2021年12月25日土曜日

織田信雄


「織田信長」の次男「織田信雄」。

バカ殿として有名な人物です。

「安土城」の天守閣が消失したのも、この方が焼いたと、言われる説が有力です。

それ以外にも、周囲に助けてもらっているのに、破局させるようなことを、何回もやらかしてます。

「本能寺の変」後は、織田家筆頭の立場でありながら、結局は「豊臣秀吉」の配下となります。

天下統一の最終局面である「北条攻め」にも参加し、その論功行賞で「徳川家康」の関東移封により、旧領となる東海地方を与えられます。

しかし尾張からの移封を拒んだため、秀吉が激怒し、改易となります。

ここから先はあまり詳しく知らなかったのですが、流浪して伊予にもいたようです。

その後復活しても、また改易とかを繰り返し、豊臣滅亡後に、大和国の「宇陀松山藩」初代藩主となります。

他の領地と併せて5万石くらいなので、しぶとい復活です。

写真は、この藩の記念館を訪れたときに、飾られていた当人の肖像画です。

ひょうひょうとしていて、掴みどころがない人柄が出ていました。

家臣団を虐殺したり、無謀な戦で自軍の戦死者を数多く出したり、さんざんなことをやってますが、ココを所領に京都で優雅な隠居生活を送り、73歳の天寿を全うしました。

ある意味、戦国時代で、一番ハートが強い方だったかもしれません。

サラリーマンの視点では、一番上司になって欲しくない方です。

薬の看板がいっぱい展示されていました。

その一枚ですが、「〇〇につける薬」はさすがにありませんでした。


2021年12月18日土曜日

ラピュタの城


個人的には「ナウシカ」よりも「ラピュタ」のほうが好きです。

世界観もですが、ストーリーの作り込みが素晴らしいと、再放送を観る度に思います。

写真は「別子銅山上部鉄道」の終着駅「石ヶ山丈」にある用水路跡です。

ここには中々訪れることが出来てませんでした。

今回の訪問ルートは、北側の「銅山峰」からの鉄道跡を辿っていくのではなく、南(平野)側の山間部から「魔戸の滝」近辺の側道を登って辿り着きました。

林道として最低限の整備はされていましたが、誰も来ないせいか路面が大荒れで歩いて向かいました。

茂みが多くてあまり日が射しません。

それでも何とか停車場跡らしき場所について、光が射す方向を見上げたとき、斜面の頂に写真にある人工物を見つけたのです。

「ラピュタ発見!」の心境です。

斜面を登っていくとレンガ作りの貯水槽跡(2枚目の写真)であることがわかります。

逆に眼下を見ると、用水路として敷かれていたパイプ管跡の空洞の先に、平野部の集積基地であった「端出場」が一直線に見えていました。

往事を思い起こせる史跡として残っており、思いがけず宮崎ワールドを堪能出来ました。

次回は子供を連れていってみたいです。

どんな反応をするか楽しみですが、自分が「中二病」を実感することになるだけかもしれません。


2021年12月11日土曜日

ノートルダム大聖堂


パリの真ん中を突っ切っている「セーヌ川」の中州に「シテ島」があり、そこに写真の「ノートルダム大聖堂」があります。

「エッフェル塔」に匹敵するパリのランドマークです。

この界隈を歩いていると、パリの始まりとなる地域である雰囲気が何となく伝わります。

建物の斜め後方から中心に位置する尖塔を撮影したのですが、この翌年に火災で焼けてしまいました。

不謹慎ですが、全体のバランス的にはなくてもいいような存在と感じていました。

有名なツインタワーのようなゴシック建築の正面から回り込んで、この写真に写っている側面から観ると、ロマネスク様式の面影を感じます。

あとで調べると完成に長い時間がかかったため、様式が混同されていったそうです。

そのためシャープな尖塔が建てられた後に、ゴシック様式の高い建物がくっついたように見えるのです。

今一つまとまってない印象があるのに納得です。

しかしデザインにおいては、この歴史的要素が妙な味を生むから不思議なものです。

現在再建中だそうですが、立て直す前に尖塔なしの状態で眺めたいと、失礼な願望が沸きました。

どっちが格好良く見えるのか、シンボリックに感じるのか。

パリ市民ではないので、どうでもいいかと思いつつ、少し野次馬根性が出ました。


2021年12月4日土曜日

妙覚寺


正門から見ると典型的な日連宗のお寺ですが、実は「織田信長」の京都におけるメインの宿泊所です。

京都滞在時、ココに18回、本能寺に3回宿泊したらしいです。

(このブログはずいぶん前に書いていたのですが、大河ドラマ「麒麟がくる」でも、織田信長の拠点としてよく登場します。)

「本能寺の変」が起こったとき、嫡男「信忠」が宿泊していたのですが、信長の救援に向かったため、「明智光秀」の返り討ちにあってしまいました。

もし無事に逃げおおせてたら、織田家に成年男子の後継者が健在することになります。

そのため跡目争いの余地はなく、その混乱にうまくつけ込んだ「豊臣秀吉」の、その後の天下統一はなかったかと思われます。

光秀は、親子で屠ろうと考えたばずでしょうから、逃げきれなかっただけかもしれませんが、天下統一プロセスのキーポイントとなりました。

また別の視点では、宗教弾圧のイメージが強いため「魔王:信長」と称されることもありますが、この宿泊の事例からも、宗教勢力への「武装解除」が目的と思われます。

「法敵:信長」を主張している日連宗ですが、その寺への常宿は、関係改善がなければ果たせないことです。

実際のところ、解除後は、それなりの温情的な対応を図っています。

今の所在地は秀吉の命で移転した後だそうです。

秋期しか開いていないのを知らずに立ち寄ったので、たまたま入れてラッキーでした。

紅葉ばかりが無造作なほどに茂って、道だけが浮かび上がっている苔庭は、非常に雄大でした。

逆に写真のように、閉ざされた中庭には小さな「達磨」が鎮座されてました。

苔の丘に、歩道が意匠を凝らした石組みで表現されており、思わず宇宙を感じてしまいました。

小さな空間に吸い込まれそうで、非常に参考になりました。


下の写真も同じ場所を奥の部屋から捉えた一枚です。

縁のある丸窓が、視界を限定していて、惑星が浮いているように見えました。


2021年11月27日土曜日

五島氏庭園(ごとうしていえん)


