2025年12月20日土曜日

屋久島のドラえもん(楠川城跡)


鹿児島県の「屋久島」に家族で行って、最初にこれを取り上げるのはどうかとも思ったのですが、正直なところ一番印象に残りました。

いつも旅先を調べるときに、真っ先に確認するのが「城跡」のチェックです。

かなり行きつくした感があるので、「城巡り」の目的だけで旅をすることは、ほとんどなくなりましたが、この島においても同様に確認しました。

隣りの「種子島」には、鉄砲伝来のときに登場する「種子島氏」がいます。

しかし、「屋久島」はどうだったのか、全く知りません。

そうしたら目ぼしい城跡として、「楠川城」跡が出てきました。

幸いなことに変な奥地ではなく、主要道路の海岸線にあって、他の有名観光地に向かう途上に立ち寄れる好立地の場所です。

おかげで、家族に文句を言われなくてすみます。

築城された経緯としては、屋久島は種子島に居城を持つ「種子島氏」の属領であり、楠川港を眼下におくためのようです。

小高い丘に、三つの曲輪で構成されています。

この港は、室町時代の「勘合貿易」の南島航路上の要所であり、「種子島氏」が属する「島津家」が、与する管領「細川氏」の貿易利権にも関わる拠点ともなりました。

鉄砲が伝来した1543年に「種子島氏」に内乱が起こり、大隅半島の「禰寝(ねじめ)氏」が出張って来て一時屋久島を領有したそうですが、すぐに復帰したそうです。

「禰寝戦争」と呼ばれる戦いで、日本史上初めて火縄銃が実践使用された説もあるのですが、鉄砲が2年で国産化したとは言っても、さすがにこのタイミングでは早すぎるような気もします。

ともあれ、行ってみました。

手前に「城之川」という川があり、河口は多少広くなっています。

城を示す立て看板もありますが、どうも手前の道を造成する過程で、曲輪の一部が取り壊されたようです。

その道のおかげで、川と城の間に空間が出来ており、この写真の「ドラえもん」が立っていました。

奥に見える建物は、カフェのようですが、独立した敷地内にあります。

これを見た子供たちの開口一番は「何か気持ち悪い。」でした。

確かにサスペンダーで足元を釣り上げたような腰高な感じ、おへそ周りにある本来のポケットは、大胸筋あたりに位置しています。

下には、像の作られた経緯を示す碑文のようなものがありました。

上に屹立し、適当な雰囲気を醸し出している彼と比較すると、大きな石も結構使われていて、意外にもりっぱに造成されています。

読んでみると、ここを通る子供たちの安全を願って、みたいなことが書いてありました。

でも、このアンバランスな感じに目が行ってしまい、旅行者が事故を起こしてしまいそうです。

誰が作ったんでしょうか。

何かを狙ったにしても、ご意見番とかいなかったのでしょうか。

どの地域にも、不思議な造作物はあるのですが、ここはピカイチに思えました。

城跡だったことを忘れそうです。

2025年12月13日土曜日

鶴泊駅

 


車窓越しの写真に見えるのは「岩木山」です。

別名「津軽富士」とも呼ばれ、青森県津軽地方のシンボルであることを、この界隈を旅する度に実感します。

夕暮れ時で、淡い風情が身にしみる光景でした。

この時間帯、常に真っ赤な夕日を期待しなくても、一人旅にはよりなじむ気がします。

山は冠雪していて、季節はしっかり冬でしたが、平地での雪はチラチラしか見えません。

実のついてないリンゴの木がむき出しのまま、フォームの先に何事もなく佇んでいました。

このときは、文豪「太宰治」の生地である「金木」に向かうのが目的です。

そのため「奥羽本線」で北上し、「川部駅」にて「五能線」に乗り換えました。

更にそこから北上して「五所川原駅」で下車、「津軽鉄道」に乗って「金木駅」に向かう旅程となります。

以前ブログで取り上げた「ストーブ列車」が走る路線なのですが、その運行時間には時間帯が合わず、スルメを焼いて食べるのはお預けとなりました。

このスルメにはどうも縁がないような気がします。

地方路線でも有名な「五能線」は、雑誌とかに特集される際、ここから先の反時計回りに展開される日本海側が取り上げられることが多いです。

これもブログで先に取り上げましたが、素晴らしい景観であることは間違いありません。

「津軽海峡」ではないのですが、まさしく演歌「津軽海峡冬景色」を堪能できます。

しかし自分が年を取ってきたせいなのか、時間が経ってこなれてきたのか、生活臭の強い「津軽鉄道」に乗り換えるまでの何気ない区間が、今ではより印象的に浮かんできました。

