2024年4月27日土曜日

福山城


広島県福山市にある「福山城」。

何度も訪れていますが、最初の出会いは偶然かつ衝撃的でした。

大学受験のときです。

このときは「瀬戸大橋」がまだ開通してませんでした。

そのため当時は、海路にいろいろなルートが存在し、地元「新居浜」と「福山」を結ぶ水中翼船のルートがありました。

父親の引率で、まだ真っ暗な早朝に「新居浜港」を出発したのを覚えています。

録音したラジオを聴きながら、参考書を片手に、「ながら勉強」をしてましたが、到着前に日の出を迎えました。

神々しく海面が照らされるのを眺めながら、幸先の良さを感じた次第です。

「福山港」に着いて、新幹線に乗るべく「福山駅」に到着。

そしてフォームに上がってビックリです。

道路を挟み、城の高い石垣が隣接していました。

「天守閣(再建)」や「伏見櫓(重文)」の構造物が、新幹線のフォームと石垣の高さが近しいため、水平に近い角度で展望出来ました。

こんなアングルで、お城を眺めるのは初めてです。

行きたかった城をサプライズで眺められ、ラッキー度が上がってきている気がしました。

不安定な自分の学力に、運気を呼び込めるよう天守閣に手を合わせたのを思い出します。

その後は、親にはいろいろと叱られましたが、何とか浪人しないですみました。

写真は、社会人になって「青春18切符」でウロウロしていたときに撮った一枚です。

近世城郭としては最終期の築城となりますが、有名な城主として、幕末の老中首座「阿部正弘」がいます。

激務も祟ったのでしょう。

39歳で亡くなってしまいますが、「黒船来航」以降の、幕府近代化に向けての様々な取り組みを行いました。

維新を迎えて、朝敵となってしまい、新政府軍との戦場にもなりますが、天守閣を中心とした本丸は、現存してました。

しかし第二次世界大戦の空襲で消失。

その後、文化ゾーンとして憩いの場となっています。

振り返ると、受験のときに拝んだことは、何かにあやかれていたような気がします。


 

2024年4月20日土曜日

萩城跡


「科学忍者隊ガッチャッマン」がやってきたのかと思いました。

少しうつむくような姿勢で、溶けるのを気にしながら、ソフトクリームをなめてました。

そのとき視界に入っていた地面に、突如と黒い影が舞い降りたのです。

そのアニメの大好きだったシーンがオーバーラップしました。

何と頭上を飛んでいたトンビが襲ってきたのです。

ソフトを狙ったらしく、握っていた左手首に体当たりされました。

幸い爪で引っかかれるようなことはありませんでしたが、衝撃でソフトを落としてしまい、地面がグチャグチャです。

しかも場所は、写真にある「萩城」の大手門の前・・・。

おっさんが一人で、ソフトクリームを食べていること自体、絵面としてかなり痛い光景です。

そいつが観光地のど真ん中で、落としてベチョベチョにしているのです。

加害したトンビも現場から飛び去っていません。

事情を訴える状況すら奪われました。

襲われた驚きもあり、どう片付けようかと、しばらく呆然と立ち尽くしてしまいました。

しかし天使が現れました。

近くにいたガイドのおばちゃんが小走りにやってきて、「コロナで観光客が少なくて、トンビがお腹をすかせているの。勘弁したげて。片付けといてあげるから。」と助けてくれたのです。

城には既に何度か来ているので、深々とお願いしてその場を立ち去りました。

ここは「関ヶ原の戦い」で敗れた後の、江戸時代の「毛利氏」の本拠地です。

天守閣もずっと残っていたのですが、残念ながら明治になって取り壊されました。

しかし石垣はきれいに残っています。

砂浜からの城山を眺める景観は、昔のままの絶景かと思います。

思い出しながら書いてても動揺してます。

毛利氏の話はまた改めてさせて下さい。



 

2024年4月13日土曜日

玉簾の滝(たますだれのたき)