入園するとき、受付の方にお詫びを言われて不可解だったのですが、見て納得しました。

池が有名な庭園なのに水が入っていません。

何十年かに一度の底さらいが実施されていました。

ここは「長崎県五島列島」の「福江島」にある国指定名勝「五島氏庭園」です。

続100名城「石田城(福江城)」の一部となっています。

近くにある「鬼岳」の溶岩石と、亜熱帯植物という、風土感が満載の素材が活用されてます。

それを、僧のくせに遊興が過ぎて、京都を追放されてやってきた「金正」が手がけました。

地泉式庭園の風貌が明確なのに、どこかフランクというか、遊び心があり過ぎます。

中央の干上がった池は「心字が池」と命名され、「心」の字体を表現してます。

しかし入り口の屏風には、「金正」が「ここでもっと遊べて良かった。」みたいな直筆を残していて、清廉な性根を表現しているとは、到底思えません。

いい意味でふざけた面白味のある庭でした。

この庭を眺める書院造りの建物が歴代殿様の隠居所になっており、屛風の模様もかなり変わっていました。

そこに、ピンク色の忍者衣装を纏った熟年くのいちが登場。

館内を念入りに案内してくれました。

この「石田城」訪問で、「100名城・続100名城」をコンプリート出来たことを告げると、集めていない「御城印」を、わざわざ押してプレゼントしてくれました。

もう一枚の写真は、数ヶ月後に再訪したときの、池に水が入った本来の庭園の姿です。

やはり情緒が増し、より落ち着いた趣を醸し出していました。

水がなくて再訪した旨を告げると、入場料を半額にしてくれました。

2回とも慌ただしかったのですが、楽しいもてなしを頂けた庭でした。




 

2021年11月20日土曜日

一華院のガックリ庭


「東福寺」界隈には名庭を有する塔頭が多いのですが、京都中心地から少し離れています。

しかも渋滞する地域でもあるので、あの界隈を通るときは、わざわざ行かなくてもいいように、何かは拝観するように心がけています。

今回は、ある塔頭の庭が目当てだったのですが、残念ながら長期閉館してました。

そうしたら近くの「一華院」が秋期限定、しかも抹茶サービス(別料金)有りで開いていました。

予備知識は全くなかったのですが、かえって好奇心がそそられましたので立ち寄ることにしました。

複数の庭園がありました。

先ず、室町時代からある南庭「依稀松の庭(いきまつのにわ)」を堪能しながら、抹茶で一服です。

右横にすーっと延びた、長い一本枝のある大松が、横へ中心線を描いており、その枝の陰が地面の苔や石に不規則な陰影を与えています。

(最後の写真です。)

浮遊感の漂う不思議な空間でした。

しかし、今回取り上げたいのは、最初の写真である北庭「彷彿石庭(ほうふつせきてい)」です。

調和を感じられないバランスにびっくりしました。

石・苔が浮島毎にすべてバラバラの色彩です。

一番手前の島はピンク色の大理石のような地面に三つの石が刺さってました。

有名作庭家のお孫さんの作らしいのですが、観れば観るほど違和感が強くなりました。

プロが思い切った挑戦をしているのでしょうから、素人には理解出来ない次元が存在するのでしょうが、良い反面教師でした。

「こうやったら失敗する。」と、シミュレーションとして長時間眺め、自信がやりたいことのイメージを反芻しました。




2021年11月13日土曜日

黒崎砲台跡



「福岡県」の沖合にありますが、「壱岐」は「長崎県」に属する島です。

訪れた際、古くは国で呼ばれていた地域の歴史的魅力に、大きな感銘を受けました。

何回かに分けてご紹介したいのですが、先ずは大正昭和の近代遺産である「黒崎砲台跡」を取り上げます。

珍しく写真を2枚続けます。

この大きな穴は、2枚目のイラストで説明されている、戦艦の主砲をシリンダーを差し込むように埋め込んでいた跡です。

深さは10メートル以上ありそうで、いかに主砲が大きかったのか、目の当たりにすると驚嘆するサイズです。

当時の軍縮条約に同意した日本は、縮小のため戦艦「土佐」を放棄することになったのですが、その主砲を秘密裏に、この島の西側に据えたのです。

口径41センチの2門カノン砲は東洋一だったそうです。

後の戦艦「武蔵」もほぼ同じ口径だったはずです。

試射1回のみで、実戦に使用されることはありませんでしたが、九州を防衛するにおいて大きな威嚇効果はあったと推察します。

下側には横穴から、途中まで入ることも可能です。

心霊スポットのようですが、非常に天気が良い日だったこともあり、ウロウロしても何も感じなかったのは幸いでした。

途中から柵があって、穴の真下に行くことは出来ませんでしたが、上からの光がいい感じで地面を照らしていました。

この穴をふさぐような構築物が再び作られてはならないと思いますが、最近の隣国の動きはとても気になるところです。


 

