2026年1月17日土曜日

廃仏毀釈(徳重神社)


鹿児島県日置市伊集院町にある「徳重神社」です。

鹿児島市から車で30分ほど、西北の方向に位置します。

写真の「手水舎(てみずや)」にも、島津家の家紋が大きく刻まれており、島津家とのゆかりが深いことは一目瞭然です。

しかし創祀されたのは、明治4年です。

何故こんなに新しいのか。

島津家は鎌倉御家人から続いているに。

以前のブログでも話題に出しました「廃物希釈」でお寺が消滅し、神社に変わったからです。

ここはもともと「妙円寺」で、今でも「妙円寺詣り」が運営されています。

大河ドラマ「西郷どん」の第一話に出てきた行事で、「関ヶ原の戦い」にて敵中突破をして生還した「島津義弘」の苦難をしのび、鹿児島城下からここまで詣でる行事です。

お寺のご本尊は「島津義弘公」の木像でしたが、今は神社のご神体となって祀られています。

鹿児島に着任するまでは、「廃物希釈」を当時の庶民による暴挙のように考えていましたが、薩摩藩の全体運動としての徹底ぶりに驚きました。

鹿児島市内の話になりますが、島津家の菩提寺だった「福昌寺」の跡地は、「玉龍高校」という進学校になっています。

ヤンキー漫画に出てきそうな校名だなと、失礼にも思ってしまったのですが、お寺の山号が「玉龍山」だったため、この名称になっているようです。

あらためて不届きな錯覚をしてしまい申し訳ありません。

現在でも山際の奥まった領域は歴代藩主の墓地であり、「島津斉彬公」も「島津久光公」もここに埋葬されています。

その菩提寺を、島津家自らが明治2年に廃寺にしているのです。

「斉彬公」も「久光公」も、国学・蘭学に傾倒していたため仏教嫌いだったという話もありますが、この流れが藩内に徹底されて1000以上あったお寺がひとつ残らず廃寺、伽藍・仏像が徹底的に破壊されました。

実際、県内をウロウロしていて、首がある石像を見たことがありません。

端数まで記されている数字に徹底ぶりが出ていて怖いですが、2946人いた僧侶は、全員が僧籍をはく奪されて、俗人に戻りました。

そのため、檀家制度に基づいた過去帳(戸籍の役割があった)も、寺院と共に消滅したため、鹿児島県人は江戸時代以前のルーツを調べることが出来ないそうです。

過去の歴史を無かったことにする施策が目立つ共産主義の国々でも、ここまで徹底された事例を聞いたことがないです。

中国の「文化大革命」と比較すると、それをほぼ無血に近い状況でやっている「徹底力」は何なのでしょうか。

上の権力層から下の庶民まで連動しているのは奇跡に近い現象です。

とは言え、下の写真のように今の神社はどこにいってものどかでした。

ドライブで車を脇に止めて拝礼しつつ、まったりさせてもらいました。

幕末の明治維新をけん引した「薩摩藩」の、この不思議な底力については継続的に調べてみたいです。


 

2026年1月10日土曜日

鹿島線

 


新年にふさわしい朝日でした。

元旦ではありませんが、冬季の「青春18切符」を活用して、千葉県と茨城県の県境を流れる「利根川」を跨ぐ、「利根川橋梁」を渡ったときに拝んだ朝日です。

このときは、「鹿島線」を完乗するため、「香取駅」から「十二橋駅」を渡りました。

厳密には、この橋梁を渡って、更にその先にある「霞ヶ浦」から流れ出ている支流の「常陸利根川」を越えて、「潮来(いたこ)駅」まで行かないと、茨城県に入れません。

更に川下で合流し「利根川」になるのです。

ただ、全国第2位の長さを誇る「利根川」河口域の独特の風情は、ここが象徴的に体現していると思います。

朝日の手前に見える橋梁は高速道路で、この橋梁とほぼ並行して走っており、自分を鏡合わせに眺めているような錯覚が起こります。

下の写真は、「鹿島線」を折り返して戻るときに、同じ橋梁から対岸に向けて撮影したものですが、この見通しの良い天候でも、はっきり対岸を撮影することは出来ませんでした。