山形県酒田市の北部、秋田県との県境にある「鳥海山」の南側に位置します。

約1200年前に、不動明王のお告げによって弘法大師が発見したそうで、パワースポットとしても有名だそうです。

伺った頃は、そのような言葉もまだなかったように思いますが、駐車場に停めた時点で、その霊感高らかな雰囲気が伝わってきました。

意外だったのは、滝までの道程がほぼ平面だったことです。

滝のサイズとしては、高さ63m、幅5mとそれなりの規模ですが、岩陰とかの遮るものが全くないのです。

滝の眼前に多くの杉木立こそありますが、フラットに林立して、遠方からでも滝が綺麗に拝めます。

そのまま滝からのマイナスイオンが、ここまで届いているからだとわかります。

季節は冬景色になる直前で、落葉樹の葉っぱはほとんど落ちて、裸の木々の状態でした。

滝の形態は、〝直瀑〟と呼ばれるらしく、見事に上からストンと落ちています。

写真の通り、重力に逆らうことのない垂直な景観でした。

そのままスタスタ歩いて行くと、滝が発しているミストが漂ってきました。

近づくにつれ、そのサイズは増していき、水滴となっていきました。

お肌ツヤツヤ、天然の美容液だと実感します。

当然ながらマイナスイオンの濃度も増していきます。

霊験と美容が渾然一体となる感じは、初めてのことでした。

次回に来るときは、奥様をご案内したいと思います。




2024年4月6日土曜日

神田川


大好きな「かぐや姫」の曲名にもある「神田川」。

以前「東中野」に住んでいたとき、マンションのすぐ近くをこの川が流れていました

住宅街の隙間を縫うように流れてましたが、曲のバイアスもかかってか、非常に趣を感じていました。

昼夜問わず、思い立てば軽くランニングしたりとか、散歩がてら食事処(ラーメン屋が多い。)を探したりして、いつもウロウロしてました。

川のルートは、「東中野」のある新宿北側から、「高田馬場」まで北上し、そこから東に向かって「JR中央線」に沿うように合流して、最後は「隅田川」に注ぎます。

写真は、東に向かい始めた「目白台」から「江戸橋」辺りの川沿いの桜です。

このときは千葉の「西船橋」に住んでいたのですが、仕事の関係でこの辺りに立ち寄りました。

丁度花見の時期で満開の桜に見惚れました。

思い起こせば、神田川沿いは桜の名所です。

座って花見を出来る場所はありませんでしたが、ビール片手に飲みながら、これも昼夜問わず散歩してました。

なくなればコンビニで補充し、更に進みました。

今回は飲むわけには行きませんでしたか、あのときを思い出しつつ、時間の許すまで花見を楽しみました。

まさしく、リメンバーが似合う神田川です。


2024年3月30日土曜日

桜とデルタ


天気の良い桜が満開の時期でした。

このときに気がついたのですが、今まで「ランチアデルタ」を、桜と一緒に撮影したことがないのに驚きました。

桜の臼桃色に、デルタの「血の色」が非常にマッチングしてました。

車のボディの真ん中を走る「青と黄色」のサンドイッチラインが、刃渡りのようにも感じ、ぶっちゃけ「切腹」を連想してしまいます。

そう思うと、桜の「儚さ」をより強烈に感じました。

ここは「四国中央市」にあるお寺の桜なのですが、この向かいに「助産医院」があり、娘はココで生まれました。

深酔いして帰った日に、予定よりも早く産気づかれ、あわてて深夜に向かいました。

嫁さんよりも自分が気持ち悪くて、トイレに立てこもってしまい、勘違いした助産婦さんが、トイレの前で私の番をしてくれてました。

陣痛なのにほっとかれた嫁さんは、未だにこのことで、私を時々イジります。

そんなこともあり、通院しているときに、ここに立ち寄り、和尚と仲良くなりました。

車好きの方だったので、真っ先にこの車に反応頂き、その後交流させて頂いている次第です。

しかし松山に越し、県外に転勤してからあまり伺えていません。

近いうちに、久しぶりの車談義と、花見もしたいものです。

もちろんデルタに乗ってですが。

2024年3月23日土曜日

鞠子宿


「東海道五十三次」の20番目の宿場町として有名です。

静岡市西部にあり、〝まりこじゅく〟と読むそうですが、丸子の字も当てるそうです。

何故、そんなに有名なのかと言えば、浮世絵師「安藤広重」が手がけた「東海道五十三次」にて、この写真の建物がほぼそのまま描かれているからです。

しかも〝とろろ汁〟の説明書きまであります。

この建物の店名は「丁子屋」。

慶長元年(1573年)の創業で、日本最古のレストランとも呼ばれています。

歴史作家の「司馬遼太郎」も、この店を好意的に取り上げてました。

高速の東名で素通りしやすい地域で、なかなかついでに立ち寄りにくいのですが、昼食時を狙って
伺いました。

観光バスも乗りつけており、かなりの人手でした。

予想通りですが、多くの方を案内できる離れがあり、そこに通されました。

シンプルなメニューで、とろろとお櫃のご飯に少々の漬物、以上です。

結構いい値段する分、容量は多めで、4、5杯はありそうです。

でも、そんなに〝とろろ〟をかけただけのご飯を食べれません。

3杯目の途中から気持ち悪くなりました。

隣にいた夫婦連れも、会話から同じ反応でした。

車だったので、ビールとかで紛らわすことも出来ず、完食はあきらめました。

創業時の献立を律儀に守っておられるのかもしれませんが、現代人には厳しいかと。

リピーターとかいるのでしょうか?

