大分県の最南部に位置する「佐伯城」。
佐伯市の中央に位置する城山にありますが、この地域は大分県の中でも陸の孤島と呼ばれるそうです。
確かに大きな一般道が通じていません。
しかも県境の南側は、宮崎県延岡市になりますが、以前ブログで取り上げた難所「宗太郎越え」が立ちはだかります。
まあ、最近は高速道路が開通しているので、状況はかなり変わっているかと思いますが、四国で例えるなら、ひと昔前の「大歩危・小歩危」を通過して愛媛から高知へ向かう状況に近い感じがします。
話を城に戻しますが、関ヶ原の戦いにおいて徳川方に与して、この地(海部郡)2万石を与えられた「毛利高政」が築きました。
尾張国の出身で、「毛利輝元」から姓を賜って、森姓から毛利姓に変わってますが、本来の毛利一族ではなく、またキリシタン大名でもあったようです。
櫓とかの上物は、ほとんど残っていませんが、石垣は見事の一言に尽きます。
麓の石垣から始まり、山頂一帯まで総石垣で築かれていることから、私のような石垣フェチには堪らないシチュエーションです。
続「100名城」に認定されてますが、最初の「100名城」に選ばれてもおかしくない城郭なのです。
ここで「伊予松山城」を引き合いに出します。
左向きと右向きで異なりますが、縄張りが似ているからです。
山上の本丸入口から、扇が左側に開くように、弧を描いて伸びた先が、複合連立天守閣になっているのが、「伊予松山城」だとすると、右側に開いて伸びたように弧を描いているのが、「佐伯城」の縄張りだと思いました。
複合天守閣でない分、規模は小ぶりになりますが、城下を睥睨するような景観は、同じような印象を受けます。
しかし、ここ佐伯藩の規模が2万石であることを考えたら、15万石の伊予松山藩の城と比較するなんであり得ないことです。
もともとあった大きな城を改築したわけでもなく、近世城郭として新築なのです。
それを約6年ほどの短期間で築きました。
何故このようなことが出来たのか調べてみると、先ず築城の名手「藤堂高虎」とかなり親交があったようで、いろいろと知恵を授かっていた可能性があります。
加えて家臣に、「安土城」の築城に関わった者や、天正期「姫路城」の石垣を担当した者とかがいたようで、かなり〝築城のツボ〟を抑えた集団が関わっていたようなのです。
この「毛利氏」は、国替えになることもなく、1602年の築城開始から幕末までずっと続いたことを考えると、築城に関して強引な労役を領民に課したわけでもなさそうです。
ただ、大分県の城郭についてはあまり知られていないのですが、大規模な総石垣の縄張りを持つ城跡が少なくありません。
もっと拡大解釈すれば、九州全般にも当てはまりそうだと、九州各地をウロウロしていて思い当たりました。
大規模な築城技術を持つ集団が、この界隈で暗躍していたのではと、勝手に妄想してしまいます。
下の写真は、現存している「三の丸櫓門」です。
この風格からしても、2万石であることが信じられません。
このときは、鹿児島で仕事をしていたので、愛媛への帰省の途中に立ち寄りました。
確か大晦日でしたが、とても晴れ晴れとした温かい天候でした。
城の復元図があったので、近寄ったら自分の息子サイズの河童が立っています。
河童の手に自分の手を近づけると、何故か水を出しました。
じゃれているようで、早く家族に会いたくなった次第です。



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