2025年12月27日土曜日

佐伯城


大分県の最南部に位置する「佐伯城」。

佐伯市の中央に位置する城山にありますが、この地域は大分県の中でも陸の孤島と呼ばれるそうです。

確かに大きな一般道が通じていません。

しかも県境の南側は、宮崎県延岡市になりますが、以前ブログで取り上げた難所「宗太郎越え」が立ちはだかります。

まあ、最近は高速道路が開通しているので、状況はかなり変わっているかと思いますが、四国で例えるなら、ひと昔前の「大歩危・小歩危」を通過して愛媛から高知へ向かう状況に近い感じがします。

話を城に戻しますが、関ヶ原の戦いにおいて徳川方に与して、この地(海部郡)2万石を与えられた「毛利高政」が築きました。

尾張国の出身で、「毛利輝元」から姓を賜って、森姓から毛利姓に変わってますが、本来の毛利一族ではなく、またキリシタン大名でもあったようです。

櫓とかの上物は、ほとんど残っていませんが、石垣は見事の一言に尽きます。

麓の石垣から始まり、山頂一帯まで総石垣で築かれていることから、私のような石垣フェチには堪らないシチュエーションです。

続「100名城」に認定されてますが、最初の「100名城」に選ばれてもおかしくない城郭なのです。

ここで「伊予松山城」を引き合いに出します。

左向きと右向きで異なりますが、縄張りが似ているからです。

山上の本丸入口から、扇が左側に開くように、弧を描いて伸びた先が、複合連立天守閣になっているのが、「伊予松山城」だとすると、右側に開いて伸びたように弧を描いているのが、「佐伯城」の縄張りだと思いました。

複合天守閣でない分、規模は小ぶりになりますが、城下を睥睨するような景観は、同じような印象を受けます。

しかし、ここ佐伯藩の規模が2万石であることを考えたら、15万石の伊予松山藩の城と比較するなんであり得ないことです。

もともとあった大きな城を改築したわけでもなく、近世城郭として新築なのです。

それを約6年ほどの短期間で築きました。

何故このようなことが出来たのか調べてみると、先ず築城の名手「藤堂高虎」とかなり親交があったようで、いろいろと知恵を授かっていた可能性があります。

加えて家臣に、「安土城」の築城に関わった者や、天正期「姫路城」の石垣を担当した者とかがいたようで、かなり〝築城のツボ〟を抑えた集団が関わっていたようなのです。

この「毛利氏」は、国替えになることもなく、1602年の築城開始から幕末までずっと続いたことを考えると、築城に関して強引な労役を領民に課したわけでもなさそうです。

ただ、大分県の城郭についてはあまり知られていないのですが、大規模な総石垣の縄張りを持つ城跡が少なくありません。

もっと拡大解釈すれば、九州全般にも当てはまりそうだと、九州各地をウロウロしていて思い当たりました。

大規模な築城技術を持つ集団が、この界隈で暗躍していたのではと、勝手に妄想してしまいます。

下の写真は、現存している「三の丸櫓門」です。

この風格からしても、2万石であることが信じられません。


このときは、鹿児島で仕事をしていたので、愛媛への帰省の途中に立ち寄りました。

確か大晦日でしたが、とても晴れ晴れとした温かい天候でした。

城の復元図があったので、近寄ったら自分の息子サイズの河童が立っています。

河童の手に自分の手を近づけると、何故か水を出しました。

じゃれているようで、早く家族に会いたくなった次第です。

2025年12月20日土曜日

屋久島のドラえもん(楠川城跡)


鹿児島県の「屋久島」に家族で行って、最初にこれを取り上げるのはどうかとも思ったのですが、正直なところ一番印象に残りました。

いつも旅先を調べるときに、真っ先に確認するのが「城跡」のチェックです。

かなり行きつくした感があるので、「城巡り」の目的だけで旅をすることは、ほとんどなくなりましたが、この島においても同様に確認しました。

隣りの「種子島」には、鉄砲伝来のときに登場する「種子島氏」がいます。

しかし、「屋久島」はどうだったのか、全く知りません。

そうしたら目ぼしい城跡として、「楠川城」跡が出てきました。

幸いなことに変な奥地ではなく、主要道路の海岸線にあって、他の有名観光地に向かう途上に立ち寄れる好立地の場所です。

おかげで、家族に文句を言われなくてすみます。

築城された経緯としては、屋久島は種子島に居城を持つ「種子島氏」の属領であり、楠川港を眼下におくためのようです。

小高い丘に、三つの曲輪で構成されています。

この港は、室町時代の「勘合貿易」の南島航路上の要所であり、「種子島氏」が属する「島津家」が、与する管領「細川氏」の貿易利権にも関わる拠点ともなりました。

鉄砲が伝来した1543年に「種子島氏」に内乱が起こり、大隅半島の「禰寝(ねじめ)氏」が出張って来て一時屋久島を領有したそうですが、すぐに復帰したそうです。

「禰寝戦争」と呼ばれる戦いで、日本史上初めて火縄銃が実践使用された説もあるのですが、鉄砲が2年で国産化したとは言っても、さすがにこのタイミングでは早すぎるような気もします。

ともあれ、行ってみました。

手前に「城之川」という川があり、河口は多少広くなっています。

城を示す立て看板もありますが、どうも手前の道を造成する過程で、曲輪の一部が取り壊されたようです。

その道のおかげで、川と城の間に空間が出来ており、この写真の「ドラえもん」が立っていました。

奥に見える建物は、カフェのようですが、独立した敷地内にあります。

これを見た子供たちの開口一番は「何か気持ち悪い。」でした。

確かにサスペンダーで足元を釣り上げたような腰高な感じ、おへそ周りにある本来のポケットは、大胸筋あたりに位置しています。

下には、像の作られた経緯を示す碑文のようなものがありました。

上に屹立し、適当な雰囲気を醸し出している彼と比較すると、大きな石も結構使われていて、意外にもりっぱに造成されています。

読んでみると、ここを通る子供たちの安全を願って、みたいなことが書いてありました。

でも、このアンバランスな感じに目が行ってしまい、旅行者が事故を起こしてしまいそうです。

誰が作ったんでしょうか。

何かを狙ったにしても、ご意見番とかいなかったのでしょうか。

どの地域にも、不思議な造作物はあるのですが、ここはピカイチに思えました。

城跡だったことを忘れそうです。

2025年12月13日土曜日

鶴泊駅

 