2021年11月6日土曜日

エッフェル塔


パリはあまり高い建物がないせいか、この塔の高さは今でも際だっています。

わが家と同色の「プジョー3008」が通りかかり、あわててシャッターを切りました。

日本よりもやはり似合う気がします。

1889年のパリ万博の目玉として建造され、当時ぶっちぎりで世界一の高さを誇る建造物になりました。

これが出来ることでの景観の変化に、パリ市民の動揺は相当なものだったでしょう。

賛否両論が強く渦巻いたことは間違いなく、特に芸術家の多くは反対派だったそうです。

文学者のモーパッサンは、カフェにてわざわざ見えない席を選んで座ったとのことでした。

実際にパリを散策していると、通りの店を眺めなら歩いているため、どの程度歩いたか曖昧になることがあったとき、自然とこれを探して地図と併せて確認していました。

幸い旅行中は天気もずっと晴れていて、いつもよく見えました。

フランス映画の背景描写に登場することも多く、和やかに平和を感じる塔です。

しかし20世紀初頭の取り壊しの危機を、軍用の無線電波を送受信する役割を与えられたことで乗り切っています。

第一次世界大戦でもドイツ軍へ妨害電波を出したりする役目があったそうです。

フランスは、ナポレオン以後の近代史において、戦争で敗北が多い国です。

そのため、闇歴史はかなり多いと、散策していて感じ入った次第です。

2021年10月30日土曜日

造山古墳(つくりやまこふん)


岡山県にあるこの古墳は、「伝仁徳天皇陵」を筆頭に機内に集中する巨大古墳郡に比肩する規模です。

全国第四位の大きさになります。

また近くにある同じ読み方の「作山古墳」も第九位に位置し、古代に「吉備国」と呼ばれたこの界隈の国力を象徴した存在かと思います。

「大和政権」の対抗勢力として警戒されたことは、周辺にある国宝級の神社に祀られている祭神名を伺っても思います。

別の機会に再び取り上げると思いますが、「大和政権」が押さえ込もうとした強烈な圧を感じるのです。

写真は駐車場から古墳を眺めた景色です。

近いです。

機内の大きな古墳は、「天皇陵」としての指定を受けて立入禁止だったり、堀で囲まれたりしているため、墳丘に登ったり出来ないのですが、ここは自由に散策出来ます。

ちょっとしたトレッキング気分で楽しめますし、その展望が素晴らしいです。

大きな建物もなく、田畑が広がる風景に、夕暮れが赤茶けた色彩を落としていく様は、古代から変わらぬ景観を想像させました。

加えて、麓に見えるデルタの赤色は、黒の混じった深い赤であることから、石棺内部に使われる「朱」と重ねてしまいました。

勝手にロマン(=妄想)が広がりました。


2021年10月23日土曜日

サン・ラザール駅(パリ)


「睡蓮」で有名な印象派の画家「クロード・モネ」。

彼は列車の絵を、意外にもリアルなタッチで描いています。

題名は「サン=ラザール駅」。

パリに6つある主要ターミナル駅の一つで、最も古い駅です。

印象派の彼らがよく題材とした地域「モンマルトル」が近く、住居もこの辺りに多くあったそうです。

今回の旅は、パリ市内を出来る限り散歩するのが目的でしたので、この駅周辺のホテルを拠点としました。

小ぎれいながらも、食事は簡易な朝食しかない安宿で、いつも早朝からウロウロしました。

写真はホテルから歩いてすぐの高架橋「ウロップ橋」から撮影した駅北側からの一枚です。

ここは日本の新幹線に当たる「TGV」が発着しません。

そのせいか昔ながらの雰囲気が残っていて、びっしりと敷かれた、数多くのレールを眺めることが出来ます。

その上をドイツの鉄道模型「メルクリン」のカタログに登場する車両が、奥のフォームから出たり入ったりするのです。

今後の鉄道ジオラマの参考にしようと目が釘づけになり、ついつい長居してしまいます。

世界的に有名な観光地が多い地域を散策しているわけですが、結局こういった場所に行きたくなります。

あいかわらずの自分に正直あきれました。

2021年10月16日土曜日

芬陀院(雪舟寺)



京都の東南に位置する「東福寺」の塔頭の一つである「芬陀院(ふんだいん)」。

別名「雪舟寺」とも呼ばれています。

ここの枯山水庭園を「雪舟」が作庭したとの伝承があるためですが、史実としては立証されてないそうです。

火災で荒廃していたのを、昭和の作庭家で有名な「重森三玲」が手がけたそうです。

お伺いして眺めて見ると、こんもりした苔の丘に柱石が突き出ているような感じは、他で拝見した雪舟庭園と似ています。

派手さはないのですが、石と苔と白砂が無理なくかみ合っている様は、奇をてらうこともなく、非常に落ち着きます。

何人かの先客もいたのですが、みなさん同様に表現が悪くてすみませんが、ボーっとしておられます。

私も紛れるようにしてしばらく座っていました。

「画聖」と呼ばれる、この方の絵については、個人として最多の国宝数を誇ります。

乱暴とも思える太めの線を大胆に活用している印象があり、庭とのイメージが重なりません。

三次元の庭と二次元の絵とでは、そもそも異なる集中力が働いているのでしょうか?

