2025年10月25日土曜日

TM(テイエム)牧場温泉


名湯には事欠かない鹿児島県ですが、最も尖がった印象を残したのがこの温泉です。

鹿児島県でも、東側の大隅半島側にあり、桜島の南に位置します。

確か別の温泉施設に立ち寄ちよろうとしたのですが、混んでいる様子だったので他を捜すことにしました。

地域のガイド雑誌を持っていたので、拡げて探していて発見。

そこには、〝異次元の湯〟と表記されています。

名湯激戦区の鹿児島県で、こんな言葉が使われるなんて、異常に興味が沸きました。

また、アルファベットで始まる温泉名を聞いたことがありません。

ここから近いので俄然行く気になりました。

主要道路から海寄りの細い街道に降りて、目的地に向かいます。

写真の通り、目的地は廃墟を更地にしたような場所で、名称の看板は目立ちますが、施設らしい建物がありません。

海側を覗き込むと幟が立っていて、小屋が見えました。

このまま車を置いて下り道を進み、そこに向かうと、海の家みたいな風采です。

中に入ると、男女にはちゃんと分かれており、いそいそと料金を払って入湯しました。

第一印象は、ポンジュースです。

あくまで色のことなのですが、鮮やかなオレンジ色に見えました。

他の人がアップしている写真とかを見ると、黄土色なので大げさに聞こえるかもしれませんが、このときは眩しい日差しが湯面に反射していたので、そのように見えたようです。

さすがに匂いは柑橘系ではなく、茶褐色系によくある錆びた風味がしました。

炭酸水素塩泉と表記されていますが、鉄分とカルシウムが多いようです。

普通はベタつくことの多い泉質ですが、思いのほかサラリとしてました。

でも濃厚な感触で、まさに極上でした。

また、名称の「TM」は「テイエム」と読むそうです。

もともと、馬主で有名な方が、自分所有の競走馬に「テイエム○○○」と命名していたようで、かれらを育てる牧場も「テイエム牧場」と名付けられました。

牧場は複数あるようですが、ここの牧場は既に閉鎖されてます。

そのため、「テイエム牧場」は閉鎖しましたが、「テイエム牧場温泉」は営業してます、みたいな非常に紛らわしい言葉が飛び交うそうです。

湯を堪能した後は、近くにあるフェリーに乗り、錦江湾を横断して鹿児島市内に戻りますが、船内にはうどん屋さんがあり、それを食しながら海の景色を眺めるのが楽しみでした。

そのとき、いつも宇高連絡船が思い浮かぶのは、自分が四国の人間である証左かと実感します。

そこに向かうべく北上する途中、下の写真のように桜島が迫る様に見えました。

桜島は南から見る方が、火口がよく見え、活火山としての雄々しさがより伝わってきます。

何かにつけて鹿児島のドライブは、雄大な気持ちになれる素敵なコースばかりでした。


2025年10月18日土曜日

SLばんえつ物語

 

福島県「郡山駅」と新潟県「新津駅」を結ぶ「磐越西線」。

そこをひた走る「SLばんえつ物語号(今は「SLばんえつ物語」に名称変更)」です。

現在人気を博しているご当地観光列車の魁のような存在であり、今も元気に運行されてます。

この写真は20年以上前に撮影したもので、客車の上下がチョコレート色で、中央部分がクリーム色のカラーリングは、運行初期のデザインです。

このブログを書くために、今までの変遷を調べてみたのですが、驚くほどリニューアルされていました。

先頭で7両編成をけん引している蒸気機関車「C57 180」は、いまも健在(これが凄い)ですが、客車はカラーリングの変更のみならず、新規の車体がどんどん投入されて、より快適性を追求したものになっています。