車窓越しの写真に見えるのは「岩木山」です。

別名「津軽富士」とも呼ばれ、青森県津軽地方のシンボルであることを、この界隈を旅する度に実感します。

夕暮れ時で、淡い風情が身にしみる光景でした。

この時間帯、常に真っ赤な夕日を期待しなくても、一人旅にはよりなじむ気がします。

山は冠雪していて、季節はしっかり冬でしたが、平地での雪はチラチラしか見えません。

実のついてないリンゴの木がむき出しのまま、フォームの先に何事もなく佇んでいました。

このときは、文豪「太宰治」の生地である「金木」に向かうのが目的です。

そのため「奥羽本線」で北上し、「川部駅」にて「五能線」に乗り換えました。

更にそこから北上して「五所川原駅」で下車、「津軽鉄道」に乗って「金木駅」に向かう旅程となります。

以前ブログで取り上げた「ストーブ列車」が走る路線なのですが、その運行時間には時間帯が合わず、スルメを焼いて食べるのはお預けとなりました。

このスルメにはどうも縁がないような気がします。

地方路線でも有名な「五能線」は、雑誌とかに特集される際、ここから先の反時計回りに展開される日本海側が取り上げられることが多いです。

これもブログで先に取り上げましたが、素晴らしい景観であることは間違いありません。

「津軽海峡」ではないのですが、まさしく演歌「津軽海峡冬景色」を堪能できます。

しかし自分が年を取ってきたせいなのか、時間が経ってこなれてきたのか、生活臭の強い「津軽鉄道」に乗り換えるまでの何気ない区間が、今ではより印象的に浮かんできました。

6駅ほどの短い区間ですが、「青森~弘前」の主要都市の間に位置するので、かなり濃密な生活路線です。

この駅は、その中間の一駅になります。

地元の方々の「津軽弁」が飛び交う中で、会話に入るなんて不可能な世界でした。

そこに一人ポツンと座っていたことを思い出すのです。

こういう寂しさが減っている状況は、幸せな状況であることは間違いないのですが、懐かしい良き間合いであることも事実なのです。

今、自分をあらためて見つめ直す時期なのかもしれません。

久しぶりにこの写真を見つけて、そう思いました。


2025年12月6日土曜日

ハートロック


鹿児島県「奄美大島」にある「ハートロック」。

空港から中心街に行く道中にあり、干潮時のみ現れるハート形の潮溜まりのことです。

恋人の聖地として、有名な観光スポットになっています。

そのようなニーズは全くありませんが、空港への帰りにフライト時間まで余裕があったため立ち寄った次第です。

干潮や満潮の時間帯は知らずに伺ったのですが、ギリギリ形を拝むことが出来ました。

写真を見ておわかりでしょうか?

中央部分の砂場から岩場に変わる窪みの部分がそれです。

実際に波が動いていると、残像となるせいかハートの陰影をしっかりと拝むことが出来ました。

本来は、あまり興味が沸かないジャンルですが、駐車場からここまでの歩いた道中が、島特有の植物による素晴らしいジャングルなっていて、ここの風土を満喫しました。

また下の写真の通り、砂がとても綺麗な海岸線で、革靴を履いたスーツ姿でも拝めたのはとても幸運な機会でした。

しかし不気味だったのが、手前に写っている黒い物体です。

何と女性が転がっていました。

仰向けに寝ているようにも見えますが、バックが放り出されている様子は倒れているようにも思えます。

さすがに確認しないわけにはいかないので、近づいていきました。

日差しの強さによる陰影が距離の縮まることで薄れてくると、どうも白人女性のようです。

30代くらいでしょうか。

途中で動かないかなと期待したのですが微動だにしません。

ほぼのぞき込むような間合いになって、歩く砂音でも聞こえたのか、漸く目を開けてくれました。

心配して寄っているのですが、変質者と誤解されないかとドキドキです。

幸い向こうも事情を察したのか、「ファイン。大丈夫。」と笑顔で言葉を返してくれました。

言葉をうまく喋れるわけでもないので、こちらも微笑み返してそそくさと離れましたが、本当に紛らわしい展開でした。

何にせよ無事でよかったです。

もし具合が悪くて救急車を呼ぶような羽目になると、フライトに間に合わない可能性すらありました。

慣れない聖地訪問をするから、こんな展開になったのでしょうか。

奇妙な経験でした。

ちなみに真夏のようですが、季節は年末です。



 

2025年11月29日土曜日

親不知(おやしらず)駅

 

