2026年1月3日土曜日

一輪挿し


ここは滋賀県にある「佐川美術館」です。

名前の通り大手運送会社が設立母体で、琵琶湖のほとりにあります。

ちょうど1年前の年末に訪問しました。

以前から伺いたい美術館だったので、冬晴れの天気の良い日に訪れることが出来て、よりテンションが上がりました。

予約が必要な美術館だったらしく、その確認をする受付に結構な人達が並んでいたのですが、招待券を頂いていたので、ラッキーにもその提示のみですぐに入ることが出来ました。

そのため集団に囲まれず、一人の間合いで拝観出来ました。

常設展と企画展が併設されており、どちらも見ごたえがありますが、もともと伺いたかったのは、〝楽焼〟の大家のコレクションがあるからです。

先に他の作品を楽しんだ後に、最後に向かいました。

暗い空間に設えられた展示室になっていて、茶道とかわかってない立場で恐縮なのですが、茶室をイメージしているような気配を感じます。

ただ、作品については「楽焼美術館」を何となくイメージしていたせいか、自分のレベルでは斬新に映りすぎてしまい、よく解りませんでした。

ただ、一番印象に残ったのは、写真の〝一輪挿し〟です。

いよいよ展示室に入るぞ、という手前にあり、入口に向き合う形になっているので、最初は側面から眺めるようになります。

〝あっ〟と気になったのは、展示室を出るとき、正面から向き合ったからです。

鉄道のレールに敷く枕木のような質感の木が、横に平行に積まれて、そこだけ周囲と異なる壁が作られていました。

そこに1本だけ、おそらく鉄製の花瓶が、背後にある釘のようなもので、木に突き刺さり固定されているのです。

薄紫の小さな花が生けられていましたが、何の花かわかりません。

その辺の庭の隅に咲いているのを積んできたような、貧相な雰囲気さえ漂います。

対照的に、花瓶は細長いといっても、ふくよかな曲線美を持っており、コルセットで固められた貴婦人を彷彿しました。

金属でもあることから、かなりの重厚感が伝わってくるのです。

とても不揃いで、アンバランスな感覚がしますが、それが逆に良いと、心に刺さった次第です。

このときに、ふと浮かんだのが、カフェにある車庫の内装についてでした。

実は、まだ壁を張っておらず、建材のボードが剥き出しになったままです。

それでも落ち着いたバランスがあるので、ずっとそのままにしてますが、今後手を加えるときに、この壁面と一輪挿しは大きな参考になりそうです。

昨年度は母から妹に運営の主体が変わり、様々な事情から、飲食の提供スタイルも変更させて頂きました。

それでも、継続的にご来店頂けることにあらためて感謝申し上げます。

アンバランスなようでも、何とか均衡を保ちつつ、飽きの来ないカフェでいられるよう頑張りますので、今年もよろしくお願い致します。
 

退出時の長い廊下に面した、底の浅い水庭の水面がとても美しく煌めいていました。

今年もこんな年になりますように。

2025年12月27日土曜日

佐伯城


大分県の最南部に位置する「佐伯城」。

佐伯市の中央に位置する城山にありますが、この地域は大分県の中でも陸の孤島と呼ばれるそうです。

確かに大きな一般道が通じていません。

しかも県境の南側は、宮崎県延岡市になりますが、以前ブログで取り上げた難所「宗太郎越え」が立ちはだかります。

まあ、最近は高速道路が開通しているので、状況はかなり変わっているかと思いますが、四国で例えるなら、ひと昔前の「大歩危・小歩危」を通過して愛媛から高知へ向かう状況に近い感じがします。

話を城に戻しますが、関ヶ原の戦いにおいて徳川方に与して、この地(海部郡)2万石を与えられた「毛利高政」が築きました。

尾張国の出身で、「毛利輝元」から姓を賜って、森姓から毛利姓に変わってますが、本来の毛利一族ではなく、またキリシタン大名でもあったようです。

櫓とかの上物は、ほとんど残っていませんが、石垣は見事の一言に尽きます。

麓の石垣から始まり、山頂一帯まで総石垣で築かれていることから、私のような石垣フェチには堪らないシチュエーションです。

続「100名城」に認定されてますが、最初の「100名城」に選ばれてもおかしくない城郭なのです。

ここで「伊予松山城」を引き合いに出します。

左向きと右向きで異なりますが、縄張りが似ているからです。

山上の本丸入口から、扇が左側に開くように、弧を描いて伸びた先が、複合連立天守閣になっているのが、「伊予松山城」だとすると、右側に開いて伸びたように弧を描いているのが、「佐伯城」の縄張りだと思いました。