日本の地理上で、天候が良くて対岸がはっきり見えないというのは、過去の経験上あり得ないスケールの大きさです。

この河口の広大さを強く実感した一枚となりました。


鉄道写真として、河口風景で印象的だったのは、福井県と京都府にある「若狭湾」を結ぶ「北近畿タンゴ鉄道」です。

そこの由良川を渡る「由良川橋梁」は、高さがないので水面スレスレを走っているなスリルを感じます。

ここも長い橋梁ですが、それでも対岸は普通に見えていました。

一番長い川は新潟県の「信濃川」ですが、そもそも河口近くに鉄路がないので、ここには比較対象が存在しません。

現時点では、自分にとっての河口写真ベストワンは「利根川」になります。

このときは、終点の「鹿島サッカースタジアム駅」に着いて、下車することもなくそのまま戻ってきてしまいました。

ここから先の「鹿島臨海鉄道」は既に完乗しています。

しかし、よくよく考えれば、「鹿島神宮」にも「香取神宮」にも行ってませんでした。

今、神社に大変興味を持っていて、いろいろ調べているのですが、明治以前から「神宮」の名称で呼ばれているのは、「伊勢神宮」を筆頭に、この2社を合わせて3社のみなのです。

何故、このときに参拝しておかなかったのだろうと、悔いを残しています。

近いうちに行きたいと思いますが、かなり遠いため、いつのことになるやらと不安が募りました。

2026年1月3日土曜日

一輪挿し


ここは滋賀県にある「佐川美術館」です。

名前の通り大手運送会社が設立母体で、琵琶湖のほとりにあります。

ちょうど1年前の年末に訪問しました。

以前から伺いたい美術館だったので、冬晴れの天気の良い日に訪れることが出来て、よりテンションが上がります。

予約が必要な美術館だったらしく、その確認をする受付に結構な人達が並んでいたのですが、招待券を頂いていたので、ラッキーにもその提示のみですぐに入ることが出来ました。