6駅ほどの短い区間ですが、「青森~弘前」の主要都市の間に位置するので、かなり濃密な生活路線です。

この駅は、その中間の一駅になります。

地元の方々の「津軽弁」が飛び交う中で、会話に入るなんて不可能な世界でした。

そこに一人ポツンと座っていたことを思い出すのです。

こういう寂しさが減っている状況は、幸せな状況であることは間違いないのですが、懐かしい良き間合いであることも事実なのです。

今、自分をあらためて見つめ直す時期なのかもしれません。

久しぶりにこの写真を見つけて、そう思いました。


2025年12月6日土曜日

ハートロック


鹿児島県「奄美大島」にある「ハートロック」。

空港から中心街に行く道中にあり、干潮時のみ現れるハート形の潮溜まりのことです。

恋人の聖地として、有名な観光スポットになっています。

そのようなニーズは全くありませんが、空港への帰りにフライト時間まで余裕があったため立ち寄った次第です。

干潮や満潮の時間帯は知らずに伺ったのですが、ギリギリ形を拝むことが出来ました。

写真を見ておわかりでしょうか?

中央部分の砂場から岩場に変わる窪みの部分がそれです。

実際に波が動いていると、残像となるせいかハートの陰影をしっかりと拝むことが出来ました。

本来は、あまり興味が沸かないジャンルですが、駐車場からここまでの歩いた道中が、島特有の植物による素晴らしいジャングルなっていて、ここの風土を満喫しました。

また下の写真の通り、砂がとても綺麗な海岸線で、革靴を履いたスーツ姿でも拝めたのはとても幸運な機会でした。

しかし不気味だったのが、手前に写っている黒い物体です。

何と女性が転がっていました。

仰向けに寝ているようにも見えますが、バックが放り出されている様子は倒れているようにも思えます。

さすがに確認しないわけにはいかないので、近づいていきました。

日差しの強さによる陰影が距離の縮まることで薄れてくると、どうも白人女性のようです。

30代くらいでしょうか。

途中で動かないかなと期待したのですが微動だにしません。

ほぼのぞき込むような間合いになって、歩く砂音でも聞こえたのか、漸く目を開けてくれました。

心配して寄っているのですが、変質者と誤解されないかとドキドキです。

幸い向こうも事情を察したのか、「ファイン。大丈夫。」と笑顔で言葉を返してくれました。

言葉をうまく喋れるわけでもないので、こちらも微笑み返してそそくさと離れましたが、本当に紛らわしい展開でした。

何にせよ無事でよかったです。

もし具合が悪くて救急車を呼ぶような羽目になると、フライトに間に合わない可能性すらありました。

慣れない聖地訪問をするから、こんな展開になったのでしょうか。

奇妙な経験でした。

ちなみに真夏のようですが、季節は年末です。



 

2025年11月29日土曜日

親不知(おやしらず)駅

 