その後なかなか苦しい腹持ちのドライブとなりました。

粗利は相当高いと思います。

2024年3月16日土曜日

北斗星


何とか廃止前に乗車することが出来ました。

豪華寝台列車の代名詞「北斗星」です。

「上野駅」の最も左側フォームにある、寝台列車専用の「13番線」に入線してきたところを収めた一枚です。

牽引機関車「EF81」の赤いボディが目映く感じます。

「(日本の)北の玄関口」と呼ばれる「上野駅」の、夕刻の雑踏はすさまじいものがありますが、このフォームだけは別世界です。

時間の流れが違います。

多くの「撮り鉄」のシャッター音を聞きながら乗り込みます。

北海道の「札幌駅」に一晩かけて向うのです。

季節は夏の時期だったので、日が暮れるまで数時間あります。

部屋に荷物をおいて、すぐに食堂車に向かいました。

洋食のコースにしてます。

値段は張りますが、仕方ありません。

まさしく「一期一会」の心境でした。

予定されている「北海道新幹線」の開業や、老朽化も含めた「廃止」が噂される中、これが最初で最後の機会となると思いましたし、実際そうなりました。

既に、一般の「ブルートレイン」の食堂車は廃止されている時代でした。

私にとって、食堂車での食事自体がそもそも初体験なのです。

豪華に見える調度品でデコレートされた食堂車内を見回しつつ、夕焼けに染まる車窓を眺めながら、ビールを飲みました。

自分史上、一番旨い味に感じました。

今のところ、鉄道に関わる人生において、このシチュエーションが絶頂です。

これを超える体験をするには海外に向かうしかないかもしれません。

それでも難しいと思いますが・・・。

2024年3月9日土曜日

大瀬崎


 またまた西伊豆です。

〝おせざき〟と読むそうです。

このブログを書くときに初めて気がつきました。

伊豆半島を矢尻に見立てた場合、西側の付け根のとんがった場所になります。

内海と外海が交錯する海域らしく、透明度の高い海水浴場と、スキューバダイビングも盛んなスポットらしいです。

写真のように夕映の富士山が拝めました。

よく「赤富士」と呼ばれますが、それ以上に空や海が真っ赤になることで、照らされて赤くなるのだと、堤防越しの景色を眺めて実感します。

周辺は自分も含めて〝赤一色〟。

延々と写真を撮ってきた最終ポイントがここになり、写真にある小さな灯台とのツーショットを見納めにして、帰路につく感じです。

駐車場も広いせいか、人も集まっていました。

カップルが多いです。

このまま自分は帰りますが、みなさんこの後どこに行くのだろうと、ついつい下衆の勘繰りをしてしまいます。

ここから北に進むと「沼津市街」に入ります。

お寿司が美味しいと評判の地域なので、夕食がてらつまんで帰ろうといつも思うのですが、一度も行けてません。

上がっていたテンションがここで下がるせいか、渋滞が凄いとの評判もある市街地を敬遠してしまい、そのまま疲れて帰ってしまいます。

「駿河湾」は海溝に続いていて、深い海になっており、深海魚も含めた多種多様の魚が獲れて、ネタが豊富だそうです。

ただ、この地域を話すネタは尽きた感じなので、次回はお寿司を食べたときに紹介出来ればと…。

いつのことやらですが。



2024年3月2日土曜日

大洲城2


 以前に桜の時期を取り上げましたが、冬景色もたまりません。

眼前を流れる「肱川」との対比で、「天守閣」の存在は際立ちます。

実は城好きの立場として、天守閣の再建にはどちらかと言えば、反対の立場です。

周辺も含め、時代考証を無視した建造物が出来上がることで、もともと長年の史跡として培われた〝味〟と言うか、風情みたいなものがかき消されてしまうリスクがあるためです。