日本海側にせり出したようにある「親不知駅」です。

福井県の県境に近い新潟県にあり、北陸道最大の難所で、断崖絶壁と荒波が人々の行く手を阻んだことから、通行に際して波打ち際を駆け抜ける必要があったそうです。

その慌ただしさから、親は子を忘れ、子は親を顧みる暇がなかったことから、「親知らず・子知らず」と呼ばれるようになったとのこと。

細かい話になりますが、この駅の西側が「親不知」、東側が「子不知」と、どうも呼ばれるようです。

かなり前の撮影ですが、看板にJRのロゴが残っており、懐かしい風景です。

このときは「北陸本線」でしたが、今は「えちごトキめき鉄道」と名称が変っています。

ブログに取り上げておいて恐縮なのですが、この駅で降りたことはありません。

ただ、この路線を通るとき、ここで長めに停車することが多かった印象があります。

列車を下りずに車窓から眺めているだけの、この写真の光景が、強烈な既視感として残っています。

晴れていると日本海側の水平線もきれいに見えました。

このときも車窓越しの写真ですが、水平線がしっかり確認出来ます。

ただ、それ以上にインパクトがあったのが、その手前に立ちはだかる「北陸道(高速道路)」と、「国道8号線」の平行して走る高架橋でした。

この駅際にある海岸線から突き出て海上にコースが取られており、現在も通行の難所であることが伝わってきます。

二つの高架橋と日本海の水平線が、それぞれに並行し、拮抗して描く景観は、他では拝むことが出来ません。

自然の脅威と、それを克服してきた人間の縮図みたいなものを感じて、自分の潜在意識に強く残っているのだと、あらためて思いました。

2025年11月22日土曜日

田の神様


素敵な出会いでした。

写真は「田の神様」と呼ばれており、鹿児島県の田舎で時折見かけました。

神だけに、廃物希釈の被害は受けてないようです。

地域の五穀豊穣を見守る土地の神様ですが、頭巾を被ったような後姿は男性器のようにも見え、子孫繁栄の祈願も兼ねているという説があります。

実物を見ると、両方の意味合いはあるように見受けられました。

地域発展のためには、両輪の発想です。

ただ驚いたのは、この田の神様が鎮座していた場所でした。

何と、下の写真の通り、太平洋戦争時に築かれたであろうトーチカの上なのです。

日頃の心がけとして、車で移動しているときに歴史的な遺産の立て札とかがあれば、時間が許す限り立ち寄る様にしています。

もちろん趣味なのですが、このような話材はお客様を訪問したときに、意外なタイミングで盛り上がることがありました。

特に、近代の戦争遺産とかは意識的に拝見するようにしていますが、このときも「トーチカ跡」の手書き看板が見えたので、ふらっと寄ったのです。


この苔むして合体した二つの造作物に、絶妙なバランスといいますが、マイルドな味わいが滲んでいて、しばらく見惚れてしまいました。

また、ちょこんと置かれた陶器の湯飲みが、更に良いアクセントを醸し出しています。

お水も入っており、地元のどなたかが定期的に捧げているようです。


周囲をぐるりと拝見したのですが、背後から見た田園の展望が、またまた最高でした。

最期の写真がそうですが、作成意図が真逆する二つの存在が、仲良く悠久の平和を祈念しているようにも見えて、感動で立ち尽くしてしまいました。

自分の深層心理に、大きな影響を残すであろう風景です。

2025年11月15日土曜日

琵琶湖の景色



確か、「伝教大師:最澄」の産湯があるお寺を訪れたときに撮影したと思います。

「比叡山延暦寺」に向かう道中だったこともあり、りっぱな直線道路です。

写真の通り、並木と道路の先に「琵琶湖」が拝めました。

今回は、当時の現場にいたときではなく、このブログを書くために写真を眺めていた時の話をさせて下さい。

隙間のように見えただけなのですが、このときから不思議と「琵琶湖」の存在感を強く意識するようになりました。

結構な回数「ビワイチ(琵琶湖一周:最近、大阪の妹に教えてもらいました。)」をしていましたが、「水」を楽しんでいただけで「湖」としての認識が乏しかったのかと、このとき妙に得心しました。

そういう意識で、この湖が拝める寺社仏閣を訪問すると、全てといってよいくらい湖との関係を意識して建築されているんだなあと、あらためて実感します。

その当時を振り返ると、大局的に思いがはせられ、再訪したくなりました。

そんなの当たり前だろ、と多くの方が言われると思いますが、正直なところその視点が自分には欠けていたのです。

こういうことは気がついてないだけで、もともと多いのかもしれません。

この年になって、結構いろいろな場所に行ったなあと思いますが、自分の趣味の軸である「城・鉄道」については飽和気味になってきていて、このままでいいのかという不安があります。

「車」も興味が尽きませんが「足るを知る境地」もあって、老いもあるのか満ち足りた安堵感が出てきています。

まとまらない話になっていて恐縮ですが、「人生」のギアをもう一回上げるなら、新たな視点と興味の対象を増やす必要があると、反省してしまうこの頃です。

何気ない琵琶湖の写真から教えてもらったことでした。

2025年11月8日土曜日

中山法華経寺


「総武線」の「下総中山駅」にある「中山法華経寺」です。

東京で仕事をしていた時代は、「西船橋駅」の近辺に住んでいる期間が長く、一駅隣のここにはよく散歩に行きました。

「日蓮宗」のお寺の中でも、大本山になり最高ランクの位置づけで、大きな建物による寺院群があり、多くの修行僧をお見かけしました。

現役バリバリのお寺です。

歴史は古く鎌倉時代になりますが、多くの迫害を受けた「日蓮」は、この地域の武士に保護されて、紙筆の提供を受けたそうです。

その流れからか多くの彼の遺文が残されており、国宝である「観心本尊抄」と「立正安国論」は当寺が所持してます。

特に「立正安国論」は、教科書で覚えました。

また、写真の五重塔は、重要文化財の指定を受けており、散歩の折り返し地点です。

下の写真が、その散歩のときに歩いていた門前通りなのですが、お寺の境内付近でなかなかの風情があります。

参道は、「下総中山駅」から真っすぐに続いていて、駅の近辺は坂道になっており、この周辺は飲食店が軒を連ねています。

甘味処とか町中華があって、結構楽しませてもらいました。


あらためて思いますが、大手のチェーン店が圧倒的な支配力を持つ千葉県で、ここは得意な位置づけだったと実感しました。

晩秋の夕暮れ時に、今の年齢になって歩くと、あのときとは全く違う境地が開けそうな気がします。
 

2025年11月1日土曜日

輪中ルート


かなり前の話ですが、愛知県大府市の企業へ、3か月に1回訪問する案件がありました。

その時期、ラッキーにもアポイントが週末になった場合は、後泊してその土日に城巡りを敢行しておりました。

東海地方には、現存天守は残ってないのですが、「織田信長・豊臣秀吉・徳川家康」3人の天下人を出し、有力大名もこの地域出身の方が多いため、歴史的な出来事に関わる城郭史跡はとても豊富です。