今は、展望台車まであるようです。


この列車のコンセプトとして、運行当初から名称通り、物語性を重視したものになっていました。

下の写真はこの列車専用のお弁当で任意に購入出来るのですが、地域の食材を使用し郷土料理を詰め合わせた嬉しい内容になっていました。

ビールも、地元のクラフトビールが用意されていて、両方とも「SLばんえつ物語」の名称になっています。

川沿いの車窓を眺めながらの一杯は、最高のひとときでした。


以前のブログで、ご当地観光列車は豪華すぎて興味の対象にないようなことを書いていたのですが、この日のことを思い出すとかなり楽しんでいた自分に気がつきます。

再考が必要かもしれませんが、一人旅で楽しめるのかどうか確認要です。

一人という発想が、家族に叱られそうでが・・・。

2025年10月11日土曜日

舞鶴線


鉄道の歴史は、軍事の歴史でもあります。

鉄路が敷かれる優先順位は、軍需物資を効果的に運搬するための優先度に、重なることが多いと思われます。

今回取り上げる「舞鶴線」は、「山陰本線」の「綾部駅」から枝分かれし、終点の「東舞鶴駅」まではわずか6駅、路線距離は26.4キロしかありません。

しかし舞鶴が軍港であることから、民営企業での計画があったにもかかわらず、官設に切り替えられて、1904年に開業されました。

「日露戦争」開戦に間に合わせるためです。

そこから先も延伸されて、「北陸本線」の「敦賀駅」と繋がり、旧国名「若狭の国(福井県の西部地域)」を横断する「小浜線」へと続くのですが、全通したのは1922年と、かなり後の時代になりました。

急がない公共投資はこんなものかと。

また、「東舞鶴駅」が二つの路線を分ける起点になるのですが、同じ1本の路線でも対照的です。

東側を走る「小浜線」は、銀色の車体に明るい緑色のラインが入った車両を採用しており、海沿いの明るさがあります。

逆に、西側を走る「舞鶴線」の各駅停車は、写真の通りくすんだ緑一色で、ミリタリー調の雰囲気が漂っています。

初めて見たとき、「機動戦士ガンダム」に登場する敵側の戦艦「ムサイ」が浮かびました。

現在も、「東舞鶴港」は海上自衛隊の基地であり、この重めと言いますか、冴えない色調はこの路線の各停車両に似つかわしいと思います。

今回の旅は、5枚セットの「青春18切符」のうち、最後の余った1枚を活用した日帰り旅行として舞鶴までやってきました。

今から東舞鶴市街を通り、軍港までを散策するのですが、この列車の折り返しの出発を見届けました。

季節は9月上旬で、ガンガン照りではありませんでしたが、それなりに強い日差しはありました。

しかしこの色調は、光をあんまり反射しないようです。

鈍いぼやけた光沢を発しながら去っていく様は、まるで戦車のようです。

特別な場所にやってきた旅情を感じさせてくれる、有難い各停車両でした。

何故か、思わず手を合わしてしまいました。

 

2025年10月4日土曜日

石見川本駅

 

かなり古い写真になりますが、廃線になってしまった「三江線」の在りし日の風景です。

以前に何度か取り上げましたが、広島県内陸部にある「三次駅」と、島根県沿岸部の「江津駅」を結ぶ路線になります。

とにかく蛇行が多い路線で、写真は島根県内陸部にある「石見川本駅」ですが、奥に向かって大きく右に弧を描いているのがわかります。

このときは駅も開業していて、列車が入線してきていたのを見つけて、慌てて写真を撮りました。

超がつくローカル線なので、列車に遭遇出来てラッキーです。

確か、知人の手伝いでドライブがてらやってきて、その打ち合わせの事務所が、町を見渡せる高台にありました。

自分の用事ではなかったので、そこからぼんやりと町を眺めていました。

待っているしかなかったので、慌てる必要もなく、妙に贅沢な時間を過ごしているなあと、感慨深かったのを思い出します。

勤め先の営業所もこの町にあり、今は店舗統合で閉鎖されてましたが、当時は機能していて、帰り際に少し覗いたことを思い出しました。
(残念ながら、土曜日だったので誰もいませんでした。)