凡人では図りかねる世界があるのだろうと、自分勝手に想像してしまいます。

庭は嵐の前の静けさなのかなと、漠然と思いました。

単なる遊び心で、手がけている印象を受けています。

2021年10月9日土曜日

ろうそく岩


前回と訪れた順番は逆ですが、「弁慶岬」から北に位置する「積丹半島」にあります。

「札幌」から「小樽」へ向かい、その先を海に沿って南下していきました。

この辺りは国定公園に指定されているだけあって、断崖・奇岩が多い地域です。

非常に素晴らしい景観で、途中で食べた海鮮丼も含めて、北海道の日本海を強く感じることが出来ました。

この「ろうそく岩」ですが、写真のようにゆらゆらしている波が余計にローソク感を出しています。

岩の高さも、この細さで45メートルもあるそうです。

以前はもう少し太かったらしいのですが、地震による津波で割れてこの状態になったらしいのです。

てっぺんに神社も存在するそうで、以前は登れたらしいです。。

現状では、先ず参拝不可能に思えます。

ここにも「義経北行伝説」があり、別の伝説もあるそうですが、共通しているのは「兜・鎧・財宝」をこの辺りに埋めたというものです。

義経一行がここで日本の様式を改めて、寒冷地仕様の装束になったということなのでしょうか。

ここから先の伝説はなくなっているので、中国大陸へ向けて渡海したようにも想像が膨らみます。

目印といい、まさしく財宝が埋まってそうな漁村でした。

本当に、興味が尽きないテーマです。

2021年10月2日土曜日

弁慶岬


史実とは言えませんが、非常にロマンを感じるテーマとして「源義経北行伝説」があります。

兄「源頼朝」から逃れて、「義経」を匿ってくれていた「奥州藤原氏」でしたが、4代目となった「藤原泰衡」が裏切ります。

居館であった「高舘」を襲撃されて、そこで自刃したのが通説となってますが、そうではなく、密かに生き延びて、北へ向かったとする説があるのです。。

私自身の興味が日本を中心にして、「南」ではなく「北」に強くあるのは、間違いなくこの伝説が、潜在的に影響しています。

北行に向かった諸説には、最終的に中国に渡って「チンギスハン」になったという話もあるくらいです。

そんなこともあり、北海道にも多くの伝説が残っていて、その一つに「弁慶岬」があります。

北海道「度会半島」の日本海側に位置する「寿都(すっつ)町」にあり、写真の通りデーンと大きな像が建立されています。

最近、原発に関わる誘致に名乗りをあげて、話題になりましたが、北海道でも特に辺鄙な地域だと感じます。

で、更に突き出た岬でした。

視界の良い日だったので、眼前に広がる海の水平線は、見事に地球の形が分かる弧を描いてました。

伝説は、「武蔵坊弁慶」も生き残って北海道に渡り、この地で「義経軍」を待っていた、というよくわからない内容です。

しかし、周辺の伝説をつなげていくともっと面白いストーリーが組み立てられそうです。

ますます好奇心の沸いた訪問となりました。

2021年9月25日土曜日

繫敷教会(しげしききょうかい)


「長崎県五島列島」の中心島「福江島」にある教会です。

キリシタン関連遺跡として、世界遺産に認定されている教会群をさておき、自分に一番刺さったのは、この「繁敷教会」でした。

何と天井板が、リフォーム前の我が実家と同じでした。

建設時期も1970年代で一致します。

リフォーム前に、母親が当時を振り返って「石油ショックの影響で、家の素材を選ぶ選択肢がなかったのよ。」と話していたのを思い出しました。

同じ事情かと推察します。

失礼ながら祭壇も、キレイに手入れはされてますが、はっきり申し上げてショボいです。

説明板には、近くにあるダムの建設で、湖底に沈んでしまう村にあった教会を移転したそうです。

しかもそのときの現場事務所をそのまま活用したらしく、2枚目の写真にある通り、公民館のような外観の入口正面に、十字架を張り付けただけです。

そもそも道中はずっと山道で、集落の中にありません。

島を一周した限り、最も辺鄙な地域だったので、どれくらい信者の方がいらっしゃるのかなあ、とこれからの存続を不安に思いました。

しかし誰もいない空間にしばらく佇んでいると、飾り気が全くないその様が、「信仰の強さには関係ない」と迫ってくるようでした。

新規加入を目的とした布教には、華やかさは重要でも、信仰自体には必要ないのかもしれません。






 