城跡はもちろんですが、それがなくとも公園や寺社の敷地になっている比定地を含めると膨大な数になり、他の地域とは密度が違います。

そのため、毎回かなりの数を頑張って訪問しても、未消化で終わることが多く、未練を残して帰ることとなりました。

一定水準の達成感を感じるまで数年かかった次第です。

その際に「岐阜・大垣」訪問を目指すとき、大きな移動の支えとなったのが、写真の輪中を突き抜けるルートでした。

訪問先の大府市が名古屋中心市街地の南側にあるため、少し北上して西北方面を目指すことになりますが、そこには「木曽川・長良川・揖斐川」の三大河川が待ち構えています。

あとで「桑名海津線」と呼ばれるルートだと知りましたが、長良川と揖斐川を仕切る細い土手(背割堤)にあり、国道1号線と交錯する北へ向かう小道でした。

不意に入り口が出てくるので通り過ぎそうですが、前方を走っている商用車がそこに曲がったため、思わず続きました。

とっさの閃きです。

土手と言っても高さはなく、洪水時には水に浸かっても構わない設計なのか、川面を眺めながらのドライブでした。

アップダウンの低いときには、道路が土手の壁面よりも低くなり、水面下になっているようです。

道路の両サイドに水面が見える景色が続き、楽しくてしょうがないうえに、より最高だったのは道が空いているということでした。

東海地方は、道がどこも混んでいる印象が強いのですが、このルートは細い土手の上にあるため交差点が少なく、信号機がほとんどないのです。

そのおかげで渋滞なく大垣に行けますし、更に山間部まで向かうことも出来ます。

下の写真のように、3大河川にかけられた大きな橋梁達を、下のアングルから見上げるように抜けていく快感は、今でもしっかりと残っています。

今度行ったら目的地を決めずに、この道路の行き着く先を目指したいと考えています。
 

2025年10月25日土曜日

TM(テイエム)牧場温泉


名湯には事欠かない鹿児島県ですが、最も尖がった印象を残したのがこの温泉です。

鹿児島県でも、東側の大隅半島側にあり、桜島の南に位置します。

確か別の温泉施設に立ち寄ちよろうとしたのですが、混んでいる様子だったので他を捜すことにしました。

地域のガイド雑誌を持っていたので、拡げて探していて発見。

そこには、〝異次元の湯〟と表記されています。

名湯激戦区の鹿児島県で、こんな言葉が使われるなんて、異常に興味が沸きました。

また、アルファベットで始まる温泉名を聞いたことがありません。

ここから近いので俄然行く気になりました。

主要道路から海寄りの細い街道に降りて、目的地に向かいます。

写真の通り、目的地は廃墟を更地にしたような場所で、名称の看板は目立ちますが、施設らしい建物がありません。

海側を覗き込むと幟が立っていて、小屋が見えました。

このまま車を置いて下り道を進み、そこに向かうと、海の家みたいな風采です。

中に入ると、男女にはちゃんと分かれており、いそいそと料金を払って入湯しました。

第一印象は、ポンジュースです。

あくまで色のことなのですが、鮮やかなオレンジ色に見えました。

他の人がアップしている写真とかを見ると、黄土色なので大げさに聞こえるかもしれませんが、このときは眩しい日差しが湯面に反射していたので、そのように見えたようです。

さすがに匂いは柑橘系ではなく、茶褐色系によくある錆びた風味がしました。

炭酸水素塩泉と表記されていますが、鉄分とカルシウムが多いようです。

普通はベタつくことの多い泉質ですが、思いのほかサラリとしてました。

でも濃厚な感触で、まさに極上でした。

また、名称の「TM」は「テイエム」と読むそうです。

もともと、馬主で有名な方が、自分所有の競走馬に「テイエム○○○」と命名していたようで、かれらを育てる牧場も「テイエム牧場」と名付けられました。

牧場は複数あるようですが、ここの牧場は既に閉鎖されてます。

そのため、「テイエム牧場」は閉鎖しましたが、「テイエム牧場温泉」は営業してます、みたいな非常に紛らわしい言葉が飛び交うそうです。

湯を堪能した後は、近くにあるフェリーに乗り、錦江湾を横断して鹿児島市内に戻りますが、船内にはうどん屋さんがあり、それを食しながら海の景色を眺めるのが楽しみでした。

そのとき、いつも宇高連絡船が思い浮かぶのは、自分が四国の人間である証左かと実感します。

そこに向かうべく北上する途中、下の写真のように桜島が迫る様に見えました。

桜島は南から見る方が、火口がよく見え、活火山としての雄々しさがより伝わってきます。

何かにつけて鹿児島のドライブは、雄大な気持ちになれる素敵なコースばかりでした。


2025年10月18日土曜日

SLばんえつ物語

 

福島県「郡山駅」と新潟県「新津駅」を結ぶ「磐越西線」。

そこをひた走る「SLばんえつ物語号(今は「SLばんえつ物語」に名称変更)」です。

現在人気を博しているご当地観光列車の魁のような存在であり、今も元気に運行されてます。

この写真は20年以上前に撮影したもので、客車の上下がチョコレート色で、中央部分がクリーム色のカラーリングは、運行初期のデザインです。

このブログを書くために、今までの変遷を調べてみたのですが、驚くほどリニューアルされていました。

先頭で7両編成をけん引している蒸気機関車「C57 180」は、いまも健在(これが凄い)ですが、客車はカラーリングの変更のみならず、新規の車体がどんどん投入されて、より快適性を追求したものになっています。

今は、展望台車まであるようです。


この列車のコンセプトとして、運行当初から名称通り、物語性を重視したものになっていました。

下の写真はこの列車専用のお弁当で任意に購入出来るのですが、地域の食材を使用し郷土料理を詰め合わせた嬉しい内容になっていました。

ビールも、地元のクラフトビールが用意されていて、両方とも「SLばんえつ物語」の名称になっています。

川沿いの車窓を眺めながらの一杯は、最高のひとときでした。


以前のブログで、ご当地観光列車は豪華すぎて興味の対象にないようなことを書いていたのですが、この日のことを思い出すとかなり楽しんでいた自分に気がつきます。

再考が必要かもしれませんが、一人旅で楽しめるのかどうか確認要です。

一人という発想が、家族に叱られそうでが・・・。

2025年10月11日土曜日

舞鶴線


鉄道の歴史は、軍事の歴史でもあります。

鉄路が敷かれる優先順位は、軍需物資を効果的に運搬するための優先度に、重なることが多いと思われます。

今回取り上げる「舞鶴線」は、「山陰本線」の「綾部駅」から枝分かれし、終点の「東舞鶴駅」まではわずか6駅、路線距離は26.4キロしかありません。

しかし舞鶴が軍港であることから、民営企業での計画があったにもかかわらず、官設に切り替えられて、1904年に開業されました。

「日露戦争」開戦に間に合わせるためです。

そこから先も延伸されて、「北陸本線」の「敦賀駅」と繋がり、旧国名「若狭の国(福井県の西部地域)」を横断する「小浜線」へと続くのですが、全通したのは1922年と、かなり後の時代になりました。