下の写真は、帰りがけに車を撮影したのですが、夕映えになりかけていて、やさしい陰影の風景になっています。

まだまだ旅をしていくと思いますが、インパクトのある被写体を撮るよりも、撮影したときの心情が思い起こせるような写真を残せるように心掛けていきたいと思いました。


2025年9月27日土曜日

伊香保温泉


「伊香保温泉」の温泉街です。

結構な急坂である石段は、旅館・土産物屋・遊技場とかが軒を重ねており、この温泉のシンボルでもあります。

地元で普及している「上毛かるた」でも、〝い〟は「伊香保温泉 日本の名湯」です。

会社の先輩にこの話を伺ったのですが、この言い回しは何故か憶えていました。

同じ群馬県内にある「草津温泉(ほとんどの全国温泉番付で、横綱認定)」と、並んで知名度が高いと言っても過言ではありません。

有名な文豪達が、小説の題材とかにも取り上げていて、温泉ならではの風情というか余韻が漂う素敵な場所でした。

私がこの温泉街をはっきり認識したのは、漫画「頭文字D(地元の走り屋が、夜な夜な峠で勝負する)」の舞台が、この界隈を想定しているからです。

実際の地名は微妙に変更されているのですが、この漫画の主人公と、彼女が紅灯の巷へと消えていくのも、この温泉街が背景になっていました。

しっぽり感というか、色気が漂う温泉ではあります。

ただ、残念ながら温泉の泉質は大したことありません。
 
悪い印象で残っているのが、読んだ推理小説でここが登場したときに、湯量が乏しくて困っているという話題でした。

昔からの源泉は「黄金の湯(こがねのゆ)」と呼ばれるそうですが、権利者が幅を利かせていて、新規に発掘された「白銀の湯」と併用されているそうです。

ただ後者は、無色透明で湧出温度が低く、温泉特有の成分が非常に少ないため、評判がイマイチとのこと。

以前に泊まった宿は、茶褐色の前者だったので当たりと言えますが、それでも源泉かけ流しでなく、妙に薄い感じがしました。

愛媛の塩素が入っている有名な温泉(それでも好きですが)と、立ち位置が似ているような気がします。

しかし、インバウンドの流れも含めて、温泉業界でのブランド戦略は、継続的に栄えていくうえで非常に大事だと感じています。

雑誌での紹介記事において、宿泊したことのある有名旅館が、ビックリするような金額になっていることが多いです。

もはや自分の懐具合では、宿泊出来る相場ではありませんでした。

正直なところ、日本のサラリーマンが家族単位で宿泊するのは、全国的に厳しくなっているような気がします。

話題になる前の穴場を、自分の感覚で探していくしかありません。

家族旅行で宿泊出来る素敵な場所を、見つかるのは本当に大変です。





2025年9月20日土曜日

天橋立股のぞき

 

いきなり別の話題になりますが、「西国三十三寺」という寺巡りの括りがあります。

三十三もあれば、普通しょぼいのが入っていそうなものですが、近畿地方を中心に名だたる寺院ばかりで構成されており、行きごたえがあります。

この括りを聞いたことはあっても詳しくは知りませんでしたが、有名な寺院が多いため既に行っているお寺が相当数あり、大阪に住んでいる間にコンプリートしたいと、最近思い立っています。

しかし範囲が広大です。

順番に廻ろうとすると、最初の一番札所は和歌山県のほぼ最南端に、最後の三十三番札所は岐阜県のまあまあ山奥にあったりと、初っ端から心が折れそうな場所に点在しているのです。