しかし、このように再建天守とはいえ、木造かつ当時の模型を参考にしての忠実な再現であれば、唸るものがあります。

地元の関心や熱意が加わって、今まで見てきた建設会社任せの築城とは方針が変わってきているとも思えるので、自分の考えを変える必要があるかもしれません。

調べるとその建設費16億円のうち5億円は市民の寄付で集めたとのこと。

熱量の多さに圧倒されます。

また宿泊サービスの開始には驚きました。

一組限定の一泊55万円と高額なプランですが、重要文化財の現存2櫓を含めて、1日城主になれるなら、意外とお値打ちなのかもしれません。

鎌倉末期から、伊予国守護「宇都宮氏」が前身の「地蔵ケ岳城」に居城し、この城の歴史は始まります。

更に戦国時代を経て、築城名人の「藤堂高虎」や「賤ケ岳七本槍」の「脇坂安治」の入城、更に「加藤氏」により幕末までと、約650年近い歴史があります。

天守閣に泊まって、そこから肱川に浮かぶ月が眺められたら最高に思えます。

いつかがあるか自信ありませんが、そのときは高級周遊列車と比較検討したいと思います。

2024年2月24日土曜日

釜石線


岩手県内の「花巻」から「釜石」を結ぶ「釜石線」。

路線自体は、東北地方の内陸部から太平洋へ抜ける路線の中でも、早い段階で完乗してます。

が、接続の不便な三陸側を完乗するためには、太平洋側の「釜石」を起点にする必要があります。

そのため、東北地方を東西に結ぶ横断線としては、何度も往復することになりましが、見応えが多い路線で飽きるようなことはありませんでした。

特に印象に残るのは、「釜石」から「花巻」に向けて東北本線に戻るときです。

「釜石駅」から西の進行方向を見ると、急勾配の山に向かって線路が伸びており、ここを下ってきたのかと、圧倒されます。

その途中に、以前取り上げた「滝観洞(ろうかんどう)」のある「上有住駅」や、「カッパ淵」の「遠野駅」とかの名所も多く、途中下車も楽しみました。

中でも記憶に残っているのは、写真の光景です。

「遠野駅」から「猿ヶ石川」沿いを進むところで大きく川が蛇行していきます。

線路は橋でここを突っ切らないので、そのままの自然が残された景観です。

この辺りは、「前九年の役」で滅亡した「安倍貞任」関連の館跡が点在しており、大和朝廷に服属する以前の世界が拡がっているように感じました。

凍てついた冬景色を眺める車窓越しに、当時「蝦夷」と呼ばれた方々の勇壮な生活が浮かんできます。

「はるばる来たぜ!」感のある、旅の醍醐味を大いに味わえる路線と言えます。

2024年2月17日土曜日

木次線


岡山県から島根県に向かう「木次線」のスイッチバックです。

以前にも取り上げましたが、ここも「三江線」に続き廃線の危機です。

トロッコ列車「奥出雲おろち号」が運行終了の予定となり、観光客を呼び込む目玉がなくなろうとしてます。

山口の下関在住のときも、青春18切符を使って何度か木次線の周遊を間絡んだのですが、途中路線の遅延等で、果たせませんでした。

各駅停車なので運行が遅れるのがやむなしとはいえ、ただでさえ本数が少ない路線の出発に対しては、かなりの接続への配慮をして欲しいものです。

これでは乗車率が上がるわけがありません。

観光目的として現地に、観光バス等で向かう前提となると、住民の日常の足ではなくなります。

最近、中国地方と九州地方の内陸線は、その存続について様々な議論が出ており、非常に危機感を覚えます。

公共としての機能を考えたときに、今の収益基準で存続を判断していいものか、危惧せざるを得ません。

最近の日本の不確定な災害状況を考えることと、道路と鉄路による併用化を検討することは、密接な関係があると考えます。

複数の交通手段が運用出来る体制を維持しておくことは、国土の災害防衛上ますます重要になっているかと感じます。

特に車を運転出来ない方々の自律的な移動手段をどうするのか、更に高齢化が進む上で大きな課題です。


待合の時間に眺めるディーゼル車との雪景色が堪りません。

その袂に下の写真の水飲み場があり、さらに乙な雰囲気です。

廃線になっても残って欲しいし、そのときは、わざわざ確認に行くような気がします。


 