急がない公共投資はこんなものかと。

また、「東舞鶴駅」が二つの路線を分ける起点になるのですが、同じ1本の路線でも対照的です。

東側を走る「小浜線」は、銀色の車体に明るい緑色のラインが入った車両を採用しており、海沿いの明るさがあります。

逆に、西側を走る「舞鶴線」の各駅停車は、写真の通りくすんだ緑一色で、ミリタリー調の雰囲気が漂っています。

初めて見たとき、「機動戦士ガンダム」に登場する敵側の戦艦「ムサイ」が浮かびました。

現在も、「東舞鶴港」は海上自衛隊の基地であり、この重めと言いますか、冴えない色調はこの路線の各停車両に似つかわしいと思います。

今回の旅は、5枚セットの「青春18切符」のうち、最後の余った1枚を活用した日帰り旅行として舞鶴までやってきました。

今から東舞鶴市街を通り、軍港までを散策するのですが、この列車の折り返しの出発を見届けました。

季節は9月上旬で、ガンガン照りではありませんでしたが、それなりに強い日差しはありました。

しかしこの色調は、光をあんまり反射しないようです。

鈍いぼやけた光沢を発しながら去っていく様は、まるで戦車のようです。

特別な場所にやってきた旅情を感じさせてくれる、有難い各停車両でした。

何故か、思わず手を合わしてしまいました。

 

2025年10月4日土曜日

石見川本駅

 

かなり古い写真になりますが、廃線になってしまった「三江線」の在りし日の風景です。

以前に何度か取り上げましたが、広島県内陸部にある「三次駅」と、島根県沿岸部の「江津駅」を結ぶ路線になります。

とにかく蛇行が多い路線で、写真は島根県内陸部にある「石見川本駅」ですが、奥に向かって大きく右に弧を描いているのがわかります。

このときは駅も開業していて、列車が入線してきていたのを見つけて、慌てて写真を撮りました。

超がつくローカル線なので、列車に遭遇出来てラッキーです。

確か、知人の手伝いでドライブがてらやってきて、その打ち合わせの事務所が、町を見渡せる高台にありました。

自分の用事ではなかったので、そこからぼんやりと町を眺めていました。

待っているしかなかったので、慌てる必要もなく、妙に贅沢な時間を過ごしているなあと、感慨深かったのを思い出します。

勤め先の営業所もこの町にあり、今は店舗統合で閉鎖されてましたが、当時は機能していて、帰り際に少し覗いたことを思い出しました。
(残念ながら、土曜日だったので誰もいませんでした。)

下の写真は、帰りがけに車を撮影したのですが、夕映えになりかけていて、やさしい陰影の風景になっています。

まだまだ旅をしていくと思いますが、インパクトのある被写体を撮るよりも、撮影したときの心情が思い起こせるような写真を残せるように心掛けていきたいと思いました。


2025年9月27日土曜日

伊香保温泉


「伊香保温泉」の温泉街です。

結構な急坂である石段は、旅館・土産物屋・遊技場とかが軒を重ねており、この温泉のシンボルでもあります。

地元で普及している「上毛かるた」でも、〝い〟は「伊香保温泉 日本の名湯」です。

会社の先輩にこの話を伺ったのですが、この言い回しは何故か憶えていました。

同じ群馬県内にある「草津温泉(ほとんどの全国温泉番付で、横綱認定)」と、並んで知名度が高いと言っても過言ではありません。

有名な文豪達が、小説の題材とかにも取り上げていて、温泉ならではの風情というか余韻が漂う素敵な場所でした。

私がこの温泉街をはっきり認識したのは、漫画「頭文字D(地元の走り屋が、夜な夜な峠で勝負する)」の舞台が、この界隈を想定しているからです。

実際の地名は微妙に変更されているのですが、この漫画の主人公と、彼女が紅灯の巷へと消えていくのも、この温泉街が背景になっていました。

しっぽり感というか、色気が漂う温泉ではあります。

ただ、残念ながら温泉の泉質は大したことありません。
 
悪い印象で残っているのが、読んだ推理小説でここが登場したときに、湯量が乏しくて困っているという話題でした。

昔からの源泉は「黄金の湯(こがねのゆ)」と呼ばれるそうですが、権利者が幅を利かせていて、新規に発掘された「白銀の湯」と併用されているそうです。

ただ後者は、無色透明で湧出温度が低く、温泉特有の成分が非常に少ないため、評判がイマイチとのこと。

以前に泊まった宿は、茶褐色の前者だったので当たりと言えますが、それでも源泉かけ流しでなく、妙に薄い感じがしました。

愛媛の塩素が入っている有名な温泉(それでも好きですが)と、立ち位置が似ているような気がします。

しかし、インバウンドの流れも含めて、温泉業界でのブランド戦略は、継続的に栄えていくうえで非常に大事だと感じています。

雑誌での紹介記事において、宿泊したことのある有名旅館が、ビックリするような金額になっていることが多いです。

もはや自分の懐具合では、宿泊出来る相場ではありませんでした。

正直なところ、日本のサラリーマンが家族単位で宿泊するのは、全国的に厳しくなっているような気がします。

話題になる前の穴場を、自分の感覚で探していくしかありません。

家族旅行で宿泊出来る素敵な場所を、見つかるのは本当に大変です。





2025年9月20日土曜日

天橋立股のぞき

 

いきなり別の話題になりますが、「西国三十三寺」という寺巡りの括りがあります。

三十三もあれば、普通しょぼいのが入っていそうなものですが、近畿地方を中心に名だたる寺院ばかりで構成されており、行きごたえがあります。

この括りを聞いたことはあっても詳しくは知りませんでしたが、有名な寺院が多いため既に行っているお寺が相当数あり、大阪に住んでいる間にコンプリートしたいと、最近思い立っています。

しかし範囲が広大です。

順番に廻ろうとすると、最初の一番札所は和歌山県のほぼ最南端に、最後の三十三番札所は岐阜県のまあまあ山奥にあったりと、初っ端から心が折れそうな場所に点在しているのです。