ちなみに最北に位置するのが、二十八番札所「成相寺(なりあいじ)」です。

丹後半島の根元に位置し、日本三景の一つ「天橋立」を眼下に拝むことが出来ます。

この写真がその展望で、少し靄ってましたが全貌をしっかり見ることが出来ました。

もとは修験道の道場だったらしく、雪舟の国宝「天橋立図」にもこのお寺は描かれています。

「天橋立」自体には何度か行っていて、実際に北から南まで歩いて縦断したこともありました。

松林の中を歩きながら、左右の海を眺めることが出来るのです。

訪れたときは夕暮れ時で、気持ち良い風に当たりながら風光明媚な雰囲気を味わった記憶が残っています。

しかし、名称の由来は、このお寺からの景観なのだと実感しました。

かなり標高が高く、坂道を車で上がっていくのですが、このときの車はマニュアル車で大変でした。

こんな斜度のきつい坂道を登ったことがないくらい急です。

前方のもたついた車に追いついてしまうと、その車のペースでスピード調整をしないといけなくなるため、エンストしそうになります。

クラッチを踏む左足が何度もつりそうになりました。

このときは三十三寺を意識していなかったので、引き返そうかと思いつつも、何とかたどり着いた次第です。

下の写真は、少し奥まったところにある「天橋立股のぞき岩」です。

昔、テレビでやっていた「一休さん」でおぼろけながら見た記憶があります。

実際にこの岩に上がって股のぞきの姿勢で見てみました。

天に昇っているほどには見えませんが、海に立っているように見えなくもありません。

まあ娯楽がない時代には、一つのアトラクションだったのかなあ、と思いました。

ただこの日は暑かったのですが、ここまで高いと照り返しの地熱にさらされてない涼しい風が吹いていて、非常に爽やかな気持ちに浸れました。

幸い人もいなかったので、結構な時間をここでボーっとし、かなりスッキリしました。

おそらく人によって反応するツボが異なる場所かと。

一種のパワースポットかと思われます。

2025年9月13日土曜日

木ノ芽城塞

 

旅行をしていて「ここは難所だな。」と実感する場所があります。

福井県の若狭湾に面する「敦賀」から「福井」方面に向かうルートもそうでした。

以前のブログ「宗太郎越え」にて、自分の斜度に対する感度の無さを露呈していて恐縮ですが、ここは明確に感じました。

昔なら、ここは「若狭国」と「越前国」の国境に位置する地帯です。

ここを通る鉄路・高速道路・一般道のすべてにおいて、急斜面を駆け上る印象が強く、列車のディーゼル音、前方を走るトラックの苦しそうに吐き出す排気ガスの量、様々な乗り物が喘いでいる姿からその厳しさが伝わってきました。

今回は、古くからの主要道路であったであろうルートを探しながら、じっくり進んでみることにしました。

先ず、「敦賀駅」付近の川に「木の芽橋」があります。

ここが起点かなあ、と思いつつ、国道476号線を上っていきました。

昔の駅跡があり今は付け替えられてますが、ほぼ同じルートで鉄路があったようです。

軽井沢と横川間の「碓氷峠」とかもそうですが、列車の登坂能力の性能向上により、更なる移動時間の短縮を目指し、時代ごとに鉄路は見直されて、より直線的になっていきます。

高速道路の登りもこの道沿いでした。

下りは負荷が少ないため、より直線的な別ルートになっていますが、ここが昔から一番登り安い勾配だったことは間違いないようです。

しかし、この476号線も途中でトンネルの直線道路になってしまい、ここから別ルートを探さないといけません。

幕末の天狗党の首謀者である「武田耕雲斎」の本陣となった後があり、その脇から続く山道が古道のようです。

そこから延々とジグザグ道を頑張ると、少し平坦になってきて、最高所の「木の芽峠」に至りました。

写真の通り、多少緩やかでもこの車の角度です。

下の写真により詳細を示してますが、ここは城塞が築かれています。

近畿方面からの敵を防ぐ目的があったようで、戦国時代には、「織田信長」が「朝倉義景」を攻略したときのルートでもありました。

ここから先は、スキー場の中を通り抜けるような道になり、北国街道「板取宿」に至ることが出来ました。

出たとこ勝負の探検でしたが、スリリングな展開で非常に楽しめました。

あまり調べず直感で進む旅は、これからもっと楽しくなりそうです。

怖い試みになりますが、鉄路の廃線ルートを攻める時期かもしれません。