複合天守閣でない分、規模は小ぶりになりますが、城下を睥睨するような景観は、同じような印象を受けます。

しかし、ここ佐伯藩の規模が2万石であることを考えたら、15万石の伊予松山藩の城と比較するなんであり得ないことです。

もともとあった大きな城を改築したわけでもなく、近世城郭として新築なのです。

それを約6年ほどの短期間で築きました。

何故このようなことが出来たのか調べてみると、先ず築城の名手「藤堂高虎」とかなり親交があったようで、いろいろと知恵を授かっていた可能性があります。

加えて家臣に、「安土城」の築城に関わった者や、天正期「姫路城」の石垣を担当した者とかがいたようで、かなり〝築城のツボ〟を抑えた集団が関わっていたようなのです。

この「毛利氏」は、国替えになることもなく、1602年の築城開始から幕末までずっと続いたことを考えると、築城に関して強引な労役を領民に課したわけでもなさそうです。

ただ、大分県の城郭についてはあまり知られていないのですが、大規模な総石垣の縄張りを持つ城跡が少なくありません。

もっと拡大解釈すれば、九州全般にも当てはまりそうだと、九州各地をウロウロしていて思い当たりました。

大規模な築城技術を持つ集団が、この界隈で暗躍していたのではと、勝手に妄想してしまいます。

下の写真は、現存している「三の丸櫓門」です。

この風格からしても、2万石であることが信じられません。


このときは、鹿児島で仕事をしていたので、愛媛への帰省の途中に立ち寄りました。

確か大晦日でしたが、とても晴れ晴れとした温かい天候でした。

城の復元図があったので、近寄ったら自分の息子サイズの河童が立っています。

河童の手に自分の手を近づけると、何故か水を出しました。

じゃれているようで、早く家族に会いたくなった次第です。

2025年12月20日土曜日

屋久島のドラえもん(楠川城跡)


鹿児島県の「屋久島」に家族で行って、最初にこれを取り上げるのはどうかとも思ったのですが、正直なところ一番印象に残りました。

いつも旅先を調べるときに、真っ先に確認するのが「城跡」のチェックです。

かなり行きつくした感があるので、「城巡り」の目的だけで旅をすることは、ほとんどなくなりましたが、この島においても同様に確認しました。

隣りの「種子島」には、鉄砲伝来のときに登場する「種子島氏」がいます。

しかし、「屋久島」はどうだったのか、全く知りません。

そうしたら目ぼしい城跡として、「楠川城」跡が出てきました。

幸いなことに変な奥地ではなく、主要道路の海岸線にあって、他の有名観光地に向かう途上に立ち寄れる好立地の場所です。

おかげで、家族に文句を言われなくてすみます。

築城された経緯としては、屋久島は種子島に居城を持つ「種子島氏」の属領であり、楠川港を眼下におくためのようです。

小高い丘に、三つの曲輪で構成されています。

この港は、室町時代の「勘合貿易」の南島航路上の要所であり、「種子島氏」が属する「島津家」が、与する管領「細川氏」の貿易利権にも関わる拠点ともなりました。

鉄砲が伝来した1543年に「種子島氏」に内乱が起こり、大隅半島の「禰寝(ねじめ)氏」が出張って来て一時屋久島を領有したそうですが、すぐに復帰したそうです。

「禰寝戦争」と呼ばれる戦いで、日本史上初めて火縄銃が実践使用された説もあるのですが、鉄砲が2年で国産化したとは言っても、さすがにこのタイミングでは早すぎるような気もします。