ちなみに最北に位置するのが、二十八番札所「成相寺(なりあいじ)」です。

丹後半島の根元に位置し、日本三景の一つ「天橋立」を眼下に拝むことが出来ます。

この写真がその展望で、少し靄ってましたが全貌をしっかり見ることが出来ました。

もとは修験道の道場だったらしく、雪舟の国宝「天橋立図」にもこのお寺は描かれています。

「天橋立」自体には何度か行っていて、実際に北から南まで歩いて縦断したこともありました。

松林の中を歩きながら、左右の海を眺めることが出来るのです。

訪れたときは夕暮れ時で、気持ち良い風に当たりながら風光明媚な雰囲気を味わった記憶が残っています。

しかし、名称の由来は、このお寺からの景観なのだと実感しました。

かなり標高が高く、坂道を車で上がっていくのですが、このときの車はマニュアル車で大変でした。

こんな斜度のきつい坂道を登ったことがないくらい急です。

前方のもたついた車に追いついてしまうと、その車のペースでスピード調整をしないといけなくなるため、エンストしそうになります。

クラッチを踏む左足が何度もつりそうになりました。

このときは三十三寺を意識していなかったので、引き返そうかと思いつつも、何とかたどり着いた次第です。

下の写真は、少し奥まったところにある「天橋立股のぞき岩」です。

昔、テレビでやっていた「一休さん」でおぼろけながら見た記憶があります。

実際にこの岩に上がって股のぞきの姿勢で見てみました。

天に昇っているほどには見えませんが、海に立っているように見えなくもありません。

まあ娯楽がない時代には、一つのアトラクションだったのかなあ、と思いました。

ただこの日は暑かったのですが、ここまで高いと照り返しの地熱にさらされてない涼しい風が吹いていて、非常に爽やかな気持ちに浸れました。

幸い人もいなかったので、結構な時間をここでボーっとし、かなりスッキリしました。

おそらく人によって反応するツボが異なる場所かと。

一種のパワースポットかと思われます。

2025年9月13日土曜日

木ノ芽城塞

 

旅行をしていて「ここは難所だな。」と実感する場所があります。

福井県の若狭湾に面する「敦賀」から「福井」方面に向かうルートもそうでした。

以前のブログ「宗太郎越え」にて、自分の斜度に対する感度の無さを露呈していて恐縮ですが、ここは明確に感じました。

昔なら、ここは「若狭国」と「越前国」の国境に位置する地帯です。

ここを通る鉄路・高速道路・一般道のすべてにおいて、急斜面を駆け上る印象が強く、列車のディーゼル音、前方を走るトラックの苦しそうに吐き出す排気ガスの量、様々な乗り物が喘いでいる姿からその厳しさが伝わってきました。

今回は、古くからの主要道路であったであろうルートを探しながら、じっくり進んでみることにしました。

先ず、「敦賀駅」付近の川に「木の芽橋」があります。

ここが起点かなあ、と思いつつ、国道476号線を上っていきました。

昔の駅跡があり今は付け替えられてますが、ほぼ同じルートで鉄路があったようです。

軽井沢と横川間の「碓氷峠」とかもそうですが、列車の登坂能力の性能向上により、更なる移動時間の短縮を目指し、時代ごとに鉄路は見直されて、より直線的になっていきます。

高速道路の登りもこの道沿いでした。

下りは負荷が少ないため、より直線的な別ルートになっていますが、ここが昔から一番登り安い勾配だったことは間違いないようです。

しかし、この476号線も途中でトンネルの直線道路になってしまい、ここから別ルートを探さないといけません。

幕末の天狗党の首謀者である「武田耕雲斎」の本陣となった後があり、その脇から続く山道が古道のようです。

そこから延々とジグザグ道を頑張ると、少し平坦になってきて、最高所の「木の芽峠」に至りました。

写真の通り、多少緩やかでもこの車の角度です。

下の写真により詳細を示してますが、ここは城塞が築かれています。

近畿方面からの敵を防ぐ目的があったようで、戦国時代には、「織田信長」が「朝倉義景」を攻略したときのルートでもありました。

ここから先は、スキー場の中を通り抜けるような道になり、北国街道「板取宿」に至ることが出来ました。

出たとこ勝負の探検でしたが、スリリングな展開で非常に楽しめました。

あまり調べず直感で進む旅は、これからもっと楽しくなりそうです。

怖い試みになりますが、鉄路の廃線ルートを攻める時期かもしれません。


2025年9月6日土曜日

小浜温泉

 


不思議な場所にある温泉です。

JR山陰本線「温泉津駅」から歩いて5分ほどの場所にある公衆浴場ですが、この先には世界遺産「石見銀山」の構成資産に含まれる「温泉津温泉街」があります。

ほぼ同一エリア内に、別の温泉名で浴場を構えているのです。

以前に取り上げた「温泉津温泉」は、個人的にも大好きで、ここを車で通るときは必ずと言っていいほど立ち寄りました。

しかし鉄路の場合は、この「小浜温泉」を利用します。

この写真は車で来たときに撮影したのですが、列車の場合、降車して次便がやって来るまで一時間ほどしかない場合が多く、タクシーを使わないと駅から温泉街を往復することが出来ません。

鉄旅のときは節約モードになっているため、ここでタクることは、私にとって負けを意味します。

まあ、そんなことを考えなくても、入浴したい素晴らしいお湯なのです。

塩化物泉と表記されてますが、そんな単純に言い表せない複雑な泉質です。

黄色味を帯びていて、とろみがあるようには感じないのですが、肌辺りはとても柔らかいです。

温泉らしい匂いも漂っていますが、成分が判別できるほどの、とんがった風味ではありません。

結果的には、交通手段で棲み分けが出来て良かったと、毎回感謝して入湯している次第です。

あるときに驚いたのですが、当時の有名だった温泉マイスターが、中四国の鄙びた温泉浴場の筆頭にここを取り上げていました。

確かにそのときは、もっと鄙びた味のある浴場施設だったのですが、残念ながら火事で焼けてしまい、今の姿に立て直されたのです。

新しくなった浴場にも入ったのですが、相変わらず地元の方々が大半を占めていると思われ、この地域の方言が飛び交っていました。

設備は新しくなってますが、変わらずの雰囲気が漂っていて、とても懐かしく感じたのを覚えています。

そう言えば、ここでの強烈なエピソードがありました。

写真に写っている水色のベンチに座って、風呂上がりのジュースを飲んでいたとき、おもむろに女性用の入口から出てきたおばさん二人に「まあ、ユタカ君お元気だった。」と声をかけられたのです。