2021年9月18日土曜日

水島列車


名前の通り、岡山県の水島工業地帯に向かって走る路線で、「倉敷駅」から「三菱自工前駅」を結びます。

実はその先にも駅と別路線があるのですが、貨物線となるため民間人は乗車出来ません。

まだその先に線路が見え、鉄道が必要とされる目的があるのに、降ろされてしまう不完全燃焼。

正直この手の路線は楽しくありません。

「乗り鉄」として、マニア度が問われるために乗るだけで、自身も全線制覇の野望がなければ行かなかったと思います。

目立つといえば、写真の列車「MRT300形」で、ここのオリジナル車両です。

水色の車体にひまわりの絵がラッピングされていますが、妙に殺風景な印象を持ちました。

その花の香りも、ダイレクトな芳香剤なんだろうと、勝手なイメージを抱いてしまいます。

ローカル線だと、中古車両とかを購入して更に使い回す印象が強いのですが、新車両を活用出来るあたりは、大企業をつなぐ路線だから支援とかもあるのでしょう。

確実に通勤客を確保出来るし、採算が高いと思われます。

自分の好みとして、この列車がいい味を発揮するのは、他の鉄道に払い下げされた後かもしれません。

そのときには、このひまわりにどんな香りが漂っているのか興味が少し沸きました。

2021年9月11日土曜日

金沢の神社


鳥居から階段を上がったところに立っているのは、石川県金沢にある「尾山神社」の「神門」です。

国重要文化財に指定されています。

金沢には複数回来てますが、「金沢城」の脇にあるにもかかわらず、恥ずかしながら全く知りませんでした。

たまたま嫁さんの女性誌か何かを眺めていて、偶然見つけた次第です。

とにかく見た目が変わっています。

奥にある本殿は一般的な神社のデザインなのですが、この門に関しては天を崇めるような尖塔ですし、最上部の窓にある色はステンドガラスです。

素人目には「神道」ではなく、「キリスト教」の教会のように見えます。

しかし祀られている方は藩祖「前田利家」と奥方の「まつ」ご両人です。

そのためか、明治初期に旧藩士が集まり、建立されました。

時代的な流れとしては、経済的に困窮していく士族の負担は大変だったと推察されます。

しかし時代的には文明開化の気風を取り入れてか、こんなフリーダムな形になっちゃったのかな、と妙に感心してしまいました。

この後の時代になると「国家神道」が幅を利かせてきますから、誤解を招くような建築は難しくなります。

このタイミングだからこその、肩の力が抜けた設計者の挑戦が、いい意味で伝わってきました。

タイルの色目とかも独特で、直接見学されることを強くお勧めする建造物です。

2021年9月4日土曜日

庭瀬城・撫川(なつかわ)城


城巡りに際して、一番想像力を使うのは、城が活用されていた当時の姿をイメージするときです。

特に歴史小説で、城を舞台に戦場の描写があった場合です。

事実はどうかは別として、自身の想像におきかえて検証してしまいます。

そのときやっかいなのは沼地とか湿地帯の存在です。

現在は、埋め立てと排水工事がしっかり行われているため、消えているケースかほとんどです。

往時とは全くかけ離れていて、石垣・土塁も残ってないと、ただの公園にしか見えません。

ところが、今回取り上げるこの二城(隣り合うように近いので実質一つ)は、希少な事例といえます。

時代を超えて、「水城」を感じることが出来ました。

住宅地になっているのですが、堀はかなり残っています。

水をうまく取り込んで、江戸時代も「陣屋」として、防御と交通に活用していたことが伝わってきました。

写真のように、複数の石垣で囲まれた郭が、水辺にぽっかり浮かぶように存在してます。

折りたたみ自転車を活用して、堀沿いの路地裏をウロウロしたりして、相当楽しめました。

「備中国」と「備後国」の国境に近く、戦国時代は、「足守川」沿いを守る「毛利氏」の「境目七城」の一つでした。

この防衛ラインの主戦場が「豊臣秀吉」に水攻めされた「備中高松城」です。

「本能寺の変」が起こったことで、ここから豊臣軍は引き返すわけです。

その城跡の周辺は田畑になっていましたが、あらためて、近くの「足守藩」であったエリアを、川沿いを中心にゆっくり探検したいと考えています。

この藩は、秀吉の正妻「おね」の兄である「木下家定」が初代です。

一度所領没収となりますが、幕末まで存続します。

いろんな発見が出来そうです。


2021年8月28日土曜日

クアトロポルテ



20年以上前の車ですが、どうしても忘れられない存在でした。

壊れる車の代名詞「マセラッティ」。

イタリアの名門メーカーですが、そもそも基本設計上の問題が多いと噂されてます。

しかし、いつもお世話になっている京都のクルマ屋さんに相談している中、極上の限定モデルを見つけてくれました。

これも運命だと、思い切って購入した次第です。

「クアトロポルテ」と呼ばれる車種で、直訳すると「四枚ドア」。

変な名前です。

その通り、4ドアセダンの後輪駆動方式、ツインターボのエンジンです。

デザイナーは「マルチェロ・ガンディーニ」。

この方がデザインした車にどうしても乗りたかったのです。

多くのスーパーカーを手掛けており、「ランボルギーニ・カウンタック」も、彼のデザインです。


その特徴が、後輪の一部を覆うような足まわりのデザインに出ています。

直線基調のラインに、独特のエッジも効いています。

京都から乗って帰ってきて、そのまま仕事で使っていました。

しかしすぐに異音が発生するようになり、修理のため約一ヶ月で帰京してしまいました。

部品を探してからの修理となるため、いつ復活して戻ってくるかわかりません。

「ブルーセラ」と呼ばれる、淡いメタリックブルーと、オレンジ色に近い、オール革張りの内装。

どこか普通ではない魔性の雰囲気が漂います。

短い期間ですが、堪らない刺激を日常で感じさせてくれていました。

何気なく駐車場で撮っただけの、これらの写真が遺影とならないように祈るばかりです。

復活した暁には、ちゃんと旅に出かけて、素敵な景色を背景に写真を収めたいものです。


2021年8月21日土曜日

聖火リレー


何だかんだで、最終ランナーが入場してきたときは感動しました。

写真は、5月中旬に「山口県萩市」で開催された「聖火リレー」、そのフィナーレとなる点火式です。

山口県は二日間の行程で実施されたのですが、コロナで一日目は中止され、二日目のみの運営となりました。

実は勤め先がスポンサーになっており、山口県でのオリンピック担当が私でした。

ここまでにも諸々のオリンピック関連イベントがありましたが、コロナ報道によって前日まで、運営が二転三転しました。

可哀想なことに、地元の高校生によるパフォーマンス等が、ばっさり中止されるのです。

さんざん練習したでしょうに。

今日のイベントでは、「書道パフォーマンス」が無事に催されました。

会場での入場制限があり、観客は限られましたが、父兄らしき方々が泣きながら観ているのに、思わずもらい泣きしました。

最近の世の中で怖いと思うのは、「清算主義」が横行していることです。

リスクを取りたくなければ何もしない、無くしてしまうのがのが一番です。

しかし積み上げたプロセスまでなくしてしまう、全否定的な考え方が、社会において良いことなのか。

何事にも挑戦することには、リスクは伴います。

数量的な分析・判断が曖昧なままで、理念のみが先行し、それを周囲に押しつけようとする危うさは、人間から寛容さを奪うように思います。

オリンピックは、参加選手のために開催されればいいし、コロナを危険に感じる方は、外出せずにテレビ観戦すればいいと、シンプルに思うのですが・・・。

最後の写真は、別のスポンサーの広宣用のイベントトレーラーです。

うちのは「赤」で、これが4台、聖火ランナーの前後を走ります。

偶然にも、帰りの給油でご一緒することになりました。

お互いにお疲れ様でした。

 