ともあれ、行ってみました。

手前に「城之川」という川があり、河口は多少広くなっています。

城を示す立て看板もありますが、どうも手前の道を造成する過程で、曲輪の一部が取り壊されたようです。

その道のおかげで、川と城の間に空間が出来ており、この写真の「ドラえもん」が立っていました。

奥に見える建物は、カフェのようですが、独立した敷地内にあります。

これを見た子供たちの開口一番は「何か気持ち悪い。」でした。

確かにサスペンダーで足元を釣り上げたような腰高な感じ、おへそ周りにある本来のポケットは、大胸筋あたりに位置しています。

下には、像の作られた経緯を示す碑文のようなものがありました。

上に屹立し、適当な雰囲気を醸し出している彼と比較すると、大きな石も結構使われていて、意外にもりっぱに造成されています。

読んでみると、ここを通る子供たちの安全を願って、みたいなことが書いてありました。

でも、このアンバランスな感じに目が行ってしまい、旅行者が事故を起こしてしまいそうです。

誰が作ったんでしょうか。

何かを狙ったにしても、ご意見番とかいなかったのでしょうか。

どの地域にも、不思議な造作物はあるのですが、ここはピカイチに思えました。

城跡だったことを忘れそうです。

2025年12月13日土曜日

鶴泊駅

 


車窓越しの写真に見えるのは「岩木山」です。

別名「津軽富士」とも呼ばれ、青森県津軽地方のシンボルであることを、この界隈を旅する度に実感します。

夕暮れ時で、淡い風情が身にしみる光景でした。

この時間帯、常に真っ赤な夕日を期待しなくても、一人旅にはよりなじむ気がします。

山は冠雪していて、季節はしっかり冬でしたが、平地での雪はチラチラしか見えません。

実のついてないリンゴの木がむき出しのまま、フォームの先に何事もなく佇んでいました。

このときは、文豪「太宰治」の生地である「金木」に向かうのが目的です。

そのため「奥羽本線」で北上し、「川部駅」にて「五能線」に乗り換えました。

更にそこから北上して「五所川原駅」で下車、「津軽鉄道」に乗って「金木駅」に向かう旅程となります。

以前ブログで取り上げた「ストーブ列車」が走る路線なのですが、その運行時間には時間帯が合わず、スルメを焼いて食べるのはお預けとなりました。

このスルメにはどうも縁がないような気がします。

地方路線でも有名な「五能線」は、雑誌とかに特集される際、ここから先の反時計回りに展開される日本海側が取り上げられることが多いです。

これもブログで先に取り上げましたが、素晴らしい景観であることは間違いありません。

「津軽海峡」ではないのですが、まさしく演歌「津軽海峡冬景色」を堪能できます。

しかし自分が年を取ってきたせいなのか、時間が経ってこなれてきたのか、生活臭の強い「津軽鉄道」に乗り換えるまでの何気ない区間が、今ではより印象的に浮かんできました。

6駅ほどの短い区間ですが、「青森~弘前」の主要都市の間に位置するので、かなり濃密な生活路線です。

この駅は、その中間の一駅になります。

地元の方々の「津軽弁」が飛び交う中で、会話に入るなんて不可能な世界でした。

そこに一人ポツンと座っていたことを思い出すのです。

こういう寂しさが減っている状況は、幸せな状況であることは間違いないのですが、懐かしい良き間合いであることも事実なのです。

今、自分をあらためて見つめ直す時期なのかもしれません。

久しぶりにこの写真を見つけて、そう思いました。


2025年12月6日土曜日

ハートロック


鹿児島県「奄美大島」にある「ハートロック」。

空港から中心街に行く道中にあり、干潮時のみ現れるハート形の潮溜まりのことです。

恋人の聖地として、有名な観光スポットになっています。

そのようなニーズは全くありませんが、空港への帰りにフライト時間まで余裕があったため立ち寄った次第です。

干潮や満潮の時間帯は知らずに伺ったのですが、ギリギリ形を拝むことが出来ました。

写真を見ておわかりでしょうか?