「いや、旅の者で、違いますよ。」と否定をしたのですが、二人は「何とぼけているのよユタカ君。」と食いついてきます。

「いや、本当に別人です。」と言っても、認めがたいらしく、しばしの沈黙がありました。

そのうち一人が、「いや、ユタカ君じゃないわあ。」と言い出したのですが、もう一人はまだ疑っていて、こちらを睨んでいるような表情でずっと見てました。

違うと認識した方が、もう一人を引っ張る様にして立ち去られたのですが、最後まで自分がユタカ君でないことに納得されてない様子でした。

ユタカ君、どんな人なんだろう。

今日は車なので、下の写真の進行方向を右に、しばらく進んだところにある「温泉津温泉」
の「元湯」に向かいました。

あの二人、行ってないだろうなあ。


2025年8月30日土曜日

不動院岩屋堂


この修験道寺院は、鳥取県の「若狭鉄道」の終点「若狭駅」から更に山間部に走った場所にあります。

国の重要文化財に指定されており、もともとはここにあった「神光寺」の大伽藍の一部だったらしいのですが、豊臣秀吉の因幡侵攻に際し焼失してしまい、この堂宇のみ残ったらしいです。

確かに秀吉はこの先にある「戸倉峠」から因幡に入り、鳥取城を兵糧攻めにしたと記憶しています。

岩窟の隙間に嵌め込むように建築されていて、高さ10m、奥行きも10mと立方体に近いまとまりがあり、箱に入れられた「銀閣寺」のようだと思いました。

サイズはこっちがおそらく大きいのですが、小さくかわいく見えました。

岩場の隙間をうまく活用して建てた堂宇は「投入堂」とも言われ、このブログの一番最初に取り上げた「鰐淵寺」の「浮浪の滝」にある堂宇も、小さいですがこのジャンルになります。

近くの「三徳山三仏寺の投入堂」と、大分県宇佐市「龍岩寺の奥院礼堂」と合わせて、日本三大投入堂の一つされています。

この狭くて不自由な空間に、宇宙が広がっていくような感覚がたまりません。

下の写真の通りイメージが膨らんで、滝と一緒にわざわざ鉄道ジオラマまで作ってしまいました。


最近、自分の潜在意識にある好みを見つけ出し、鉄道ジオラマに具現化すると、その領域のエクスタシーに達する感覚を覚えることがあります。

本当は自分が何をしたいのか、自分でもよく解ってないんだと、考えることが多くなりました。

本題に戻りますが、大きな杉木立に隠れるようにして佇んている堂宇の階段を上がっていくと、苔むした岩窟が迎えてくれます。

苔のせいなのか、岩から染み出ているのか分かりませんが、冷気が漂っていて心身の余分な熱気を払ってくれるような心地がします。

川の流れる音と、カワセミが鳴いているのも聞こえてきて、自分が小中学校のときに川で泳いで遊んでいたときと同じ音響でした。

最期は近くの公園でトイレ休憩したときの写真ですが、ここはカエルの大合唱です。

夏の土曜日、地元の喜光地商店街の夜市に出かけていくときの、田圃の道中を思い出しました。

よく友達と連れ立って、駄菓子を食べながらゲームセンターで遊んだのは、すごく楽しかった思い出です。

童心を思い出した訪問でした。


2025年8月23日土曜日

大邱(テグ)のギネスビール


コロナ明け最初の海外旅行は、韓国での乗り鉄旅でした。

その際、韓国の中央部に位置する「大邱」を宿泊地の一つに選びました。

規模は、ソウル・釜山に続く、第3位の大都市です。

30年以上前の大学生時代、一度来たことがあります。

ソウル五輪の直後で、まだまだ物騒な雰囲気が漂っていました。

ご存じかと思いますが、韓国には兵役があります。

当時、駅の改札を出て町中に向かうときに、数多くの軍服を着た若者が、たむろしていたのが印象的でした。

しかし、今はお洒落な服を着たカップルが行きかっていて、韓流映画やドラマに出てくるネオンがキラキラした通りになっています。

歌舞伎町を更に明るくしたような感じがします。

先ず荷物を置きたいので、急いで予約の宿に向かいましたが、ビックリでした。

ラブホテル街の中にある、そのまんまラブホテルでした。

安いから選んだのですが、韓国はラブホテルでも普通に泊まれることにビックリです。

自分と同じようなおっさんが、普通に一人で出入りしているので、ここでは当たり前のようでした。

チェックインをして、町の散策を開始です。

お腹が空いていましたが、折角の機会なので、これはと思う店はないか探しました。

小一時間歩いて、「参鶏湯(サムゲタン)」専門店を発見。

混んでましたが、家族連れが帰る時間帯だったので、タイミング良くすぐに入れました。

それしかないので注文したらすぐに出てきます。

おいしく、汗だくになって頂きましたが、高麗人参が効いてきたのか、元気になった気がします。

盆地特有のまとわりつくような空気の重さは、日本と変わりません。

飲み屋街の続く裏路地を通って、ホテルへ帰ろうとしましたが、もう一軒覗いてみたくなりました。

そのときに、写真のギネスビールの店を発見したのです。

自分はギネスビールが、ビールで一番好きです。

ハングルで書かれていましたが、特徴的なビアグラスの看板でわかりました。

入店すると、下の写真の通りギネスらしい色調で統一されてます。

ハンチング帽を被った小太りのおっちゃんマスターがいて、私を日本人と認識して、片言の日本語でカウンターを進めてくれました。

「私は日本によく行きました。」と話しかけてくれ、その旅行時に撮影した動画を、店内スクリーンに流してくれます。

私はハングルがまったく喋れないので、最近購入したポケトークをフル活用して会話しました。

生ギネスを飲みながら、ここは大邱でのギネスビール一番店で本社の社長も来たことがあるとか、ビール会社に勤めていたときにギネスが好きすぎて、そこの会社で取り扱う責任者になったとか、その流れで引退後にこの店をやり始めたとか、ギネス愛に溢れる話を楽しく聞かせてもらいました。

二杯目を頼もうとメニューを見ると、リキュールとセットになった見慣れない組み合わせがあります。

何かと伺うと、「爆弾です。」と教えてくれました。

韓国の一気飲みのやり方で、ビールジョッキに入ったビールの中に、アルコール度数の高いウイスキー等を入れたワンショットグラスを落とし込んで、そのまま飲むというものです。