2024年2月10日土曜日

松江の運河



大阪・鳥取方面から、「松江市」に向かうとき、ついついこの道を選んで走ります。

国道から少し逸れた脇道なのですが、「中海」と「宍道湖」を結ぶ運河沿いのルートです。

「松江市内」に入ってきたと強く感じます。

風通しの良い地域でもあるので、四季の移ろいが敏感に伝わってきます。

道路の左側には「JR山陰線」も並走しており、運河と線路のすき間を縫うような道なので、昔から景観が変わらないのも嬉しいです。

写真の少し先に見える小島には、鳥居があり「神域」のようです。

どういう神様なのかわかりませんが、あまり興味が湧きません。

自分の霊感が心地よく反応する以上、突きつめるだけ野暮な気がします。

ここを通過するとき、いつも「神話」の地域であることを痛感せずにはいられません。

仕事で住んでいたこともあるので、週末には様々な史跡を訪ねてウロウロしましたが、「教科書級」の史跡が多いのには本当に驚きました。

それ以外に、あまり知られていない日本最古の史跡も、潜むように存在していて、とても得した気分になったものです。

車が運転出来る限り、飽きずに訪れる道だと思います。

写真を選んでいて、また行きたくなりました。


2024年2月3日土曜日

姫新線


岡山県と兵庫県の内陸部を結ぶ「姫新線」。

特急や急行の類は走っておらず、各停のみです。

接続も悪いため、全線制覇の過程として、完乗するのに手間取りました。

だからこそ味わい深い路線でもあります。

乗り鉄として、早く乗り切りたい気持ちと、いつまでも乗っていたい思いが、本数の少ないローカル路線ほど、複雑に交錯します。

今回も予定を消化し、最後区間を終着駅の姫路駅に向けて走破してました。

一面雪景色でしたが天気は良く、夕映えが雪にも投影して淡い黄金色となり、よりフィナーレが近づく旅情を引き立てました。

突然だったのですが、ボックス席の前に座っていた20代前半の女性が、メール(当時はガラケー)を見た途端、「あー、腹が立つ。」と手すりをバンバン叩き出しました。

向かい合う状況で、無視する間合いも取りにくいので、「どうしたんですか?」とさらっと聞きました。

「お騒がせしました。」の返事だったのですが、憤懣やる方ない雰囲気が伝わってきます。

「これもご縁でしょうから、この近辺の人間じゃないので、終点まで話ぐらい付き合いますよ。」
と、会話が始まりました。

どうも、この後会う予定だった彼氏が暴走族で、警察に捕まったそうです。

族の仲間からの連絡らしく、さすが姫路と思ってしまいました。

以前にも下車して姫路城に行く途中、チンピラの喧嘩をよく見かけました。

その話をすると、「それは姫路への偏見だ。」と笑ってましたが、彼氏は暴走族の頭らしく、今回も仲間がやらかしたことに、責任とって連行されたそうです。

あっという間に、姫路駅に着いてしまいました。

次の乗車の予定に一時間以上あり、もともと夕食の予定でした。

いいところがないか伺うと、近くに知り合いの店があるというので、そこに一緒に行くことになりました。

この人は、ここで食事する相手がおそらく捕まったのです。

その店で、知り合いに成り行きを説明し、ドリアを一緒に食べつつ、話の続きを伺いました。

出発の時刻になったので失礼しましたが、姫新線の余韻が全く残りませんでした。