中央部分の砂場から岩場に変わる窪みの部分がそれです。

実際に波が動いていると、残像となるせいかハートの陰影をしっかりと拝むことが出来ました。

本来は、あまり興味が沸かないジャンルですが、駐車場からここまでの歩いた道中が、島特有の植物による素晴らしいジャングルなっていて、ここの風土を満喫しました。

また下の写真の通り、砂がとても綺麗な海岸線で、革靴を履いたスーツ姿でも拝めたのはとても幸運な機会でした。

しかし不気味だったのが、手前に写っている黒い物体です。

何と女性が転がっていました。

仰向けに寝ているようにも見えますが、バックが放り出されている様子は倒れているようにも思えます。

さすがに確認しないわけにはいかないので、近づいていきました。

日差しの強さによる陰影が距離の縮まることで薄れてくると、どうも白人女性のようです。

30代くらいでしょうか。

途中で動かないかなと期待したのですが微動だにしません。

ほぼのぞき込むような間合いになって、歩く砂音でも聞こえたのか、漸く目を開けてくれました。

心配して寄っているのですが、変質者と誤解されないかとドキドキです。

幸い向こうも事情を察したのか、「ファイン。大丈夫。」と笑顔で言葉を返してくれました。

言葉をうまく喋れるわけでもないので、こちらも微笑み返してそそくさと離れましたが、本当に紛らわしい展開でした。

何にせよ無事でよかったです。

もし具合が悪くて救急車を呼ぶような羽目になると、フライトに間に合わない可能性すらありました。

慣れない聖地訪問をするから、こんな展開になったのでしょうか。

奇妙な経験でした。

ちなみに真夏のようですが、季節は年末です。



 

2025年11月29日土曜日

親不知(おやしらず)駅

 

日本海側にせり出したようにある「親不知駅」です。

福井県の県境に近い新潟県にあり、北陸道最大の難所で、断崖絶壁と荒波が人々の行く手を阻んだことから、通行に際して波打ち際を駆け抜ける必要があったそうです。

その慌ただしさから、親は子を忘れ、子は親を顧みる暇がなかったことから、「親知らず・子知らず」と呼ばれるようになったとのこと。

細かい話になりますが、この駅の西側が「親不知」、東側が「子不知」と、どうも呼ばれるようです。

かなり前の撮影ですが、看板にJRのロゴが残っており、懐かしい風景です。

このときは「北陸本線」でしたが、今は「えちごトキめき鉄道」と名称が変っています。

ブログに取り上げておいて恐縮なのですが、この駅で降りたことはありません。

ただ、この路線を通るとき、ここで長めに停車することが多かった印象があります。

列車を下りずに車窓から眺めているだけの、この写真の光景が、強烈な既視感として残っています。

晴れていると日本海側の水平線もきれいに見えました。

このときも車窓越しの写真ですが、水平線がしっかり確認出来ます。

ただ、それ以上にインパクトがあったのが、その手前に立ちはだかる「北陸道(高速道路)」と、「国道8号線」の平行して走る高架橋でした。

この駅際にある海岸線から突き出て海上にコースが取られており、現在も通行の難所であることが伝わってきます。

二つの高架橋と日本海の水平線が、それぞれに並行し、拮抗して描く景観は、他では拝むことが出来ません。

自然の脅威と、それを克服してきた人間の縮図みたいなものを感じて、自分の潜在意識に強く残っているのだと、あらためて思いました。

2025年11月22日土曜日

田の神様


素敵な出会いでした。

写真は「田の神様」と呼ばれており、鹿児島県の田舎で時折見かけました。

神だけに、廃物希釈の被害は受けてないようです。

地域の五穀豊穣を見守る土地の神様ですが、頭巾を被ったような後姿は男性器のようにも見え、子孫繁栄の祈願も兼ねているという説があります。

実物を見ると、両方の意味合いはあるように見受けられました。

地域発展のためには、両輪の発想です。

ただ驚いたのは、この田の神様が鎮座していた場所でした。

何と、下の写真の通り、太平洋戦争時に築かれたであろうトーチカの上なのです。

日頃の心がけとして、車で移動しているときに歴史的な遺産の立て札とかがあれば、時間が許す限り立ち寄る様にしています。

もちろん趣味なのですが、このような話材はお客様を訪問したときに、意外なタイミングで盛り上がることがありました。

特に、近代の戦争遺産とかは意識的に拝見するようにしていますが、このときも「トーチカ跡」の手書き看板が見えたので、ふらっと寄ったのです。


この苔むして合体した二つの造作物に、絶妙なバランスといいますが、マイルドな味わいが滲んでいて、しばらく見惚れてしまいました。

また、ちょこんと置かれた陶器の湯飲みが、更に良いアクセントを醸し出しています。

お水も入っており、地元のどなたかが定期的に捧げているようです。


周囲をぐるりと拝見したのですが、背後から見た田園の展望が、またまた最高でした。

最期の写真がそうですが、作成意図が真逆する二つの存在が、仲良く悠久の平和を祈念しているようにも見えて、感動で立ち尽くしてしまいました。

自分の深層心理に、大きな影響を残すであろう風景です。