ギネス版もあることに驚きながらも、とても好奇心がくすぐられました。

ホテルも近いし、あとは寝るだけなので挑戦することにしました。

ギネスの中に、コーヒーリキュールのワンショットを落とし込みます。

ものすごい泡立ちで、止みそうにありません。

本来、このビールは泡立ちが止まってから飲むのですが、この状態で一気にいけとの合図。

一気に飲み干す間、マスターは何かを唱えてました。

「イッキ!イッキ!」なのかなあと、薄れゆく意識の中で完飲しました。

最後はマスターと出会った記念に、ツーショット写真を店の入り口で撮りましたが、ここで限界がきました。

もう暑さへの感覚も全くありません。

幸いにも、ホテルの周辺で呼び込みに引っかかった形跡もなく、就寝していた次第です。

明日の始発に遅れないように、外出前に目覚ましをセットしておいて大正解でした。

2025年8月16日土曜日

東舞鶴港


「舞鶴」には何度か行っているのですが、鉄道のときも車も、何かのついでに立ち寄っているだけなので、この町全体の地理が非常に不明確でした。

「舞鶴」とひとくくりに言っても、「東舞鶴駅」と「西舞鶴駅」に分かれていて、山を隔ててそれぞれが市街地を形成しているのです。

そのため「舞鶴城」に行った記憶も、どちらの市街地にあったのか、わからなくなっています。

老後に備える焦りもあってか、一度「自分の足」で認識しておこうと、久しぶりに「青春18切符」を使って日帰り旅行を敢行しました。

朝一番の始発で、江坂からスタートし、新大阪から京都へ、そこから「山陰本線」に乗り換え、日本海側へ進んでいきます。

「福知山駅」の手前にある「綾部駅」で下車し、更に「舞鶴線」に乗り換えて、目的地の「東舞鶴駅」へは昼過ぎに到着しました。

そこから写真のある「舞鶴赤レンガパーク」に歩いていきます。

気になったところに立ち寄りながらだったので、小一時間かかりました。

曇っていて日差しは楽だったのですが、真夏だけに汗が噴き出して止まりません。

ここはよく映画やテレビのロケ地に使用されるので、この写真のアングルで見たことのある方も多いかと思います。

レンガ倉庫の内部はお洒落なショップにリニューアルされていて、多くのカップルがいました。

汗臭いだろうなと気にしながらも、一人で少しウロウロします。

意外にもマニアックな品々が多く、海上自衛隊の艦船が一覧表になった手拭いを購入しました。

ただし、旅の目的は、ここは東なのか西なのか、はっきり認識することです。

「東舞鶴」の西の際にありました。

その先のトンネルを入って、西に少し進むと「西舞鶴」になってしまうので、本当に紛らわしいです。

そこから港に向かいました。

東と西ともに大きな港があり、NHKドラマ「坂の上の雲」に出てくる「舞鶴港」はいつもどっちなんだと思います。

その軍港は、下の写真の「東舞鶴港」でした。

数隻の護衛艦が停泊していて、小型船も全てが鼠色。

海上自衛隊の大きな基地であることが十二分に伝わってきます。

さっき手に入れた手拭いも、ご当地ならではと実感しました。

おかげで、しっかりとイメージ出来ました。

この後に「西舞鶴」も散策し、「舞鶴城」があり、こちらの港は民間用であることがわかりました。

とてもスッキリしました。

これからもどんどん記憶力が落ちていくと思うので、足を使った営みを継続的にしていくことの大切さを、あらためて知りました。

まあ、食事もろくに取らないで何をしているんだと、少し自戒もしましたが・・・。

誰もついてくることのない旅であることは間違いありません。

2025年8月9日土曜日

晋州ビビンバ


コロナ明けに、韓国で乗り鉄を始めたとき、一番行きたかった場所は「晋州(チンジュ)」でした。

朝鮮半島最南部の、東西を結ぶ中間地点に位置する、内陸部の都市です。

韓国の交通事情については、北のソウルを起点に南北を結ぶ縦のルートについては鉄道網が発達してますが、東西の都市間の鉄路移動は不便で、高速バスを活用するイメージがあります。

ただし、今回は鉄路にとことんこだわりました。

そのため始発の「ソウル」から、新幹線に近い存在である高速列車「KTX」に乗車し、少し前のブログで取り上げた最西南端の主要都市「木浦(モクポ)」に向かい、そのまま宿泊しました。

そして朝一番(と言っても9時21分発)のローカル列車「ムグンファ号」で、晋州を目指したのです。

各駅停車のため到着したのは13時52分、朝からかき氷しか食べてませんので、ガッツリしたものが食べたくてしょうがありません。

駅から市街地が遠いので、珍しくタクシーを使いました。

韓国のタクシーは値段が安くて助かります。

城好きとしては、豊臣秀吉の朝鮮出兵で有名な「晋州城」が市街地に入る手前にあるのですが、先ずは食事でした。

ここには人口34万人ほどの中堅都市とはいえ、韓国で三大に数えられる料理が二つもあるのです。

しかも「ビビンバ」と「冷麺」という、超メジャーなジャンル。

特に、ユッケの入ったビビンバで、もともと大好物なので興味津々です。

「韓国一の名物」とすら書いてある本も目にしました。

その老舗有名店「天鳳食堂」に入店。

さすがに昼どきをとっくに過ぎてましたので、3組くらいしか客はおらず、空いていてラッキーです。

料理より先に、天井と店内の写真を紹介しますが、李朝テイストの内装に感動しました。

以前の韓国は、「古い」よりも「新しい」の価値感が圧倒的に優勢なイメージがあったのですが、古民家カフェといい、懐古主義的なものが芽生えている印象があって嬉しくなります。

「渡る世間は鬼ばかり」に出てくる泉ピン子みたいな恰好の女性が、料理を運んできました。


最期の写真がそれです。

特に説明は不要かと思います。

十分に堪能し、お腹一杯になりました。

この後、気合を入れ直して「晋州冷麵」も攻略しました。

肉のチヂミがチャーシュー代わりに浮かんでいて、量が多かったのですが完食しました。

更に仕上げに、「晋州城」にも行ったのですが、お腹が苦しい。

夏のガンガン照りの中、城内を歩く気にはならず、入り口だけみて失礼しました。

どうも城というよりは、王宮に近いためあまり散策する意欲が沸きません。

乗り鉄の旅なのですが、今回は料理のヒットが多く、グルメツアーの様相を呈してきた次第です。