2023年9月30日土曜日

軍師「竹中半兵衛」とその後


写真は「竹中半兵衛(重治)」の像と、「竹中氏陣屋」の櫓門です。

「豊臣秀吉」の軍師として名高く、もともと麓(ふもと)の陣屋の山頂にあった「菩提山城(ぼだいやまじょう)」を居城としてました。

「岐阜県」の最西部に位置し、戦国大名「斉藤氏」の時代から、この一帯を所領としていました。

「秀吉」に「三顧の礼」で迎えられて家臣となり、有能ぶりを発揮されていましたが、残念ながら「播磨攻め」のときに陣中にて病没します。

享年36歳。

その後を一人息子の「重門」が6歳ながら、叔父の後見を受けて家名を保ちます。

「秀吉」が天下統一を進めていく中で、領地はこのまま据え置かれます。

そして「秀吉」の死後に、何と天下分け目の「関ヶ原合戦」が、自領の「関ヶ原」で展開されることになりました。

ところで、「秀吉」の軍師で有名な方は二人いて、「両兵衛」と呼ばれます。

彼と、そのもう一人は「黒田官兵衛」です。

実はその息子同士「黒田長政」と「重門」は幼なじみで、「播磨」からのつながりがあります。

その声かけもあってか、「長政」の傘下で東軍として合戦に加わり、勝ち組として本領安堵されました。

石高は6000石であるため、大名にはなれませんでした。

それでも江戸時代は「参勤交代」をする格式を与えられた旗本である「交代寄合」として、無事に幕末を迎えます。

戦国から幕末にかけ、しかも天下統一に向けて戦場となることが多かった地域にあって、領地が変わらなかったのは奇跡としか言いようがないです。

一族は現代まで続いているそうです。キープ力の凄さをつくづく感じました。

 

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