そのため集団に囲まれず、一人の間合いで拝観スタート。

常設展と企画展が併設されており、どちらも見ごたえがありますが、もともと伺いたかったのは、〝楽焼〟の大家のコレクションがあるからです。

先に他の作品を楽しんだ後に、最後に向かいました。

暗い空間に設えられた展示室になっていて、茶道とかわかってない立場で恐縮なのですが、茶室をイメージしているような気配を感じます。

ただ、作品については「楽焼美術館」を何となくイメージしていたせいか、自分のレベルでは斬新に映りすぎてしまい、よく解りませんでした。

ただ、一番印象に残ったのは、写真の〝一輪挿し〟です。

いよいよ展示室に入るぞ、という手前にあり、最初は側面から眺めるようになります。

〝あっ〟と気になったのは、展示室を出るとき、正面から向き合ったからです。

鉄道のレールに敷く枕木のような質感の木が、横に平行に積まれて、そこだけ周囲と異なる壁が作られていました。

そこに1本だけ、おそらく鉄製の花瓶が、背後にある釘のようなもので、木に突き刺さり固定されているのです。

薄紫の小さな花が生けられていましたが、何の花かわかりません。

その辺の庭の隅に咲いているのを積んできたような、貧相な雰囲気さえ漂います。

対照的に、花瓶は細長いといっても、ふくよかな曲線美を持っており、コルセットで固められた貴婦人を彷彿しました。

金属製であることから、かなりの重厚感が伝わってくるのです。

とても不揃いで、アンバランスな感覚がしますが、それが逆に良いと、心に刺さった次第です。

このときに、ふと浮かんだのが、カフェにある車庫の内装についてでした。

実は、まだ壁シートを張っておらず、建材ボードを剥き出しにしてます。

それでも違和感がないので、ずっとそのままにしてますが、今後手を加えるときに、この壁面と一輪挿しは大きな参考になりそうです。

昨年度は母から妹に運営の主体が変わり、様々な事情から、飲食の提供スタイルも変更させて頂きました。

それでも、継続的にご来店頂けることにあらためて感謝申し上げます。

アンバランスなようでも、何とか均衡を保ちつつ、飽きの来ないカフェでいられるよう頑張りますので、今年もよろしくお願い致します。
 

退出する長い廊下に面した、底の浅い水庭の水面がとても美しく煌めいていました。

今年もこんな年になりますように。

2025年12月27日土曜日

佐伯城


大分県の最南部に位置する「佐伯城」。

佐伯市の中央に位置する城山にありますが、この地域は大分県の中でも陸の孤島と呼ばれるそうです。

確かに大きな一般道が通じていません。

しかも県境の南側は、宮崎県延岡市になりますが、以前ブログで取り上げた難所「宗太郎越え」が立ちはだかります。

まあ、最近は高速道路が開通しているので、状況はかなり変わっているかと思いますが、四国で例えるなら、ひと昔前の「大歩危・小歩危」を通過して愛媛から高知へ向かう状況に近い感じがします。

話を城に戻しますが、関ヶ原の戦いにおいて徳川方に与して、この地(海部郡)2万石を与えられた「毛利高政」が築きました。

尾張国の出身で、「毛利輝元」から姓を賜って、森姓から毛利姓に変わってますが、本来の毛利一族ではなく、またキリシタン大名でもあったようです。

櫓とかの上物は、ほとんど残っていませんが、石垣は見事の一言に尽きます。

麓の石垣から始まり、山頂一帯まで総石垣で築かれていることから、私のような石垣フェチには堪らないシチュエーションです。

続「100名城」に認定されてますが、最初の「100名城」に選ばれてもおかしくない城郭なのです。

ここで「伊予松山城」を引き合いに出します。

左向きと右向きで異なりますが、縄張りが似ているからです。

山上の本丸入口から、扇が左側に開くように、弧を描いて伸びた先が、複合連立天守閣になっているのが、「伊予松山城」だとすると、右側に開いて伸びたように弧を描いているのが、「佐伯城」の縄張りだと思いました。

複合天守閣でない分、規模は小ぶりになりますが、城下を睥睨するような景観は、同じような印象を受けます。

しかし、ここ佐伯藩の規模が2万石であることを考えたら、15万石の伊予松山藩の城と比較するなんであり得ないことです。

もともとあった大きな城を改築したわけでもなく、近世城郭として新築なのです。

それを約6年ほどの短期間で築きました。

何故このようなことが出来たのか調べてみると、先ず築城の名手「藤堂高虎」とかなり親交があったようで、いろいろと知恵を授かっていた可能性があります。

加えて家臣に、「安土城」の築城に関わった者や、天正期「姫路城」の石垣を担当した者とかがいたようで、かなり〝築城のツボ〟を抑えた集団が関わっていたようなのです。

この「毛利氏」は、国替えになることもなく、1602年の築城開始から幕末までずっと続いたことを考えると、築城に関して強引な労役を領民に課したわけでもなさそうです。

ただ、大分県の城郭についてはあまり知られていないのですが、大規模な総石垣の縄張りを持つ城跡が少なくありません。

もっと拡大解釈すれば、九州全般にも当てはまりそうだと、九州各地をウロウロしていて思い当たりました。

大規模な築城技術を持つ集団が、この界隈で暗躍していたのではと、勝手に妄想してしまいます。

下の写真は、現存している「三の丸櫓門」です。

この風格からしても、2万石であることが信じられません。


このときは、鹿児島で仕事をしていたので、愛媛への帰省の途中に立ち寄りました。

確か大晦日でしたが、とても晴れ晴れとした温かい天候でした。

城の復元図があったので、近寄ったら自分の息子サイズの河童が立っています。

河童の手に自分の手を近づけると、何故か水を出しました。

じゃれているようで、早く家族に会いたくなった次第です。

2025年12月20日土曜日

屋久島のドラえもん(楠川城跡)