2021年8月14日土曜日

西大寺駅


奈良県にある「西大寺駅」のすぐ脇にある踏切から撮影した光景です。

鉄道オタクの間では、線路の分岐点が多くレールの複雑さで有名な駅となっています。

いろんな方面からの列車が集まる駅なので、この踏切の脇で撮影のタイミングを待っていても、ひっきりなしに列車がやってきて、なかなか遮断機が上がりません。

上がってもすぐに閉まるので待っている車・バイク・自転車・人の動きも極めて迅速です。

立ち止まって撮影とかしようものなら、間違いなく背後から何かに引かれます。

これも早足で移動しながらの撮影でした。

踏切場所でも線路はひし形になっており、踏切を過ぎた地点でもまだ多くの路線が合流しているのが見てとれます。

この踏切は、線路達が合流する途中の地点に過ぎないことに気がつきました。

うまく撮れるまで何往復かしたので、小一時間は踏切周辺にたむろしていたことになります。

不謹慎ですが、「飛び込み」で逡巡しているように、周囲に見えていないかとの思いが浮かびました。

通報されないか思ってしまい、途中でドキドキしてしまいました。

過去にそういうことがあれば、同様に巻き込まれる可能性があります。

何かに、自分のレーダーが反応しなかったのは幸いですが、今回ばかりは反省しました。

名前の由来である「西大寺」は、「東大寺」と並ぶ寺院だったのですが、命脈を保っているとはいえ、平安京遷都後(奈良→京都)に衰退してます。

前に触れましたが、意外にも打ち捨てられている遺跡とか多いように思う地域だけに、余計に軽率でした。

2021年8月7日土曜日

プロジェクションマッピング


長崎県「ハウステンポス」。

自主的に行きたかったわけではありませんが、家族旅行に加え、仕事の引率旅行等で、複数回訪れております。

写真は夜のショーである「プロジェクションマッピング」を撮影したものです。

情報としては、「◯◯駅に投影された。」とか、「東予地域イベント◯◯物語で、工場に映ったおっさんの顔が不気味だった。」など、いろいろ耳にしますが、実際見るのは初めてでした。

まもなくというので、地ベタに胡座をかいて座って待つことにしました。

すると、いきなりの大音量、「プリンスのバットダンス」で始まりました。

ビートと、光の点滅がうまくシンクロしてます。

好きな曲かつ懐かしい曲でもあったので、すっと映像の世界に入ることが出来ました。

ピンクの色調が急に黒くなり、映像のキャラクターが突然登場して、ストーリーが展開されます。

計算されているからとはわかっていても、立体の建物が平面の画面に見えるのに、不思議な違和感を感じます。

三次元と二次元の間を、行ったり来たりする不思議な錯覚があり、頭の疲れる体操をしているようです。

ライブとかにあまり行ったことがないのですが、それでもつきあいで参加したことがあります。

あの「光と音の空間」に閉じこめられた感覚に似ています。

今回ふっと、これを取り上げようと思いたったのは、コロナでイベント運営が難しい中、適度な空間でライブ感を演出するのに、この手法がもっと活用出来ないのかな、と思ったからです。

人はそれなりにいても、屋外のため、密にはなっていません。

好みは別として「賑やかし」への工夫は、コロナ禍の活性化として、本当に大事なってくると思います。

2021年7月31日土曜日

鉱山列車(湯ノ口温泉)


故郷の新居浜にあった「別子銅山」には、ずっと興味を持っていて、母親とその頃の話をたまにします。

閉山になるまで、祖父母や叔父が勤めていました。

自分も小さい頃に、その社宅に住んでいたことがあり、記憶がおぼろげながら残っています。

しかし、その近所を走っていた「別子下部鉄道」の記憶がないのです。

母親と手をつないで、それに乗って銅山から帰ってくる祖父を、迎えに行っていたらしいのですが、光景が全く浮かびません。

この当時は「鉄道オタク」でなかったからかもしれませんが、残念でしょうがありません。

小学生になっても、「別子銅山」の歴史を展示している「別子記念館」には、友達とよく遊びに行っていました。

そこには、「駕籠列車(かごれっしや)」が、野外展示されていました。

乗客を乗せるために、箱型にしたトロッコ列車のことです。

乗車出来たので、仲間と入り込んで、カードゲームをしたり、駄菓子を食べたりしてました。

妙に楽しかったです。

そんな淡い想い出に、サプライズがありました。

三重県でも、奈良県との県境に近い山間部にある「湯の口温泉」を訪れたときです。

なんと、「鉱山列車」が現役で頑張っていたのです。

短い距離ですが、大型の駐車場から、小山のトンネルを通過して、温泉施設まで人を運びます。

乗客が座るトロッコは、しっかり駕籠列車になっていて、それに乗り込みました。



乗り心地は悪く、ガタガタ音が反響しぱなっしです。

ただ、母親の言っていた、銅山の地下を走っていた「別子山村へ抜けるトンネル」は、こんな感じかなと、その体感が嬉しくてたまりませんでした。

最初の写真は、ひとっ風呂浴びて始発駅に戻るときの、正面からの雄姿です。

うずくまるような無骨さに「買えないかな。」と、思わず妄想してしまいました。

多くの列車を見てきましたが、今まで生じることのなかった「所有欲」が芽生えたことに、自身で驚いた次第です。

そうそうここのお湯の話です。

源泉掛け流しの「秘湯」としてそれなりに有名なのですが、単純泉であったせいか、列車のインパクトが強すぎて全く記憶に残りませんでした。



2021年7月24日土曜日

鹿の谷(温泉)