日本海側にせり出したようにある「親不知駅」です。

福井県の県境に近い新潟県にあり、北陸道最大の難所で、断崖絶壁と荒波が人々の行く手を阻んだことから、通行に際して波打ち際を駆け抜ける必要があったそうです。

その慌ただしさから、親は子を忘れ、子は親を顧みる暇がなかったことから、「親知らず・子知らず」と呼ばれるようになったとのこと。

細かい話になりますが、この駅の西側が「親不知」、東側が「子不知」と、どうも呼ばれるようです。

かなり前の撮影ですが、看板にJRのロゴが残っており、懐かしい風景です。

このときは「北陸本線」でしたが、今は「えちごトキめき鉄道」と名称が変っています。

ブログに取り上げておいて恐縮なのですが、この駅で降りたことはありません。

ただ、この路線を通るとき、ここで長めに停車することが多かった印象があります。

列車を下りずに車窓から眺めているだけの、この写真の光景が、強烈な既視感として残っています。

晴れていると日本海側の水平線もきれいに見えました。

このときも車窓越しの写真ですが、水平線がしっかり確認出来ます。

ただ、それ以上にインパクトがあったのが、その手前に立ちはだかる「北陸道(高速道路)」と、「国道8号線」の平行して走る高架橋でした。

この駅際にある海岸線から突き出て海上にコースが取られており、現在も通行の難所であることが伝わってきます。

二つの高架橋と日本海の水平線が、それぞれに並行し、拮抗して描く景観は、他では拝むことが出来ません。

自然の脅威と、それを克服してきた人間の縮図みたいなものを感じて、自分の潜在意識に強く残っているのだと、あらためて思いました。

2025年11月22日土曜日

田の神様


素敵な出会いでした。

写真は「田の神様」と呼ばれており、鹿児島県の田舎で時折見かけました。

神だけに、廃物希釈の被害は受けてないようです。

地域の五穀豊穣を見守る土地の神様ですが、頭巾を被ったような後姿は男性器のようにも見え、子孫繁栄の祈願も兼ねているという説があります。

実物を見ると、両方の意味合いはあるように見受けられました。

地域発展のためには、両輪の発想です。

ただ驚いたのは、この田の神様が鎮座していた場所でした。

何と、下の写真の通り、太平洋戦争時に築かれたであろうトーチカの上なのです。

日頃の心がけとして、車で移動しているときに歴史的な遺産の立て札とかがあれば、時間が許す限り立ち寄る様にしています。

もちろん趣味なのですが、このような話材はお客様を訪問したときに、意外なタイミングで盛り上がることがありました。

特に、近代の戦争遺産とかは意識的に拝見するようにしていますが、このときも「トーチカ跡」の手書き看板が見えたので、ふらっと寄ったのです。


この苔むして合体した二つの造作物に、絶妙なバランスといいますが、マイルドな味わいが滲んでいて、しばらく見惚れてしまいました。

また、ちょこんと置かれた陶器の湯飲みが、更に良いアクセントを醸し出しています。

お水も入っており、地元のどなたかが定期的に捧げているようです。


周囲をぐるりと拝見したのですが、背後から見た田園の展望が、またまた最高でした。

最期の写真がそうですが、作成意図が真逆する二つの存在が、仲良く悠久の平和を祈念しているようにも見えて、感動で立ち尽くしてしまいました。

自分の深層心理に、大きな影響を残すであろう風景です。

2025年11月15日土曜日

琵琶湖の景色



確か、「伝教大師:最澄」の産湯があるお寺を訪れたときに撮影したと思います。

「比叡山延暦寺」に向かう道中だったこともあり、りっぱな直線道路です。

写真の通り、並木と道路の先に「琵琶湖」が拝めました。

今回は、当時の現場にいたときではなく、このブログを書くために写真を眺めていた時の話をさせて下さい。

隙間のように見えただけなのですが、このときから不思議と「琵琶湖」の存在感を強く意識するようになりました。

結構な回数「ビワイチ(琵琶湖一周:最近、大阪の妹に教えてもらいました。)」をしていましたが、「水」を楽しんでいただけで「湖」としての認識が乏しかったのかと、このとき妙に得心しました。

そういう意識で、この湖が拝める寺社仏閣を訪問すると、全てといってよいくらい湖との関係を意識して建築されているんだなあと、あらためて実感します。

その当時を振り返ると、大局的に思いがはせられ、再訪したくなりました。

そんなの当たり前だろ、と多くの方が言われると思いますが、正直なところその視点が自分には欠けていたのです。

こういうことは気がついてないだけで、もともと多いのかもしれません。

この年になって、結構いろいろな場所に行ったなあと思いますが、自分の趣味の軸である「城・鉄道」については飽和気味になってきていて、このままでいいのかという不安があります。

「車」も興味が尽きませんが「足るを知る境地」もあって、老いもあるのか満ち足りた安堵感が出てきています。

まとまらない話になっていて恐縮ですが、「人生」のギアをもう一回上げるなら、新たな視点と興味の対象を増やす必要があると、反省してしまうこの頃です。

何気ない琵琶湖の写真から教えてもらったことでした。

2025年11月8日土曜日

中山法華経寺


「総武線」の「下総中山駅」にある「中山法華経寺」です。

東京で仕事をしていた時代は、「西船橋駅」の近辺に住んでいる期間が長く、一駅隣のここにはよく散歩に行きました。

「日蓮宗」のお寺の中でも、大本山になり最高ランクの位置づけで、大きな建物による寺院群があり、多くの修行僧をお見かけしました。

現役バリバリのお寺です。

歴史は古く鎌倉時代になりますが、多くの迫害を受けた「日蓮」は、この地域の武士に保護されて、紙筆の提供を受けたそうです。

その流れからか多くの彼の遺文が残されており、国宝である「観心本尊抄」と「立正安国論」は当寺が所持してます。

特に「立正安国論」は、教科書で覚えました。

また、写真の五重塔は、重要文化財の指定を受けており、散歩の折り返し地点です。

下の写真が、その散歩のときに歩いていた門前通りなのですが、お寺の境内付近でなかなかの風情があります。

参道は、「下総中山駅」から真っすぐに続いていて、駅の近辺は坂道になっており、この周辺は飲食店が軒を連ねています。

甘味処とか町中華があって、結構楽しませてもらいました。


あらためて思いますが、大手のチェーン店が圧倒的な支配力を持つ千葉県で、ここは得意な位置づけだったと実感しました。

晩秋の夕暮れ時に、今の年齢になって歩くと、あのときとは全く違う境地が開けそうな気がします。