鹿児島県の「屋久島」に家族で行って、最初にこれを取り上げるのはどうかとも思ったのですが、正直なところ一番印象に残りました。

いつも旅先を調べるときに、真っ先に確認するのが「城跡」のチェックです。

かなり行きつくした感があるので、「城巡り」の目的だけで旅をすることは、ほとんどなくなりましたが、この島においても同様に確認しました。

隣りの「種子島」には、鉄砲伝来のときに登場する「種子島氏」がいます。

しかし、「屋久島」はどうだったのか、全く知りません。

そうしたら目ぼしい城跡として、「楠川城」跡が出てきました。

幸いなことに変な奥地ではなく、主要道路の海岸線にあって、他の有名観光地に向かう途上に立ち寄れる好立地の場所です。

おかげで、家族に文句を言われなくてすみます。

築城された経緯としては、屋久島は種子島に居城を持つ「種子島氏」の属領であり、楠川港を眼下におくためのようです。

小高い丘に、三つの曲輪で構成されています。

この港は、室町時代の「勘合貿易」の南島航路上の要所であり、「種子島氏」が属する「島津家」が、与する管領「細川氏」の貿易利権にも関わる拠点ともなりました。

鉄砲が伝来した1543年に「種子島氏」に内乱が起こり、大隅半島の「禰寝(ねじめ)氏」が出張って来て一時屋久島を領有したそうですが、すぐに復帰したそうです。

「禰寝戦争」と呼ばれる戦いで、日本史上初めて火縄銃が実践使用された説もあるのですが、鉄砲が2年で国産化したとは言っても、さすがにこのタイミングでは早すぎるような気もします。

ともあれ、行ってみました。

手前に「城之川」という川があり、河口は多少広くなっています。

城を示す立て看板もありますが、どうも手前の道を造成する過程で、曲輪の一部が取り壊されたようです。

その道のおかげで、川と城の間に空間が出来ており、この写真の「ドラえもん」が立っていました。

奥に見える建物は、カフェのようですが、独立した敷地内にあります。

これを見た子供たちの開口一番は「何か気持ち悪い。」でした。

確かにサスペンダーで足元を釣り上げたような腰高な感じ、おへそ周りにある本来のポケットは、大胸筋あたりに位置しています。

下には、像の作られた経緯を示す碑文のようなものがありました。

上に屹立し、適当な雰囲気を醸し出している彼と比較すると、大きな石も結構使われていて、意外にもりっぱに造成されています。

読んでみると、ここを通る子供たちの安全を願って、みたいなことが書いてありました。

でも、このアンバランスな感じに目が行ってしまい、旅行者が事故を起こしてしまいそうです。

誰が作ったんでしょうか。

何かを狙ったにしても、ご意見番とかいなかったのでしょうか。

どの地域にも、不思議な造作物はあるのですが、ここはピカイチに思えました。

城跡だったことを忘れそうです。

2025年12月13日土曜日

鶴泊駅

 


