久しぶりに訪れた「島原城」です。
小雨まじりの陰鬱とした天候でしたが、かえってこの城の雰囲気に合ってました。
天守閣はコンクリートでの再建とはいえ、眼前まで駐車場となっていて、直に車で乗り付けられるのはここしか記憶がありません。
総石垣と堀に囲まれた本丸と二の丸は綺麗に残っていて、その中心に聳え立っているにも関わらず庭がないのが不思議です。
下の写真の縄張り図をご参照下さい。
広大な範囲に築かれた城郭であることが、よくわかると思います。
平成2年に発生した「雲仙普賢岳大噴火」に際しては、自衛隊も含めた支援部隊の拠点として利用されたほどです。
舗装されているのはそのせいかもしれませんが、とにかく殺伐とした雰囲気は、前回訪問したときと変わりませんでした。
天守閣に「破風」がなく、西洋的な趣だからかもしれません。
迫害を受けたキリシタンが起こした「島原の乱」は、幕末を除いた江戸時代の最大の戦争と言えます。
その原因となった島原半島での大弾圧は、ここの領主である「松倉重政・勝家」親子が、この島原城を築くために、領民へ過酷な年貢の取り立てを実施し、年貢を納められない農民や、改宗を拒むキリシタンに対して拷問・処刑を行ったためです。
4万3千石の禄高で、この大規模な築城はあり得ません。
この経緯を知っているためか、どれだけの血を吸って大きくなった城なのか、どうしても恐怖を感じてしまいます。
近世の城郭は、特に為政者の権威を象徴する側面が強い存在ですが、ここほど「支配者」の畏怖を体現している城はないかと思います。
加えて、対岸の天草地方は、唐津藩領の飛び地であり、唐津城主「寺沢広高・堅高」親子が、キリシタンへの弾圧を行っており、双方のキリシタンが「原城」に合流して籠城戦が始まりました(勃発時に父親はなくなっているため、両家とも子供の代)。
「唐津城・原城」については、別の機会に取り上げたいと思いますが、乱終結後の処分については、松倉家は取り潰しで、勝家は斬首となりました。
大名が、切腹でなく斬首となったのは、江戸時代を通じてこの1例のみです。
寺沢家は、天草領を没収のみと比較的軽めでしたが、堅高自身は、江戸詰めで出仕は許されないという、生殺し状態に置かれました。
そのためか精神面を患って自害し、跡継ぎもいないため、同じく取り潰しとなりました。
そんなことを思い出しながら、高石垣の堀を除きつつ本丸の周囲を散策したせいか、何かに引き摺り込まれて落ちないように、相当腰が引けてたと思います。
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