北海道の中央部に位置する「大雪山」を南から目指していたときです。

目当てにしていた趣ある建物があるという「幌加温泉」に到着しました。

しかし地図が古かったせいか廃業されてました。

ふと山のほうを見ると、写真の通り「鹿の谷」と名前のついた建物があり、ここも温泉施設でした。

入口のすぐ脇に、鹿の全体剥製が置かれています。

ビックリしたのは、湯船が3つピッタリ並んでいて、それぞれが源泉掛け流しの別成分のお湯だったことです。

手前からナトリウム泉(薄緑)・鉄泉(黒)・カルシウム泉(白)となっており、どれも濃厚です。

浴槽の成分付着もそれぞれの特徴が出ていて、それが同じ空間にあるのが不思議な気がします。

一つの宿に異なる泉質の浴場が別々にあることがありますが、同居しているのは経験がありません。

しかも混浴です。

女性はいませんでしたが、なんと3人のLGBT系の方が、先客でいました。

スキンヘッドで、アンダーヘアがイタ車の「マセラッティ」の紋章のようにカッティングされています。

そういう方々については仕事でご一緒することもあり、もう許容範囲です。

しかし素っ裸でご一緒するのは如何なものかと困惑しました。

今後は、第三の浴場が必要かもしれません。

そんな妙な緊張感の中で、それぞれが最高のお湯を堪能しました。

更にビックリにおまけがあります。

なんと入口の鹿は本物でした。

さっきと同じような場所にいて、突然急に動き出したので腰が抜けそうになるほど驚きました。

もう一つの写真は、本来の目的だった旅館の建物です。

廃墟ですが、往事を忍ぶ雰囲気は残っていて、これにはほっこり出来ました。


2021年7月17日土曜日

長谷寺


写真は、奈良県「長谷寺」にある「登廊(のぼりろう)」の入り口です。

屋根付きの階段で、「下登廊」の最下部に当たります。

上がっていくと折れ曲がって「中登廊」と続き、山上にある本堂へ向かいます。

初夏の日差しが、特に強い日に伺いましたので、屋根の存在は非常に快適でした。

暑さ除けのみならず、眩しくないので、周囲の景色もよく見えます。

徐々に高度が上がっていくので、麓から続く伽藍が様々な角度でジオラマのように見渡せ、よく絵画展とかの題材になっているのがわかる気がします。

創建ははっきりしませんが、天武天皇の頃からポツポツ出来始めたらしく、奈良時代初期には体裁が整っていたようです。

しかし複数回消失しています

国宝に指定されている「本堂」を中心に、多くは江戸時代以降の再建で、近世の建築様式として評価されている姿だそうです。

お驚いたのは、最後にお目見えしたご本尊です。

国重要文化財「木造十一面観音像」で、室町時代末期に10メートル近い大木を削って作られています。

デカいため、仰ぐように拝むことになる、ご尊顔の「顔圧」が半端ありません。

今まで拝してきた十一面観音像は、全体の装飾美に目がいく傾向があったのですが、今回ばかりは「顔面の大きさ」しか全く印象に残りませんでした。

大晦日の紅白で、「小林幸子」が似てると言われたゲームの「ラスボス」のことを思い出しました。

実物を見てないのですが、こんな感じかなと、勝手に連想してしまいました。

2021年7月10日土曜日

檜山城


「檜山城」は、秋田県能代市南東部に位置する、中世から続く大規模な山城です。

ここの最大の特徴は縄張りにあります。

つま先が南を向いた馬蹄形をしています。

南に向かって両サイドの郭(くるわ)が段々と高くなっていき、三の丸・二の丸・本丸として最頂部で繋がるような構造をしている、非常に珍しいものです。

写真は北側の窪地に登ってきたときのものです。

ここから車を降りて、一番低い右側の郭から登城していき、そのまま一周するように、帰りは反対側の郭群から戻ってきました。

石垣はありませんでしたが、高低差が思った以上にあり、尾根状の郭から下は崖に近い状態になっていたので、攻略はなかなか厳しいかと思います。

代々「檜山安東氏」の居城でしたが、戦国期は同族であり、南部の秋田市方面を基盤とする「湊安東氏」との、統一化を巡る「湊合戦」にて、この城で籠城戦を展開します。

そこを持ちこたえて反撃に転じ、逆に統合する形で「秋田氏」を名乗ることになりました。

しかしその後は、「関ヶ原」で負け組となった「佐竹氏」と国替えして、今の茨城県(旧:常陸国)に移っていきました。

そして一国一城令で廃城となり、その使命を終えました。

おかげで、今でも綺麗な遺構を残している貴重な城といえます。

2021年7月3日土曜日

松山市郊外


松山市に居を構えて5年がたちました。

仕事も含めて生活していく中で、道後平野の豊かさを感じることが多いです。

前に「千葉県船橋市」に住んでいたとき、「佐倉市」にある「国立歴史博物館」を訪れたことがあります。

「国立」がついているだけのことはあって、教科書とかに挿入されている、当時を再現した模型の多くがここにあることを知りました。

その中に、江戸時代に名字帯刀を許された「豪農」を説明したコーナーがあり、その邸宅を再現した模型が展示されていたのです。

その代表的な地域として道後平野が紹介されてました。

大きな通りから一つ裏の通りに入ると、今でも写真のように大きな構えを残した家を目にします。

中の邸宅は現代風になっているところが多いですが、うまく調和されていると思います。

車庫に利用されたりもして、好みの車が収まっているのを、通り過ぎながらチラ見できると、グッときました。

その前面には、青々とした水田が広がっており、生きていくうえでの「確かさ」みたいなものを、つい感じてしまいます。