車窓越しの写真に見えるのは「岩木山」です。

別名「津軽富士」とも呼ばれ、青森県津軽地方のシンボルであることを、この界隈を旅する度に実感します。

夕暮れ時で、淡い風情が身にしみる光景でした。

この時間帯、常に真っ赤な夕日を期待しなくても、一人旅にはよりなじむ気がします。

山は冠雪していて、季節はしっかり冬でしたが、平地での雪はチラチラしか見えません。

実のついてないリンゴの木がむき出しのまま、フォームの先に何事もなく佇んでいました。

このときは、文豪「太宰治」の生地である「金木」に向かうのが目的です。

そのため「奥羽本線」で北上し、「川部駅」にて「五能線」に乗り換えました。

更にそこから北上して「五所川原駅」で下車、「津軽鉄道」に乗って「金木駅」に向かう旅程となります。

以前ブログで取り上げた「ストーブ列車」が走る路線なのですが、その運行時間には時間帯が合わず、スルメを焼いて食べるのはお預けとなりました。

このスルメにはどうも縁がないような気がします。

地方路線でも有名な「五能線」は、雑誌とかに特集される際、ここから先の反時計回りに展開される日本海側が取り上げられることが多いです。

これもブログで先に取り上げましたが、素晴らしい景観であることは間違いありません。

「津軽海峡」ではないのですが、まさしく演歌「津軽海峡冬景色」を堪能できます。

しかし自分が年を取ってきたせいなのか、時間が経ってこなれてきたのか、生活臭の強い「津軽鉄道」に乗り換えるまでの何気ない区間が、今ではより印象的に浮かんできました。

6駅ほどの短い区間ですが、「青森~弘前」の主要都市の間に位置するので、かなり濃密な生活路線です。

この駅は、その中間の一駅になります。

地元の方々の「津軽弁」が飛び交う中で、会話に入るなんて不可能な世界でした。

そこに一人ポツンと座っていたことを思い出すのです。

こういう寂しさが減っている状況は、幸せな状況であることは間違いないのですが、懐かしい良き間合いであることも事実なのです。

今、自分をあらためて見つめ直す時期なのかもしれません。

久しぶりにこの写真を見つけて、そう思いました。


2025年12月6日土曜日

ハートロック


鹿児島県「奄美大島」にある「ハートロック」。

空港から中心街に行く道中にあり、干潮時のみ現れるハート形の潮溜まりのことです。

恋人の聖地として、有名な観光スポットになっています。

そのようなニーズは全くありませんが、空港への帰りにフライト時間まで余裕があったため立ち寄った次第です。

干潮や満潮の時間帯は知らずに伺ったのですが、ギリギリ形を拝むことが出来ました。

写真を見ておわかりでしょうか?

中央部分の砂場から岩場に変わる窪みの部分がそれです。

実際に波が動いていると、残像となるせいかハートの陰影をしっかりと拝むことが出来ました。

本来は、あまり興味が沸かないジャンルですが、駐車場からここまでの歩いた道中が、島特有の植物による素晴らしいジャングルなっていて、ここの風土を満喫しました。

また下の写真の通り、砂がとても綺麗な海岸線で、革靴を履いたスーツ姿でも拝めたのはとても幸運な機会でした。

しかし不気味だったのが、手前に写っている黒い物体です。

何と女性が転がっていました。

仰向けに寝ているようにも見えますが、バックが放り出されている様子は倒れているようにも思えます。

さすがに確認しないわけにはいかないので、近づいていきました。

日差しの強さによる陰影が距離の縮まることで薄れてくると、どうも白人女性のようです。

30代くらいでしょうか。

途中で動かないかなと期待したのですが微動だにしません。

ほぼのぞき込むような間合いになって、歩く砂音でも聞こえたのか、漸く目を開けてくれました。

心配して寄っているのですが、変質者と誤解されないかとドキドキです。

幸い向こうも事情を察したのか、「ファイン。大丈夫。」と笑顔で言葉を返してくれました。

言葉をうまく喋れるわけでもないので、こちらも微笑み返してそそくさと離れましたが、本当に紛らわしい展開でした。

何にせよ無事でよかったです。

もし具合が悪くて救急車を呼ぶような羽目になると、フライトに間に合わない可能性すらありました。

慣れない聖地訪問をするから、こんな展開になったのでしょうか。

奇妙な経験でした。

ちなみに真夏のようですが、季節は年末です。