変な旅となってしまいました。

またまた受けた姫路の強烈な洗礼でした。




 

2024年1月27日土曜日

伊豆の夕日


この車「クーペフィアット」に乗っている時、よく伊豆方面に向かいました。

特に東京方面からだと、渋滞を避けて早朝に小田原辺りから東伊豆に入ります。

先端にある下田を目指して走りますが、そのまま向かったり、途中から山側に右折して西に向かいました。

この辺りは、小さくても個性的な美術館が多くあり、食事するところにも事欠きませんので、昼過ぎまでのしばらくは、散策していることが多かったです。

午後の後半辺りから西伊豆をドライブします。

あまり開発されてない地域で、道路も狭いのですが、交通量も少なめのため、まあまあ快適にドライブ出来ます。

ドライブで目指す目的地はだいたい行っているのと、早い時間帯に東海道方面に向かうと大渋滞に巻き込まれてしまうため、焦ることもなく何となくダラダラと走ります。

最大のポイントは「富士山」に尽きます。

以前にも取り上げましたが、北上するにつれて近づいてくるのが堪りません。

しょっちゅう車を止めては撮影しました。

夕刻は、西日を受けて赤富士となるため、より赤さを求めることになります。

この写真は、その撮影中に振り返ったものです。

車の向いている先の延長線上で、まさに夕日が沈もうとしており、自然にこの構図が定まりました。

感じた衝撃が強くて、更に撮った写真を油絵にも仕上げるほど、印象が残りました。

西日本に住んでいると、中々訪れる機会がありませんが、また西伊豆をゆっくりとドライブしたいものです。

2024年1月20日土曜日

杵築の町並み


早朝に大分県杵築市にある「杵築城」に立ち寄りました。

河口の先端にありました。

「一国一城令」で、城としての主郭は取り壊されてしまいましたが、現在は模擬天守が建てられています。

それが、大きな河口から海に向けての景観に、極めて効果的なアクセントとなっており、天守閣としての見栄えの良さを感じます。

海岸線の近くに築城された城は、埋め立て等により、もともとの面影を失っているケースが一般的です。

ここは、往時の風情を感じることが出来ました。

小島だったところを、北側は城下町の建設段階で埋め立てられたそうで、近年の開発ではないからだと得心しました。

驚いたのは、写真のようにその城下町が立派に残っていたことです。

予備知識がなかったので、何故この場所に大規模な街が建設されたのかも不思議でした。

五奉行だった「前田玄以」を始め、数万石の大名しか居城しなかったはずです。

後で調べたのですが、商港として発展したからだそうです。

「七草表(しちくさおもて)」と呼ばれた「琉球畳」の素材となる草が、国東半島で生産されるようになり、出荷に対してここに集積されるようになりました。

商都してこの規模に拡充されていったようです。

確かに立派な坂道の名前には、商家の名称が多いと思います。

坂のアップダウンにより、街並みに立体感が生まれて、非常に奥行きを感じます。

城下町は、台地でも筋を通した平地になっているケースが多く、このような事例を始めて観ました。

散策も、鄙びた感じはなく、栄えた街の息吹のようなものが伝わってきました。

城跡探訪の途中で、良い拾い物をした旅でした。



 