比較するのも何ですが「デルタカフェ」周辺で、増えていく休耕田を目にすると、何とか出来ないかなと、ついつい考えてしまいます。

2021年6月26日土曜日

洲本城


名前の通り淡路島の洲本市にあります。

全くわからない写真をアップしてしまい、大変すみません。

山並みの一番高い、少し突き出た箇所が天守閣となります。

しかも展望台を兼ねた模擬天守です。

しょぼくて少し残念ですが、山頂の好立地にあるため、そこからの海と町並みが拝める景観は、実に素晴らしいです。

その道中に麓から垣間見える石垣も実に見事です。

「登り石垣」と呼ばれ、「大洲城」を築いた「脇坂安治」の手によるものです。

石垣フェチでドライブ好きの自分にとってはたまりません。

車で楽に行けて、総構えの石垣を堪能出来る山城はほとんどありません。

近いイメージだと兵庫県の「竹田城」ですが、最近は人気のため渋滞がひどくて、簡単には行けなくなりました。

その点ここはゆったりと満喫出来ます。

愛媛県と京阪神を結ぶ道中のため、この辺りは結構ウロウロするのですが、最近気に入っているのが、浜辺からの景観です。

町中の旅館街から少し歩けば行けます。

波打ち際の背景として、模擬天守がいい目印になり、海城としての威容も感じることが出来ます。

ただ模擬天守としては日本最古らしく、遺構がはっきりしないまま中途半端に再現されるよりは、かえって潔いかもしれません。

意外にいい仕事していると見直しました。

2021年6月19日土曜日

其中庵(ごちゅうあん)



「種田山頭火」の住処であった「其中庵」です。

「新山口駅」の近くにあります。

自由律俳句の詩人で旅人でもあることから、「自由人」として、世間では認知されていると思います。

が、先にこの方の生涯を知ってしまった自分としては、暗いイメージしかありません。

近くの「防府市」の大地主の長男として生まれましたが、十歳のときに母親が、父親の芸者遊びを苦にして、自宅の井戸に投身自殺をしてしまいます。

これが決定的な出来事でした。

大学に進むも神経衰弱で中退し、事業をするも失敗。

結婚するも、父親の失踪、破産、弟の自殺、離婚、震災、と絵に描いたような転落人生です。

この庵も自殺未遂で離れます。

ここから先は長い旅というよりも、放浪中に詩を詠んでいたように感じます。

帰る場所が定まらない放浪とはどれだけ苦しいものなのか、映画「砂の器」で親子が海岸線を歩く様が、イメージとして浮かぶだけです。

最後は、愛媛県松山市にある「一草庵」にて亡くなります。

俳句の盛んなこの地だったからこそ、評価され後世に名を残してますが、道中で野垂れ死んでいたら、果たしてどうだったでしょうか。

一番大好きな句を一つ、「うどんをそなえて 母よ私もいただきまする」

家族を想う気持ちの大切さを痛感します。


2021年6月12日土曜日

上之国館跡


北海道の「江差」に近い「上ノ国町」にある中世の城跡です。

倭人が蝦夷地に進出していった初期の拠点で、「道南十二館」の一つでした。

以前取り上げたアイヌ人が蜂起した「コシャマインの乱」において、最後まで倭人側が守り抜いた二拠点の一つです。

ここで踏みとどまった「蠣崎氏」が、のちの「松前氏」となり、大名として発展していきます。

前にも伺っていたのですが、夜になってしまい、登城することが出来ませんでした。

ずっと心残りだったのですが、漸く日中に訪れることが出来ました。

このときもあいにくの雨だったのですが、濡れながらも大手門の入り口にたどり着いたとき、写真の景色を目の当たりにして、この霧雨はラッキーだったのだと感じ入った次第です。

自身の空想ではない現実世界に、タイムスリップした空間が出現していたと思いました。

木で作られた防護柵である「逆茂木」が張り巡らせている以外は草むらしか見えません。

このまま進めば柵の奥に潜んでいる兵士の弓矢に射られそうです。

妙に緊張して、周囲を見回しながら奥に進みました。

柵の奥には町並みの遺跡が保存されており、当時の様子を垣間見ることが出来ます。

中国の磁気や瀬戸の陶器も多数発見されていて、交易も盛んだったようです。

当時の北国経済圏に対して興味はつきません。

いろいろと見聞を広めていきたい領域です。

2021年6月5日土曜日

ミッドナイトスワン

 


元スマップ「草なぎ剛」が、トランスジェンダー役で、主演した映画「ミッドナイトスワン」を観てきました。

泣ける作品でした。

踊りのモチーフである「白鳥」が、複雑で不幸な人間模様を介し、いろんな視点で取り上げられていて、バレエの踊りが心に染みたのは、初めての経験でした。

そして映画の舞台の多くが「新宿」で、懐かしい光景が展開されていました。

写真は、早朝の「新宿駅」の「南口」から出て、「東口」に向かう通りの一つです。

紛らわしいですが、背景の霞んだ建物は「西口」の高層ビル群の手前にあります。

最近建てられたようで、昔はありませんでした。

学生時代は「八王子」に住んでいたため、都心部に出るときの玄関口が「新宿」でした。

いつも人の多さにうんざりしつつ、小汚いイメージが常にありました。

ここで深夜に、居酒屋の厨房でバイトしていたこともあります。

終わって始発に乗り、家に帰るときの気だるい記憶を、主人公の女性名である「凪沙(なぎさ)」が、町中をさまようように歩く雰囲気を観て、しんみり思い出しました。

思い悩む次元は全く違いますが、つい共感してしまいました。

2枚目の写真は、「新宿コマ劇場」があった界隈の風景です。

数多くの映画館にお世話になったエリアだったのですが、高層ビルに立て替えられたり、更地になったりと、景観が一変してました。

寂しい限りで、もうここに来ることはないように感じました。