2024年11月9日土曜日

竹崎城

 

どこにあるのだろうかと、迷いながら辿りついた次第です。

途中から案内板が見えたので、楽勝かと思いましたが、九州高速道路が走っている山際を分け入るよう突き進み、ほとんど使われてない高速道路の側道らしき道を、出たり入ったりしながら斜面を上っていきました。 

立体化されたコンクリート土台の道で、本来の登城路はどこにあるのかわかりません。

中世の城跡であり、しっかりした縄張りがあるとも思ってないので、本当に通じているのだろうかと不安に駆られました。

何回かの折り返しで、ようやく区画整理されてない道になり、城に近づいている実感が出てきました。

しかし自然道になると落ち葉が腐葉土化しており、スリップしないようにノロノロ運転です。

こんな調子だと、徒歩でもこの後結構歩くのかと億劫になりましたが、写真の通り本丸らしい土手のすぐ脇まで着くことが出来ました。

この「竹崎城」は「竹崎季長(たけざきすえなが)」の城と言われてます。

日本史の教科書にも出てきますが、「元寇」に際して、自分の手柄を主張するために絵巻物「蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)」を作らせた武将です。

ここは熊本市の南方にある宇城市にあり、九州道の松橋インターチェンジの南側に位置します。

しかし、やっとのことで来れたのですが、案内板には城と武将を直接結び付けるのは難しいように書かれています。

時代的には標高も高いし、曲輪も数多くあって、南北朝の城だそうです。

まあ、中世の武将に城主を当てはめるのは、相当の無理があるのはわかってました。

しかし、城郭の地図を眺めるたびに表記されていてずっと気になっていたので、来れた達成感はあります。

ぐちゃくちゃな道程でしたが、やっとスッキリすることが出来ました。

ただのアホな行動ですが、止められません。




2024年11月2日土曜日

島原城



久しぶりに訪れた「島原城」です。

小雨まじりの陰鬱とした天候でしたが、かえってこの城の雰囲気に合ってました。

天守閣はコンクリートでの再建とはいえ、眼前まで駐車場となっていて、直に車で乗り付けられるのはここしか記憶がありません。

総石垣と堀に囲まれた本丸と二の丸は綺麗に残っていて、その中心に聳え立っているにも関わらず庭がないのが不思議です。

下の写真の縄張り図をご参照下さい。

広大な範囲に築かれた城郭であることが、よくわかると思います。

平成2年に発生した「雲仙普賢岳大噴火」に際しては、自衛隊も含めた支援部隊の拠点として利用されたほどです。

舗装されているのはそのせいかもしれませんが、とにかく殺伐とした雰囲気は、前回訪問したときと変わりませんでした。

天守閣に「破風」がなく、西洋的な趣だからかもしれません。

迫害を受けたキリシタンが起こした「島原の乱」は、幕末を除いた江戸時代の最大の戦争と言えます。

その原因となった島原半島での大弾圧は、ここの領主である「松倉重政・勝家」親子が、この島原城を築くために、領民へ過酷な年貢の取り立てを実施し、年貢を納められない農民や、改宗を拒むキリシタンに対して拷問・処刑を行ったためです。

4万3千石の禄高で、この大規模な築城はあり得ません。

この経緯を知っているためか、どれだけの血を吸って大きくなった城なのか、どうしても恐怖を感じてしまいます。

近世の城郭は、特に為政者の権威を象徴する側面が強い存在ですが、ここほど「支配者」の畏怖を体現している城はないかと思います。

加えて、対岸の天草地方は、唐津藩領の飛び地であり、唐津城主「寺沢広高・堅高」親子が、キリシタンへの弾圧を行っており、双方のキリシタンが「原城」に合流して籠城戦が始まりました(勃発時に父親はなくなっているため、両家とも子供の代)。

「唐津城・原城」については、別の機会に取り上げたいと思いますが、乱終結後の処分については、松倉家は取り潰しで、勝家は斬首となりました。

大名が、切腹でなく斬首となったのは、江戸時代を通じてこの1例のみです。

寺沢家は、天草領を没収のみと比較的軽めでしたが、堅高自身は、江戸詰めで出仕は許されないという、生殺し状態に置かれました。

そのためか精神面を患って自害し、跡継ぎもいないため、同じく取り潰しとなりました。

そんなことを思い出しながら、高石垣の堀を除きつつ本丸の周囲を散策したせいか、何かに引き摺り込まれて落ちないように、相当腰が引けてたと思います。