2024年1月13日土曜日

すずらん号


北海道の「室蘭~札幌」間を主に走る特急です。

北海道は「花」の名称を冠して走る特急が多く、しかも継承されています。

調べてわかったことですが、「すずらん号」も、多くの車両につけられ、変遷していたのに驚きました。

私にとっての「すずらん号」は、この写真にある「781系」です。

少し丸っこく見えるボディに、うす紫のラインが入ります。

加えて、すずらんのマークが薄緑色に光り、夜の世界に非常に愛らしく見えます。

すずらんが、ひっそりと丸っこく咲いているイメージが浮かびます。

何でしょうか、スマフォのソリッドな明かりとは、全く違うのです。

この写真から見る明かりでも確実に癒されます。

当時は「夜行」がまだまだ多い時代でした。

北海道は特にその本数が多く、宿に一泊もしなくても、車中泊のみで周遊が可能でした。

「乗り鉄」にとっては夢のような時代です。

今はもう存在しません。

ただ欲を言うと、世代としては、定期運行している「蒸気機関車」は経験出来てません。

一世代上の方から当時を伺って、いつも羨ましく思います。

そんな過去への想いと情熱があるから、「鉄道ジオラマ」を作成するとき、いつも古めの時代設定になるんだろうと思います。

蒸気機関車は必須です。

スマフォの活用時間が増える中で、自分の体で体感して「記憶」しておかないと、「想い出」が生まれないと感じることが多々あります。

個人的には、人に見せたり、自慢するのは本質ではなく、どうでもいいことです。

このブログも、自分の「記憶」を「想い出」に昇華したくて、書いていると最近気がつきました。

実際、見てくれている人の数とか全く気になりません。

いい年なので「評価される自分」から、いよいよ決別する時期が来たと、最近思います。

 

2024年1月6日土曜日

椿の紋様と


 今年もよろしくお願い致します。

コロナ明けの最初の正月です。

デルタカフェも10周年を迎える年となります。

日頃のご愛顧本当にありがとうございます。

また、何もしてないオーナーとしては、運営を頑張った母様と妹様に感謝感謝でございます。

自身としては、子供の病気とかをきっかけに、一族で参画出来て、何か困ったことがあれば戻って来れる〝家業〟みたいな営みを作りたいと思ったのが、構想のスタートでした。

それに自分のやりたい趣向も加えて、具現化した舞台が、「デルタカフェ」の土台となります。

そこから先は運営者(母と妹とその他親戚)とお客様にて、この10年近くかけて築いて頂いた賜物だと、それがカフェの味わいになっていると、様子を伺いながらいつも感じ入っております。

写真は、長崎県の「五島列島」にある教会群で用いられている「椿の紋章」です。

ここの特産「五島うどん」は、同じく特産の「椿油」でコーティングされており、滑らかな独特の口当たり・喉ごしが大変美味です。

その椿は、カトリックが地域に土着していく中で、十字架と一体化するような紋章となっていきます。

隠れキリシタンとしては、直接的な紋章を隠す意味合いもありますが、自然に融合していったように感じます。

しかも金属でなく木で作られている点も、和様のイメージを強めて、より馴染んでいます。

強いコンセプトは、何かを起こすとき大事だとは思いますが、どう周囲と馴染んでいくかの粘り強い過程が、やりたいことの成否を分けます。

やりたいことの10年の流れは本当に早く、逆算でやりたいことを計画しておかないと、〝後悔先に立たず〟になりかねません。

これからも、面白そうなことを試行錯誤出来る店でありたく、引き続きのご愛顧よろしくお願いします。