義教」を殺害する「嘉吉の乱」を引き起こしお家断絶となります。

しかしその後、南北朝時代末期に、南朝方から「三種の神器」を北朝方へ取り返し、お家再興となります。

そして再スタートの居城がここになるのです。

しかし五代続いた後、秀吉に降伏して廃城となり、多くの石垣が「姫路城」に運ばれて活用されているそうです。

それでも石垣はそれなりに残っていて、ここの味わい深さは健在です。

戦国期から近世期へ移行する際の変遷を堪能出来ます。

間違いなく「播磨攻め」を担当した「秀吉」に影響を及ぼしているはずです。




2022年7月9日土曜日

駅の終点


「乗り鉄」としてウロウロしているとき、必ずと言っていいほど、終着駅のレールの終わりを撮影します。

正式名称がわかりませんが、バッテンみたいな看板を見つめて「この路線制覇!」と、一人ほくそ笑むのです。

オタク道を突き進んでおります。

その景観は、コンクリに周囲をガチガチに固められた味気ないモノから、長年の使用に耐えた構造物かあったり、逆に何もなくて、そのまま荒野や山河が広がっていたりと、様々です。

別にこだわっているわけではないのですが、フィニッシュとなるため、完乗した路線の印象に与える影響は大きいと思われます。

そして全線制覇した中で、自分にとっての第一位がこの写真です。

岐阜県「長良川鉄道」にある北の終点「北濃駅」です。

元々は木材の集積場でもあったのか、ローカル線であるにも関わらず、待避線が多く残っていました。

それが停車場の奥で再び収束して、森の中に消えていくようになくなっていました。

近くに歩いていくと、線路の敷石とコンクリに段々土が混じってきて、段々と草木も加わり、その割合を増やしながら、レールは地面に潜り込むようにして土に戻ってました。

こんなフェイドアウトみたいな終わり方もあるんだと感じ入った次第です。

自然に帰っていく人工物に、妙な優雅さを覚えました。